第六章 蝶々と鳥籠
第一話
誰もいない廊下を、たまの亡骸を抱えて懸命に走る。ぼたぼたと赤い血がこぼれ落ちて、磨き上げられた廊下を汚していた。
薄暗い廊下の果ては見えない。身を隠せるような部屋も見当たらない。
もう何度、この悪夢に囚われているだろう。どれだけ懸命に走っても、彼は息切れひとつせずにゆったりと微笑んでわたしに手を伸ばすのだ。そうして呪いのような言葉を吐いたあとに、必ずわたしの命を終わらせる。
十回を数えるまでは、私から彼に会いにいっていた。夢の中でも、愛する彼になら話が通じるかもしれないと考えて、愚かにも自分から彼を探しにいっていたのだ。
けれど、無駄だった。どれだけ言葉を尽くしても、許してほしいと懇願しても、彼はわたしを見逃さなかった。彼に殺されるまで、この夢は終わらないのだ。
「お嬢さま? どうしてお逃げになるのです?」
すぐ後ろで彼の息遣いを感じて、ぞわりと寒気がした。すでに息が切れ切れだったが、恐怖から勝手に足が前へ動いていた。どれだけ苦しくても、胸の奥が痛くても、立ち止まるわけにはいかない。殺されたくない。
いつからか吐く息には血の味がまじっていた。この夢は、残酷なほどに何もかもが鮮明だ。匂いも、温度も、痛みも何もかもがぜんぶ、生きているあの世界と何ら変わりない。
無我夢中で走り続けているというのに、背後に迫る足音の近さはまるで変わらなかった。狼が逃げ惑う兎を見て楽しんでいるような、悪趣味な嗜虐性を感じる。わかっている、この夢の中でわたしはずっと彼の獲物だった。
ふいに、たまの血が染みた足袋でずるりと足を滑らせてしまう。元々足音が聞こえるような距離しか稼げていなかったのだ。完全に転ぶ前にするりと彼に抱き止められてしまったことも不思議とは思わなかった。
また捕まってしまった。これでわたしの命はおしまいだ。
心の中ではそう冷静に考えているわたしもいるのに、自覚していない恐怖が体を支配していた。大袈裟なくらいに、がたがたと体が震えている。たまを抱きしめる腕が固まったように動かないからたまを落としていないだけで、とっくに力は入っていなかった。
「かわいそうな猫ですね。お嬢さまに飼われたばかりに、こんなにあっさりと殺されてしまうなんて」
彼の腕がたまの亡骸を奪い、そっと廊下の脇に置いた。わたしがいくら引っ張っても抜けない短刀を彼はいとも簡単にするりと引き抜くと、軽く振って刃先についた赤い血を振り落とした。
もう、逃げる気力も残っていない。襖に寄りかかりずるずると座り込む。まもなくわたしは殺されるのだろう。嫌だ。大好きな彼に殺されるたび、わたしを構成する大切な何かが壊れていくような気がする。
今日は、どうやって殺されるのだろう。大抵はたまを殺したあの短刀で刺し殺されるのだが、稀に首を絞められたり、殴り殺されたりすることもある。それに比べれば、まだ短刀であっさりと殺してくれるほうが楽だった。
「今日のお嬢さまには、どんな傷を差し上げましょうか」
彼はわたしと視線を合わせるようにかがみ込んで、うっとりするように目を細めた。表情だけを見れば、甘い言葉を囁いてわたしの頬やこめかみにくちづけるときの彼と何ら変わりがない。ひだまりのような幸せを汚されているような感覚がして、余計に悔しかった。
がちがちと歯を鳴らしながら、必死に下を向く。これを彼だと思ってはいけない。思い出まで浸食されるわけにはいかない。
これは夢だ夢だ夢だ、そう言い聞かせて、次にやってくる衝撃に備える。彼に殴られ続けたときは本当に悲しかった。鼻の骨が折れてうまく息ができなくなることよりも、目の周りの骨が砕けてすべてのものがぶれて霞んで見えるようになることよりも、彼に殴られている事実そのものが悲しくて仕方がなかった。
