第二話
悲鳴が聞こえた現場は、そう遠くはなかった。駆け足で五分ほどの、桜並木が少しひらけた馬車の停留所から悲鳴が上がっていたらしい。
豪華な白塗りの馬車を囲むように野次馬ができている。周りの心配そうな声を聞く限り、問題はまだ解決していないようだ。
「どうも、俺たちは幻術師だが何かあったのかな?」
桜木さまが、馬車を取り囲んでいた人々に事情を聞き始めた。その様子を、彼はやはり気乗りしなさそうに眺めている。
「絶対に桜木ひとりで手が足りる案件ですね。一瞬だけ幻術の乱れを感知したのは確かですが、大したことにはなってないでしょう。せいぜいあの馬車の扉が開かないとか、車輪が動かなくなったとか、そのくらいですよ」
彼はため息混じりに馬車を見つめ、わたしの隣で腕を組んだ。
「幻術師だと、そんなこともわかるの?」
「術具が用いられているものの問題であれば、なんとなく」
さらりと言ってのけるが大したものだ。彼には、きっとこの世界がわたしよりもずっと鋭敏に鮮やかに見えているのだろう。
「月雲、馬車の術具の暴走らしい。扉が開かないんだって」
一通り話を聞いてきたらしい桜木さまが、変わらぬ調子で告げる。彼の予想通りの結果だ。
「俺ひとりでも足りちゃいそうだな。奥さんと戻ってるか?」
「いい、ここまで来たなら手を貸す。……お嬢さまはこちらでお待ちください」
最後まで乗り気ではなさそうだが、見捨てることはしないようだ。野次馬たちをかき分けるようにして、ふたりは馬車へ向かっていった。
「あれって、月雲家の幻術師さまじゃ……」
「隣にいるのは桜木さまだろ? 運がいいねえ、帝都でいちばん有名な幻術師たちを見られるなんて」
「すてきだわ」
あからさまに騒いだりはしないものの、囁き声には彼らへの憧れが滲み出ていた。先ほど彼はああ言ったが、やはり道ゆく人々は彼を眺めて噂していたのだろうと思う。
彼は馬車の扉の前に歩み寄ると、いつか部屋の灯りを消したときのように扉に手をかざした。そうして何事もなかったかのように扉を開ける。周囲から、おお、と声が上がった。
「きゃ……」
馬車の中から体勢を崩しながら出てきたのは、美しい竜胆色の着物を纏った令嬢だった。まとめ髪ではなく、髪の上半分だけをまとめて可愛らしいレースのりぼんをくくりつけている。あれが今、帝都で流行っている髪型だとりんさんから聞いたことがある。
馬車から落ちそうになった令嬢を、彼がなんなく受け止める。笑顔ひとつ見せないが、令嬢の肩を支える仕草はとても丁寧だった。
「大丈夫ですか、気分が悪くなっていなければよいですが」
淡々と、怖いくらいの事務的な声で彼は令嬢に問いかける。
あの様子では令嬢が怯えてしまうのではないかと思ったが、要らぬ心配だったようだ。令嬢はたちまち頬を赤く染め、ぽうっと見惚れるように彼を見上げていた。
「いえ……幻術師さまのおかげで、平気です」
鈴を転がすような可憐な声だった。それなのに、馬車から離れたわたしのところまでよく通る澄んだ声だ。令嬢中の令嬢らしい雰囲気の持ち主だった。
「術具の不具合だな。扉だけでなく車輪もおかしいぞ。お嬢さん、家紋を見る限り雨宮家の御令嬢だろ? お抱えの幻術師は何してんだ?」
桜木さまがぐるりと馬車を点検してきたようで、ずけずけとものを言う。令嬢は軽く頬を赤らめたまま、気恥ずかしそうにまつ毛を伏せた。
「実は……この間、里へ帰ってしまってから、代わりの者が見つかっていないのです。……もし、よろしければあなたさまにお願いできないかしら」
令嬢は彼を見上げて潤んだ瞳で懇願した。何をしていても可愛らしいひとだ。
「あいにくですが、これ以上妻と過ごす時間を減らしたくないので他を当たってください」
わずかな迷いもなく彼は言い放つ。彼の隣で桜木さまがくつくつと笑った。
「あきらめなよ、お嬢さん。彼は天下の月雲家の当主だ。いくら雨宮家でもお抱えにはできない。こいつにしかできない仕事が他にありすぎるからね」
桜木さまは親しげに彼の肩を抱いた。そのそばから、彼は容赦なく桜木さまの腕を振り払っている。
「まあでも、このままじゃ帰れないだろうね。馬車の修復は手伝うよ。お代は後日幻術師の本部に送ってくれればいいから」
幻術師に馬車の修理を依頼するのはそう安くない。人魚の涙で言えば一粒は必要になるだろう。そのお代の回収まできちんと頭に入れている桜木さまは、立派な商売人でもあるようだ。
「勝手に決めてくれたものだな」
彼はため息をつきながらも、さっそく扉に手をかざしていた。どう見ても、乗り気ではないのは変わらないままだ。
「どうしたんだよ、月雲。いつもはもっとやる気あるのに」
「休日に駆り出されて喜ぶ奴がどこにいる」
「ははーん、さては奥さんとの時間を邪魔されたのが気に食わないんだな。可愛い奴め」
桜木さまは時折彼を小突きながらも、車輪に手をかざしていた。詳しくは見えないが、ねじが閉まったり、歯車が噛み合うような音が時折聞こえる。馬車に設置された術具を修理しているのだろう。
「すごい! 幻術師さまだ!」
そこへ、人々の中から五歳くらいの少年が飛び出してきた。ちょうど桜木さまが手をかざしている部分に向かって、突進していく。
「え? 子ども? 危な――」
桜木さまが戸惑いを見せた矢先、今まさに桜木さまの目の前に飛び出そうとしていた少年を、彼の手がさらった。
同時にぼたぼたと、地面に赤いものが落ちる。何かは、すぐにはわからなかった。
「……危ないから近づくな、ご両親のところへ戻れ」
冷たく聞こえる物言いだったが、少年と視線を合わせるように彼はかがみ込んでいた。遅れて、少年の両親らしき男女が飛び出してくる。
「申し訳ございません! 幻術師さま!」
少年は驚いて何も言えないようだ。両親に抱き止められ、呆然と彼を眺めている。
「幻術師さま……お手が……!」
ざわめきが急に大きくなる。先ほど赤いものが見えたが、少年が怪我をしている様子はない。
……ということは、彼が?
