第二話
久しぶりに足を踏み入れた浅海家は、線香の匂いがした。
「ああ、そうそう。今朝方、父が死んだんだ。ずいぶん呆気なかったよ」
思い出したように、兄さまは告げた。心なしか、いつもより機嫌がよさそうだ。
「一応、世間体を考えて簡易的に葬儀をすることにしたんだ。弔問客もいないから、明日の昼間に火葬する予定だよ」
兄さまは分家の親族たちすら招かずに、葬儀を終えるつもりらしい。一族から愛されている父ではなかったから反対する声も上がらないだろうが、あっけなく寂しい最期だ。
「兄さま……。わたし、喪服を持っていません」
幼いころに、母の葬儀で喪服を着た以来だ。当然、そのころの着物など着られるわけがない。
「きみがあんなやつの喪に服す必要はないだろうけれど……きみの母上の喪服がとってあるはずだ。それを着るといい」
こくりと頷いて、離れへつながる廊下を踏み出す。だがすぐに、後ろから兄さまの手に手首を掴まれた。
「どこへいくの」
「……離れへ。わたしの部屋は、あちらですから」
「あんな寂しいところへ行く必要はないよ。兄さまの部屋においで」
「でも……」
いくら兄妹でも、使用人たちはどう思うだろう。
だがその迷いや常識への執着をかき消すように、兄さまに抱きすくめられてしまった。
「千花。……たぶん、ぼくももう長くない。一緒に眠れる夜も数えるほどしかないだろう。きみと、一緒にいたいんだ」
「兄さま……」
命の期限を持ち出されると、世間体などどうでもよく思えてきた。
そもそも取り繕いたい相手ももういないのだと思い出して、そっと兄さまの肩に頭を預ける。生乾きの髪を、兄さまの手が何度も梳いてくれた。
「おいで、着替えを用意させよう」
兄さまに導かれるがままに、ゆらりと足を踏み出す。死と薬の匂いがする屋敷の中で、意識がどんどんと鈍っていくのを感じた。
◇
「いいか、お前は千花の猫だ。それ以上でもそれ以下でもない」
たまと一緒に鞠で遊ぼうと彼の姿を探していたとき、離れの建物の陰で底冷えするような声が聞こえた。まるで無機物を相手にするような、わずかな揺らぎもない声だった。
「くれぐれも思い上がるなよ。人間であれば、お前は千花と同じ空気を吸うのも許されない身分なんだ。猫の代わりだから、千花に触れることが許されているだけだ」
あまりに冷たい声だから、誰が話しているのかよくわからない。鞠を両手に抱えたまま、じっとその声に耳をそばだてる。
「お前が身のほどをわきまえぬ振る舞いをしたら、すぐにでも殺してやる。生まれたことを後悔するような死に方をさせてやろう」
誰かはわからないが、どうやらたまに対して意地悪をしているようだった。いてもたってもいられず、建物の影に向かって声を張りあげる。
「やめて! たまをいじめないで!」
そのまま声がしたほうへかけていき、離れの影に足を踏み入れる。
そこには、たまひとりの姿しかなかった。
「あれ……? だれか、あなたとお話ししていなかった?」
彼はいちどだけ、本家に繋がる通路を眺めたが、長いまつ毛を伏せて静かに微笑んだ。
「いいえ、お嬢さま。……ここには誰もおりませんでした」
「そう……?」
忘れられないような冷たい声だったが、確かにあんな声の人物に心当たりはない。なんだか、急に身の毛がよだった。
「も、もしかして、お化けだったのかしら……確かに声が聞こえたのだけれど、あんなひと、お家にいないもの……」
思わずぎゅう、と鞠を抱きしめて肩を震わせる。ただでさえ住まいとしている離れは寒々としていて恐ろしいのに、お化けなんていたら恐ろしくて眠れなくなってしまう。
「あれはお化けなんかよりよっぽどたちの悪いものですよ。しかもずいぶんお嬢さまのことが好きなようです。……下手すれば一生取り憑いてくるかもしれませんね」
吐き捨てるように彼は笑った。その瞳には、知らない衝動を秘めた暗い光が揺らいでいる。
「え……やだやだ、怖いよ、たま。とってとって」