どうか、今日は刃物を選んでほしい。それならまだ、耐えられる気がするから。刃物の冷たさは彼の手の温もりを思い出させない。あの無機質な硬さが、あの鋭さが生み出す熱が、この悪夢の中ではむしろ救いだった。
するり、と彼の手がわたしの顎に伸びる。願いも虚しく、彼は今日も素手でわたしを殺すことを選んだようだ。必死に首を横に振りながら声にならない命乞いをするも、彼の美しい微笑みは変わらない。彼を恐ろしいと思いたくないのに、本能が彼を拒絶していた。勝手に涙があふれていく。
彼は懐から小瓶を取り出して手早く呷ると、そのままなんの躊躇いもなくわたしにくちづけた。
彼はわたしを殺すときに必ず、唇にくちづける。本当の彼の唇も知らないのに、この熱の後に耐え難い痛みがやってくるのだと体が覚えてしまった。震えが、勝手に大きくなる。
今日のくちづけは、いつもよりも深く、長かった。口移しで、とろりとした甘い液体を飲み込まされる。ろくなものではないことはわかっていた。触れたそばから、舌や頬粘膜が痺れるような気がした。
変化は、すぐにやってきた。彼が満足げに唇を離したと同時に、喉奥を焼き尽くすような激痛と灼熱感に駆られる。たまの血がこぼれた廊下に倒れ込み、思わず爪を立てて喉を掻きむしった。
彼はかがみ込んだままにこりと笑ってわたしを見ていた。まるで、体が半分潰れてなお死ねない蟻を眺めるような、無垢な残虐さで。
お腹の奥が溶けるような激痛に襲われると同時に、激しく咳き込んだ。咄嗟に口もとを押さえた手にはどす黒い血が付着している。視界はすでにくらくらと歪んでいた。飲まされたものはきっと、たちまち人の命を奪うような劇薬なのだろう。
それを彼も口に含んだはずなのに平然としているのは、ここが夢だからだ。頭の中ではそう冷静に判断しているつもりでいるのに、やっぱり震えが止まらない。
彼が怖い。殺されるのは嫌、くちづけられるのはもっと嫌。
面白いくらいに今のわたしは、あの悪趣味な死神の策略に踊らされている。わかっていてもなお恐れることをやめられない。
再び深く咳き込んで、どろりとした血の塊を吐き出した。同時に、すとんと目の前が暗くなる。凍えるように寒くて、自分の肩を抱きたかったけれどすでにそんな力は残されていなかった。
朔、朔、会いたいわ。
あなたは、こんなふうに苦しんでいないかしら。生きて、笑ってくれているかしら。
眼裏にかろうじて焼き付いている本当の彼の微笑みに縋る。この残像のような彼のかけらが消えたとき、わたしはきっと立ち直れなくなるのだろうとわかっていた。
それもきっと、時間の問題だ。殺されるたびに確実に、本当の彼の姿が見えなくなっていく。もう、夢の中の彼と本当の彼の声は聞き分けられないかもしれない。
こんなときにも涙は、憎らしいことにとめどなくあふれていく。この終わらない悪い夢の中で、わたしはずっと、人魚の涙を生み出す人形でしかなかった。
◇
「っあ、ああああ」
激痛とともに、はっと目を覚ます。浴衣が肌に張り付くほど、全身に脂汗をかいていた。
瞬きをすると、ぼろぼろと涙が落ちていく。お腹の奥を溶かすような痛みは徐々に引いていったが、夢の中で命を落とす寸前の光景がまだ鮮明に目に焼き付いていた。目を閉じればいっそう、彼のあの残虐な微笑みが濃くなって、本当の彼の面影がかき消されていく。
「――お目覚めですか、お嬢さま」
彼によく似た声で、死神はくすりと笑った。
無理やり体を起こし、ぐらぐらと揺れる視界の中で咄嗟に手もとにあった医療器具を死神に向かって投げつける。それは人魚の涙を溜めていた小さなお盆だったようで、薄暗い部屋の中にきらきらと虹色の光が散っていった。
