幕間三

第一話

 わたしは代々続く老舗の薬問屋に生まれ、ふたりの兄に続いて望まれて生まれた娘だった。娘を欲しがっていた母にはたいそう可愛がられ、父にも目いっぱいの愛情を注がれて育った。先代の当主である祖父母にも、顔をあわせるたびにお菓子や人形を買い与えられるほど溺愛され、間違いなくわたしは恵まれた幼少期を過ごしていたと思う。


 異変が起きたのは、五つを過ぎたあたりだった。外を走り回ったあとや、湯浴みのあとなどに息切れを起こすことが多くなり、両親に幾つかの薬を与えられたが一向に改善はしなかった。彼らはすぐにわたしを医者にかけてくれたが、帰ってきた言葉は両親には到底受け入れ難いものだったらしい。


「お嬢さんは、生まれつき心臓に病を抱えておられます。治療法はありません。幻術師にかかって命を長らえるのがよろしいでしょう」


 裏を返せば、幻術に頼らなければ長生きはできない、と宣告されたも同義だった。それでも二十歳まで持つかどうか、と医者が両親にひっそりと告げた。


 その日から、父の態度はがらりと豹変した。


「薬屋の娘のくせに不治の病を患って生まれてくるとは、恥を知れ」


 初めてそのように罵声を浴びせられたときのことは、忘れられない。あんなに優しい声を出す人も、こんなふうに怒鳴ることができるのかと、頭のどこかで現実を受け入れられないわたしが冷静に感心を覚えていた。


 気の弱い母は父に逆らえなかったようで、わたしに直接罵声を浴びせることはしなかったが、明確にわたしを避けるようになった。やんちゃ盛りの兄たちは、父がわたしを虐げるようになると、わたしのことを傷つけてもよいもの、と考えるようになり、わたしの腕に熱湯を浴びせたり、食事にねずみを入れたりした。


 使用人たちも当然、わたしを腫物扱いした。わたしの病のことは公には伏せるように口止めされているようだったが、そのぶん屋敷の中では面白おかしくわたしを噂していた。


 生死の境を彷徨うことも何度かあったが、そのたびに父は体面を気にして幻術師を呼び寄せ、無理やり命だけを長らえさせていた。娘を病で死なせることは、家の名誉に関わると信じ込んでいるらしい。


 十七を過ぎたころには、わたしはほとんど寝たきりの生活を送っていた。骨と皮ばかりになった体には、年ごろの娘らしい健全な美しさはかけらもなく、記憶の彼方にいる祖母よりもずっと老婆ように肌がしわくちゃになっていた。


「あれもそろそろ危ないな。今度湯治に行かせる名目で馬車に乗せて、事故でも起こしておいてくれ。なあに、ちょっとした衝撃ですぐに死ぬだろう。わたしの父より弱っているぞ」


 襖越しに、父が番頭に笑いながら命じているのを聞いたのは、十七の初夏のころだ。「あれ」が何を指しているのかなんて、考えずともわかる。わたしの最後はどうなるのだろうと気にはなっていたが、まさか父に事故を仕立て上げられるとは思わなかった。


 ……これでおしまいか、わたしの人生。


 くだらない、いったいなんのために生まれてきたのだろう。からからの体のどこにそんな水があったのかと思うほど、涙があふれ出してきた。


 わたしが、わたしが何をしたと言うのだ。好きでこの家に生まれたわけでも、好きでこんな心臓を持って生まれたわけでもない。


 蝉の声がうるさいほどに響いていた。生命を燃やし尽くすような音が、鬱陶しくて敵わない。わたしは命を燃やすことも、輝かせることもなく、ここで虐げられていないもののように扱われて死んでいくのだ。


 ……ああ、なんでもいい、生きた証が、生まれた意味が欲しかったな。


 それが友情でも恋でも、絵画や短歌でもいい。「蝶子」がいた証を、誰かの心に刻むことができたらよかったのに。


 その瞬間、じわりと心臓が熱くなり、思わず胸を押さえつける。いつもの発作とは違う、全身から汗を吹き出すような痛みだった。これが、わたしの終わりなのだろうか。


 ……事故で死ぬよりよほどいい。


 あの父の顔を、最後の最後に歪ませてやりたかった。自分たちが開いた店でもないのに、くだらない伝統にしがみついて末娘を見殺しにしようとするこの家に、泥を塗ってやりたかった。


 ……いい気味だ。


 薄く笑いながらこの世の最後を刻みつけるように目を見開いたその瞬間、目の前に、淡く発光するような瑠璃色の蝶が現れた。


「……え?」


 きらきらと鱗粉を振り撒きながら舞い遊ぶその蝶は、まっすぐに縁側のほうへ飛んでいった。明らかに、この世の生き物ではない。これは、今際の際に見る幻覚なのだろうか。


 この世のすべてを呪うような醜い心根とは裏腹に、ずいぶん綺麗なものを見せてくれたものだ。肩で息をしながら蝶が飛んでいったほうをしばらく眺め、それから目をつぶって長い息を吐いた。


「……ざまあみろ」


 笑いながら、恨み言を吐息と共に吐き出す。こんな言葉を呟くだけでもきりきりと胸が痛んで、煩わしくて仕方なかった。こんな体はさっさと捨てて、幽霊にでもなって化けて出てやろうか。