お化けよりたちの悪いものがついているなんて、冗談じゃない。思わず鞠を手放し、彼にしがみついた。
小さな手が、そっとわたしの後頭部に回り、ゆっくりと背中へ下された。そのまま何度か背中を撫でられたあと、ぎゅう、と苦しいくらいに抱きしめられる。
「そうですね、怖いですよね。――いつかあいつの手の届かない場所へ、ぼくが連れていって差し上げますからね」
「ほんとう? ありがとう、たま! 大好き!」
わたしもまたお返しと言わんばかりに、彼の体を抱きしめた。隙間がないくらいぴったりと密着すると、とても安心する。ともすれば眠くなってしまうくらいだ。
「あのね、鞠を持ってきたの。いっしょにあそびましょう」
「はい、千花お嬢さま」
抱きしめあっていた腕を緩めて、代わりに手を繋ぐ。彼が足もとに転がっていた赤い鞠を拾ってくれた。
ざあ、と生ぬるい風が吹き抜ける。その風にじっとりと絡みつくような視線を感じた気がしたが、彼の手があれば不思議と怖くはなかった。
◇
「――花、千花」
頬を掠めるように撫でられ、はっと目を覚ます。瞼を開けた途端に、端正な微笑みが飛び込んできた。兄さまだ。
「あ……兄さま」
「おはよう、千花。うなされてたけど大丈夫?」
するりと兄さまの腕がお腹の上に回って、布団ごと抱き寄せられる。指先で前髪を撫でられてくすぐったい。
「はい……」
兄さまに言われるがままに、昨日は結局同じ部屋で休んだのだ。布団は離して敷いた気がするが、わたしの寝相が悪かったのかずいぶん兄さまに近づいてしまったらしい。
視界の隅で、人魚の涙がゆらゆら揺れる。兄さまの手首には、この家を出るときにわたしが差し上げた人魚の涙が組紐で括り付けられていた。紐はずいぶん擦り切れているから、おそらくずっと身につけてくれていたのだろう。
大きな手に額を撫でられ、心地よさに目を瞑る。ふ、と兄さまが慈しむように笑うのがわかった。わたしは兄さまのこの笑い方が好きだ。
「まだ眠そうだね、かわいそうに。そろそろ父の遺体を焼く時間だけど、きみは休んでいるかい?」
「……いいえ、起きます」
兄さまの声で紡がれると、不吉なことも物騒なことも、罰が当たりそうな物言いも、なんだか柔らかく聞こえてしまう。兄さまの声は心を鈍くする麻薬のようだった。
……でも、夢の中で聞こえたあの声は。
あれは、幼いころの記憶だ。たまと会話していた相手はお化けだったのだと信じ切っていたけれど、今ならなんとなくわかる。彼にあんな意地悪な言葉をかけていたのはきっと、兄さまだったのだろう。
あの底冷えするような恐ろしい声と、この麻薬のような優しい声。どちらが素の兄さまなのかわからない。障子から透ける朝日を受けた横顔は、まるで霞の中の精霊のように儚げで、人間らしい欲とも悪意とも無縁の存在に見えた。
「どうかした? 千花」
本性が何であったとしても、兄さまがいてくださってよかった。わたしに残された生きるよすがは、もう兄さましかいない。この儚く優しいひとがついにいなくなったとき、わたしは――。
「なんでもありません、ただ……兄さまのお顔を目に焼きつけていただけです。――はぐれても、ちゃんと見つけ出せるように」
深い常闇の中でも、おそばへ駆けつけられるように。
わたしも兄さまも、命を終えたあとはきっとお父さまと同じ場所へ行くのだろう。お父さまに再会するのはごめんだけれど、兄さまのことは必ず見つけ出したかった。
彼は、たまはきっと、わたしと同じ場所にいない。彼は温かくていっさいの苦痛のない極楽に行くはずなのだ。そこにはきっと一代目のたまもいて、彼はきっと一緒に遊んで可愛がってくれるだろう。
「……っ千花」
兄さまはたまらずと言った調子でわたしを抱き上げた。痩せ細った腕でも、それくらいの力はあるらしい。そのままそっと、あやすようにこめかみにくちづけられる。
「そんなこと、心配する必要はない。……ぼくは絶対に、千花の手を離したりなんてしないから」
暗い決意のこもった言葉だった。なんとなく、兄さまがわたしをどうしたいのかこの一日でわかってしまった気がする。