気づいたときにはふらり、と歩き出していた。
吸い寄せられるように足を動かすわたしに、自然と人々が道を譲ってくれる。すぐに、彼のもとまで辿り着いた。
「お嬢さま?」
ふらりと目の前に現れたわたしを、意外そうに彼は見上げていた。彼の右手からは、ぼたぼたと血が落ちている。かなり深く切れているようだ。
「傷を見せて……!」
地面に膝をついて、彼の右手をそっと持ち上げる。手の甲が、大きく裂けていた。そこからどくどくと血が溢れ出している。
「っ……」
咄嗟に帯留を解いて、彼の右前腕を縛る。痛かったのかわずかに呻き声が聞こえて、わたしまで胸が抉られるような心地がした。咄嗟に、彼の頭を撫でる。
「痛い、わよね。大丈夫、大丈夫よ……早くおうちに帰りましょう。お医者に見せなくちゃ……」
震えながら彼の手に触れていると、悲しくてたまらなくて涙がにじんでしまった。堪えきれず、涙の粒は頬を伝って落ちていく。
咄嗟に、彼はわたしを周囲から隠すように引き寄せると、半ば強引に顔を胸に埋めさせた。嗅ぎ慣れた優しい桜の香りに、血の臭いが混じっている。
「お嬢さま、参りましょう。驚かせて申し訳ございませんでした」
彼は外套でわたしを包み込むように隠すと、左腕で肩を抱きながら歩き始めた。そのままよろよろと彼についていくことしかできない。
「月雲! ここにいろよ、その傷も治してやるって!」
桜木さまの呼びかけを無視して、彼は黙々と歩き続けた。
彼の外套に隠されるようにして歩いているせいで、周りの様子は見えない。ふっと暗くなり、どこかの木陰に入ったらしいところで、ようやく彼は足を止めた。
そこで、苦しいほどに抱きしめられていた力がようやく緩められる。体を離すと、ふたりの間に引っかかっていたらしい人魚の涙がぽろぽろと落ちた。
「お嬢さま、あんな人前で泣くなど何を考えていらっしゃるのです。……涙の価値に気づき、お嬢さまを狙う輩でも現れたら……ぼくは生きた心地がいたしません」
心底心配そうに、彼は深い溜息をついた。今つらいのは彼なのに、何を言っているのだろう。
「わたしのことなどどうでもいいわ。早く手を治療しなくちゃ……!」
「それこそこの程度の傷、どうでもいいです。お嬢さまが泣いていることに比べれば」
気づけばわたしたちの周りには、虹色の光を反射する真珠がばらばらと落ちていた。自分で思っているよりも、ぼろぼろと泣いていたらしい。
「でも……あなたはよくわからないひとですね。こんな傷で涙してくださるなんて。――あのときは、泣きも笑いもしてくださらなかったくせに」
最後の言葉には、確かな憎悪が込められていた。鋭い薄水色の瞳に捉えられて、一瞬息ができなくなる。
あのとき、がいつを指しているかなんて考えずともわかる。父が、わたしの目の前で彼を刺したあの日のことだ。
「それ、は……」
「ここにいたのか、月雲。そんな怪我で無茶しちゃだめだって」
軽く息を切らした桜木さまが駆け寄ってくる。馬車の修理を終えて追いかけてきてくれたようだ。
「このくらい平気だ」
彼はぶっきらぼうに答えた。まだじわじわと血が滲んでいるというのに、何が平気なのだろう。
「俺の不注意で怪我したんだから、流石に後味悪いよ。……それに、お前自分で自分の怪我治すの苦手だろ」
桜木さまは、本気で彼を心配しているようだ。だが彼は苛立ったように桜木さまを睨みつける。
「余計なことを言うな」
「悪かったって。……とにかく、場所を移そう。ここからだと、月雲の屋敷が近いよな。馬車、どこかに停めてあるんだろ? 早く行こう!」
桜木さまの決定に、彼は心底うんざりしたように溜息をついた。同僚の手を煩わせたくないのかもしれないが、今は桜木さまに従ったほうがいいだろう。
「桜木さま、お願いします。ご案内いたします」
ふたりを先導するように、ぱたぱたと歩き出す。桜の花びらが、場違いなほど優美にひらひらと舞っていた。
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