このところの死神は、彼を騙るような振る舞いをするからたちが悪かった。両手を寝台についてふらつく体を支えながら、きっと死神を睨みつける。
「それ……やめて、って言ったはずよ……」
「そんなに怒らなくても」
肩をすくめて、死神は笑う。わたしの目いっぱいの抵抗を、何とも思っていないのだ。むしろこの状況を楽しんでいるかのようなそぶりすら見せている。
本当ならばもう一撃加えたいところだが、体を支えきれず、情けなくも寝台に倒れ込んでしまう。起きている間は体がずっと火照っていて、熱に浮かされるような感覚にとらわれていた。おかげでまともな生活はできていない。
「ほら、消耗しているのにろくに食事をとらないからそうなるんだよ。夢を見るのは体に負担がかかるんだから、ちゃんと食べないと」
まるで食事を厭う患者をしかる医者のような口調で、死神はわたしのそばに果物を置いた。食べやすく一口大に切られたりんごに、はちみつがかけられている。いざというときに逃げ出すためにも食べるべきだと思うが、夢を見たあとはどうしても何も口にする気になれなかった。
りんごから顔を背けるように寝返りを打とうとしたところで、ふいに死神に引き止められた。冷たい手が、わたしの首もとに伸びたのだ。
死神が、直接わたしに触れてくるのは珍しかった。今のところ、直接的な暴力を受けたことはない。おそらく、わたしが悪い夢を見て流す涙で満足しているのだろう。あの薄水色の小箱に詰めれば一日でいっぱいになるほどの涙を流しているのだから、それも当然かもしれなかった。
だからこそ、突然にわたしに触れてきたこの手が何をするのかわからなくて不気味だった。反射的に身をこわばらせていると、死神は治療を怖がる子どもを安心させるかのように柔らかく笑った。
「別に怖いことはしないよ。――ちょっと声をもらうだけ」
「え――」
それはどういうことか、と問い返すよりも先に、喉が押しつぶされるような重苦しさを感じた。続いて先ほどの夢の中で味わった痛みにも似た熱が流れ込んでくる。
思わず死神の手から逃れようと身を捩ったが、首を押さえつけられているせいで動いたぶんだけ息ができなくなるだけだった。
「っ……!」
枕を握りしめながら、あまりの痛みに思わず絶叫する。
だが、声は出なかった。叫ぼうとしても、死神を罵倒しようとしても、息が漏れるばかりで声にならない。喉もとに帯びた熱は徐々に引いていったが、声は戻ってこなかった。
「ごめんごめん、痛かったかな? すぐに馴染むよ、大丈夫」
なだめるようにわたしの頭を撫でる手から、咄嗟に身を引く。いずれ殴られるくらいの覚悟はしていたが、声を奪われるだなんて思ってもみなかった。
あまりに不気味で取り返しのつかない事態に、がたがたと体が震える。いちど止まったはずの涙は再び流れ出していた。
「ぼくだってこんなことしたくなかったよ? でも……悪い夢を見て叫ぶきみの声に、あの方が気づいちゃったから」
また「あの方」だ。死神が人魚の涙や心臓を集めるのは、おそらく「あの方」のためなのだろう。それを察することはできても、「あの方」が何者なのかはわからないから、結局死神の目的は不透明なままだ。
……でも、近くにはいるのね。
わたしが閉じ込められている部屋の外のことははっきりとはわからないが、死神がこの部屋を出入りするときに硬い床を歩くような足音が響くことや、暖かな食事を運ぶ設備があるあたり、おそらくここはある程度の大きさがある建物なのだと予想していた。わたしの泣き叫ぶ声に気づいたということは「あの方」も死神とともにここに住んでいるのかもしれない。