……それでも、いいわ。
それが、兄さまの望みなら叶えたいと思う。今のわたしにできることはきっともう、それくらいしか残されていないのだから。
「ありがとう、兄さま」
そっと、彼の着物にしがみついて顔を胸に埋める。兄さまからは昔と何ひとつ変わらない、薬とひだまりの匂いがした。
お母さまの喪服に袖を通し、兄さまとともに火葬場へ向かう。名家の当主の葬儀とは思えないほど簡易的に、お父さまの棺は燃やされた。
煙突のついた火葬炉から、もくもくと鈍色の煙が上がっている。空にも灰色の雲が張り詰めているせいで、煙はすぐに見えなくなってしまった。
「ああ、ざまあみろ。やっと死んでくれた!」
兄さまは煙を見上げながら、いつになく晴れやかに笑っていた。こんな笑い方もできるのだ。
わたしも同調するように静かに微笑もうとしたけれど、うまく頬が動かない。
――千花、貰いもののお菓子をやろう。千花は羊羹が好きだからな。
――お前のお母さまは、お空にいって休んでいるだけだ。ほら、こうすればお空が近くなったろう。お母さまがお前の顔をようく見られる。
父はそう言って、いちどだけ羊羹を切って食べさせてくれた。母が亡くなった直後、泣きじゃくるわたしに肩車をして青空を見せてくれた。
どちらも、気まぐれな優しさだったのだろう。本当は羊羹なんて好きではないし、肩車は不安定で怖かった。
でも、忘れられない。どれだけ殴られても、寒空の下放置されても、目の前でたまを殺され、彼を傷つけられても、大した意図もなく与えられたその優しさが消えてくれないのだ。親というだけで何年経ってもわたしの心に居座り続けるのだから、本当に厄介だ。
寂しいとは思えない。ただただ、虚しかった。煙になった姿を見ても晴れやかな気持ちにはなれず、かと言って冥福を祈ることもできない。最後の最後まで鈍色の感情を強いられて、心にまたひとつ錘をつけられたような心地だ。
「どうしたの? 千花。嬉しくないのかい?」
兄さまもきっと、わたしの知らないところで父にぞんざいな扱いを受けていたのだろう。母が亡くなってからの父は、浅海家の誰のことも愛していなかったのだから。
「……兄さまが笑えとおっしゃるのなら、笑います」
「じゃあ、笑顔を見せてくれ」
言われるがままに、口角を上げる。愉快な気持ちはひとつもなかったが、兄さまは満たされたように溜息をついて、わたしの額に自らの額をすりあわせた。
「ああ……やっとふたりきりになれたね、千花」
「……ええ」
とうとうふたりきりに、なってしまったのだ。
わたしと兄さまの想いは、同じようでいつも薄紙一枚ぶんくらい違う。聡明な兄さまがそれに気づいていないはずもないというのに、違いはなかったことにして、兄さまと同じに染められてしまう。
「千花。久しぶりに、別邸に行こうか」
「……別邸へ?」
浅海家には、本邸のほかに海辺に別邸がある。小さいが、繊細に手入れをされ飾りつけられた可愛らしい屋敷で、元は兄さまのお母さまが囲われていた場所だった。兄さまのお母さまが亡くなってからは、売却が検討されていたはずだ。まだ浅海の所有物であったことに驚きを隠せない。
「……わたしが行っても、よろしいのでしょうか」
兄さまのお母さまは、父の妾という立場であり、わたしのこともお母さまのことも敵視していた。もしも生きていらしたら、別邸にわたしが足を踏み入れることは許されなかったに違いない。
「いいんだ。ぼくが幼いころ過ごした場所を、最後にきみにも見てもらいたい」
最後という言葉を、躊躇いもなく口にする兄さまはどこか不穏だった。けれど今更それを指摘するつもりもない。
「それでは……ぜひお邪魔したいです」
そっと兄さまの手を握って頬を緩ませる。これからきっと、そこはわたしにとっても特別な場所となるのだろう。
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