承16:この雨がやんだ空を見たいから

 『歌手になれそう』と、そう言った彩の声は上ずっていた。しかし、彼女の境遇をよく知る絵梨奈にはあまりに唐突な話で理解が追いつかない。


「その時、彩のバイト先では生演奏もする居酒屋みたいなところって聞いてたの。そこでたまに歌わせてもらってたらしいんだけど、ある日その居酒屋に来たのがゴンドウだった」


 その話を聞いた時、サクラはちらりと石津加を見上げた。その居酒屋、おそらく聞き取りの話に出ていたスナックではないだろうか。


 再び絵梨奈の方に意識を戻して彼女の話の続きに耳を傾けた。


「『君の歌声は素晴らしい。ぜひ歌手デビューしないか?』って言われたらしくて。でも、ぽっと出じゃあ箔が付かないし、周りも納得させられないから、オーディションから来て欲しいって言われたんだって」


 今思えば、オーディションと言いながら彼女を歌手にするための出来レースだった。


 しかしいきなりどこぞの事務所に来いなどと言われるよりも、大勢が参加するオーディションを勧められる方が怪しさも少ない。そういうものかと思えた彼女は、ならばそこで勝ち上がって見せる方が正攻法なのではと思えた。


 なにより絵梨奈は、母親の不調や夢を諦めようとしていた状況が重なり暗い顔が続いていた親友の久しぶりに見た喜びにあふれた表情に、自らも高揚に似た感情を覚えた。


 熱量のこもった彩の顔と声は彼女の本気だ。そう思えたことも相まって、彼女はその話を後押しした。


 ——すごい! そんな人に会えたのラッキーだったね。受けてみなよ!

 ——もしデビューしたら応援してくれる?

 ——もちろん! だって私は彩のファン第一号だもん。


 喫茶店で声を軽やかにして二人は笑い合った。高校卒業そして就職という差し迫った人生のイベントに疲れを見せていた若き高校生たちには、明るい未来に見えた。


「でも——」


 話を続けようとした時、絵梨奈はそこで言葉を区切った。


 外で打ちつける大雨、遠くでゴロゴロと低く響く雷鳴。あの音はじきにこの近くまで来るのではないかと不穏な気配を感じさせる。


 静まり返る店内。ランチタイムを終えた店内にはもう彼らしかいなかった。


「——いや、ここからはもらった方がいいかな」


「見る?」


 声のトーンを落とした絵梨奈の言葉にサクラが質問でかぶせた。彼女はサクラの方に顔を向けると頷いて見せた。


「あの男が最低最悪だという証拠よ。でも、今は持ってないの。一度取りに帰る必要があるわ」


「それなら早い方がいい。今日中に持って来れるか?」


 石津加の問いに、絵梨奈は再びうなずいた。


「ええ、問題ないわ。彩のため……あの男を地獄に突き落とすためなら、なんだってする」


「その彩さん、ちなみに今は……?」


 話題の中心になった彼女の安否を聞かないわけにはいかない。サクラが最後まで言わずとも彼女にその意図は十分に伝わった。


「生きてるわ。少なくとも、二月前までは現世にいた。たぶん、今も生きてると思う。だから直接話を聞くのは無理よ」


 絵梨奈のおおよその年齢が二十歳半ば。ゴンドウ氏が亡くなって一〇年なので、現世の彩は少なくとも三十歳半ばということになる。


 しかし、一〇年経っても親友の様子を見に行っていることに彼女は少なからず驚いた。現世に一時帰省しても、こちら側に来た帰還者たちは基本的にはそこに暮らす人々に干渉してはならないと言われている。本当に様子を見るためだけに行っているのだろう。


 サクラにはその流れた時の長さと彼女たちの深い絆を想像するしかできなかった。


「それに、わたし何となくあいつの曲嫌いなんだよね。明るい曲なのに、どこかうすら寒いっていうか——気味が悪いカンジ。なんであんなに流行ってるのか意味わかんない」


 ゴンドウ氏を嫌悪していることに輪をかけたバイアス偏見かもしれないが、絵梨奈はそう言って付け加えた。原因はいろいろとあるだろうが、これまではいなかったアンチファンのようだ。


「じゃ、そういうわけだから私は一度帰らせてもらうわね」


 そう言うと絵梨奈は席を立ち上がった。その拍子に後ろに下がった椅子が店内に音を響かせる。


 すると、少しのあいだ額を指先でかきながら、座っているサクラに視線を落とした。


「その——悪かったわね、いろいろと」


 サクラは何のことかと二度まばたきをした。


「だから、その、襲って悪かったわ。ごめんなさい」


「……あっ。ああ! いえ、結果的にケガもなかったですし、気にしないでください」


 開いた手のひらを胸の前で振ってみせた。びっくりはしたが、ケガはない。


「お前はもう少し気にしろ」


 石津加はそんなサクラを見てため息と共にあきれた様子で首を振った。

 サクラ自身、絵梨奈の話に心を寄せている間に襲われたことなど忘れていたのだ。


「いいの。結果オーライ。石津加さんが助けてくれたし」


 二人の様子を見ていた絵梨奈はふっと笑うと、そばに置いてあった雨ガッパに袖を通した。


「仲良いね」


「 「 良くない! 」 」


 二人の声が重なる偶然に絵梨奈は目を丸くしたあと声を上げて笑った。かつての親友と過ごした温かな日々を思い出す。


 目尻にこぼれた涙をそっと拭うと、今度は椅子に立てかけていた傘を手に取った。


「それじゃ、夕方までには戻ると思うから。話はそれから」


「うん、お願いします!」


 カフェの出入り口を青葉が開けてくれている。サクラが絵梨奈をそこまで見送ると、雨ガッパを来た彼女は雨の弱まった外へと一歩足を踏み出した。


「あ——絵梨奈さん!」


 小雨の降る中、傘をさした絵梨奈がこちらを振り返る。


「ありがとうございます! 話してくれて!」


 その言葉に、彼女は傘の下で太陽のような笑みを見せた。


「まだ終わっていないわ! でも聞いてくれてありがとう!」


 そう言って手を振ると、前を向いて再び歩み始めた。


 そう、まだ終わってはいない。けれどサクラは無性に彼女にお礼を言わずにはいられなかった。この雨がやんだ空を見たいから、そう願って。


◇◆◇


 絵梨奈の姿が見えなくなるのと同時に、入れ違うようにして坂を上ってくる黒い影がサクラの視界に入った。その姿は、そばに立つ青葉の目にも映っている。


 傘をさしたスーツのその人物はカフェの入り口に到着すると、真っ黒な傘を下ろした。入り口に立つサクラと、奥のテーブル席に座る石津加に目をやると眼鏡の向こうに笑みを見せた。


「早かったですね。さて、それでは——事務所に行きましょうか」


 瀬戸の声を合図にしたかのように、再び外の雨が強くなり始めた。

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