「医者に向かってずいぶんな言いようだ」


 誰に向かって投げかけた言葉でもないのに、知らない青年の声が返ってきて、はっと目を開ける。


 気づけば縁側の外に、見慣れぬ青年の姿があった。わたしと同じくらいの年で、細い縁の眼鏡をかけ、質の良い着物姿で佇んでいる。薄手の羽織は真夏だというのに黒に近いような濃紺で、それでいて汗ひとつかいているそぶりがない。


 青年の肩には、先ほどの瑠璃色の蝶が止まっていた。青年の涼しげな美しさといい、その蝶といい、どちらもこの世のものには思えない。とうとう、お迎えが来たようだ。


「ごきげんよう……死神さん」


 今更死を拒絶するつもりはない。物心がついたときからずっと、わたしのそばで嫌と言うほどその気配を纏わりつかせてきた隣人だ。にこりと笑って出迎えると、青年はわずかに笑みを引きつらせた。


「きみはずいぶん煽りじょうずだね。そんなことを言われると、意地でも治したくなるじゃないか」


 それだけ言って、青年は瑠璃色の蝶とともに縁側に上がり、まっすぐにわたしのもとへ歩いてきた。そのまま無遠慮に布団のそばに腰を下ろしたかと思うと、痩せさらばえたわたしの左手首に青年の指が触れた。脈を、指先で確かめているらしい。


「……触れられるのね」


 てっきり、あの世の使者だと思っていたのに。驚いて青年を見上げれば、彼はくすくすと笑った。


「そっちのほうが幽霊みたいな姿をしておいてよく言うね。……この家の主人は何を考えているんだろう。さっき見たご老人よりきみのほうがよっぽど重症だ」


 使用人たちの噂で祖父が病を患っているらしいことは聞いていた。どうやらこの青年は祖父を診にきた医者のようだ。


「同い年くらいなのに、あなた、お医者なの?」


「こう見えて君より一回り近く年上だろうね。昔から若く見られるんだ」


 青年はにこりと微笑んでから、わたしの下瞼の色や足のむくみを確認した。他の医者と同じような診察をしている。


「治らないのでしょう。わかっているの。……それに、わたしの治療をしてもお父さまは診察代を払わないと思うわ。無駄になるからお帰りになって」


 むしろ余計なことをしてくれたと、父はこの青年を怒鳴り飛ばすかもしれない。何せ、事故に見せかけてわたしを殺そうとしているくらいなのだから。


「確かに完治は難しいけれど、寿命を伸ばすことはできそうだ」


 青年はなんてことないように告げると、そっとわたしの左胸の上に手を翳した。それは、何度かかかった幻術師の先生たちと同じ手つきだ。


 次の瞬間、胸にじわりと暖かな感触が芽生える。それはじわじわと広がっていって、拍動とともにあっという間に指先まで駆け巡っていった。紛れもなくこれは幻術による治療だった。


「え……?」


 明らかに、先ほどまでより息ができている。幻術による治療は何度か受けたことがあるが、こんなふうに楽に呼吸ができるようになったのは初めてだ。


 思わず体を起こし、自分の指先を見つめる。すっかり色が悪くなっていた爪は、ほんのりと桜色に色づいていた。


「これを何度か繰り返せば、まだ数年は生きられるよ。よければ手助けしよう」


 青年は穏やかだがつかみどころのない笑みを浮かべてわたしを見ていた。よく見れば憎々しいほど整った顔立ちをしている。きっと、自分の容姿で悩んだことなどないのだろう。


 しかも生まれながらに幻術の素養があって、医者になるために学校に通う体力も財力もあるときた。神さまとやらがいるのならば不公平だ。彼が持っているもののひとつくらい、わたしに分けてくれてもいいのに。


「……余計なことをしないで」


 劣等感から、気づけば震えるような声を絞り出していた。


 青年が、驚いたようにわたしを見ている。彼のような人間のまわりには、わたしのような醜い心根の者なんていないのだろう。


「治せないのなら、来ないで。……苦しみが長くなるばかりなら、もう生きていたくないの」


 何よりこの青年を見ていると、自分がいかに取るに足らない存在なのか思い知らされるようで、なるべくなら顔を合わせたくなかった。


 それに、幻術による治療には高額な治療費がかかるはずだ。わたしは彼に返せるものを何も持っていない。


「さっき言っただろう。意地でも治したくなると」


 青年の指が、そっとわたしの顎に触れる。そのままずい、と距離が縮まった。彼の長いまつ毛が作り出した影があまりに繊細で、思わず息を呑んで見惚れてしまう。


「それに、あれだけぼくを煽ったきみが、いざ治ったときにどんな顔で恥じるのか見てみたいしね」


 楽しみだなあ、と青年は意地悪く微笑んだ。優しい顔をしてとんでもない嗜虐性を隠している。迂闊に近寄ってはいけない相手だ。


 もっとも、この場合は相手から飛び込んできたのだから防ぎようがないのだけれど。


 ……なんなのよ、もう。


 瑠璃色の蝶とともに現れた彼は、この世を恨んで消えようとしていたわたしにはあまりに眩しすぎる存在だった。

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