障壁がまたひとつ増えてしまった。逃げる機会があったとして、「あの方」に見つかってはいけない。当然この死神と目的を同じにする人間なのだろうから、わたしを捕まえようとするだろう。
幻術師でもないわたしが、死神と「あの方」とやらの目を掻い潜って逃げることなど、可能なのだろうか。気丈に構えていようと思うのに、じわり、とまたすこし絶望に心が蝕まれてしまった。
「ほら、りんご食べなよ。はちみつは喉にいいよ」
死神はにこにこと微笑んでわたしにりんごのお皿を差し出した。
わたしの喉を焼いたのは死神自身だというのに本当に悪趣味にも程がある。もっと悪いのは、彼はわたしを揶揄うためではなく、おそらく心からの善意でりんごを勧めているであろうところだ。やはり、まっとうな感性の持ち主ではない。
今度こそ死神に背を向けて、壁を向くように寝返りを打つ。背後で「せっかく剥いたのに」といじけるような声が聞こえたがもちろん無視だ。声だけ聞くと朔に似ているところがまた厄介で、思わず耳を塞いだ。
「じゃあ、これ、貰っていくね。いつもありがとう」
これ、とは人魚の涙のことを指しているのだろう。わざわざ感謝を告げるのが却って不気味で、耳を押さえる手に力を込めた。
しばらくして、人の気配がなくなったのを機にそっと手を離す。燭台の蝋燭の炎が揺らぐ音が聞こえそうなほど、しんと静まり返っていた。
燭台一本で照らされるだけのこの部屋では、今が昼なのか夜なのかもわからない。それがいっそうわたしを人間らしい生活から遠ざけている気がした。食欲がないのは、きっとこの暗さのせいもあるだろう。
そっと、喉もとに手を当ててみる。先ほど死神に触れられたときに感じた痛みも熱も、嘘のように引いていた。
「っ……」
けれど、やっぱり声は出ない。代わりに吐息が漏れて、はくはくと唇が震えるだけだ。
――ぼくは、お嬢さまの声が好きです。もっとお聞かせください。
甘えるようにわたしの膝に縋りつきながら、そう強請った彼を思い出して、息が詰まる。
勝手に、涙が落ちてきた。悲しさや寂しさの型に押し込められないほどの、名前のない衝動に駆られて、ひとりでに涙が流れるのだ。
……朔、朔、会いたいわ。
生きていてほしい。怪我に苦しんでいないでほしい。
夢の中でも願ったそれを、再び心の中で繰り返す。もう、口に出して願うことはできなくなってしまった。
次は、何を奪われるのだろう。彼がくちづけてくれたこの髪か、彼と繋いだこの手か、彼のもとへ逃げ出すためのこの足か。
どれもあの死神なら奪いかねないと思う。けれど決して、わたしを死なせてはくれないのだろう。それが、何よりの絶望となって両肩に重くのしかかる。
そこまで考えて、は、と薄い笑みがこぼれた。
いつからわたしは、死に救いを求めるようになっていたのだろう。
そんなに追い詰められているなんて、すこしも思っていなかった。あわよくば逃げ出して、この足で彼のもとへ帰ろうと意気込んでいたのに。
……怖い。
ある瞬間にふっと、すべて諦めてしまいそうで恐ろしい。自暴自棄になんてなりたくないが、こんな精神状況ではまったくありえないとは言えない気がした。いくら強い信念を持っていても、帰りたいと願っていても、心が折られるときはあっさり折られるのだ。
きっとわたしはもう、ちょっとしたきっかけでそうなってもおかしくはない状況にあるのだろう。実感はなくても、それを自覚できただけまだ幸運だった。
……朔。
彼の名を心の中で目いっぱい叫びながら、自分で自分の体を抱きしめる。どれだけ深呼吸しても涙が止まってくれない。それが真珠に変わっていることが、すでに心を手放しつつある証のようでなにより不気味でならなかった。
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