3節 人生を狂わされた者たち

承12:元妻

 降りたそこは、閑静な住宅街に囲まれた駅だった。駅から見える目立った商業施設はスーパーが一軒。あとは申し訳ていどの小さな公園と、アパートが立ち並ぶ。


 電車に乗るまで持ちこたえていた雨雲は、降りた時には小雨が地上に降り注いでいた。二人は駅構内の売店でビニル傘を一本ずつ買うと並んで歩き出した。


 隣を歩く石津加を少女の大きな丸い目が見上げる。


「今日は誰のところに行くの?」


「この先に、ゴンドウ氏の元女房がいる」


 石津加は今日も昨日と同じ格好だった。髭もきちんと剃ってきたらしい。薄手のロングコートに、肩からは細い布袋が下げられている。


「"元"? 亡くなって別れたから、ってこと?」


「いいや、現世の間に離婚していたらしい。別れた理由はわからんが、氏の評価につながる話であれば詳しく聞いて話を持ち帰る必要がある」


 つまりは、暴力や不貞行為を理由とした離婚であればマイナスの評価として報告に持ち帰るということか。


 二人はそこから無言で彼女の住む部屋を目指して歩いた。


 ◇◆◇


「——どうぞ」


 そう言って女性はくすんだガラスコップに注がれた麦茶を二人の前に置いた。


「それで、今日はどのようなご用件で?」


 アパートに着いて扉を開けた彼女はひどく疲れた顔をしていた。薄化粧しているものの、サクラははじめ七〇手前くらいかと思ったが関係者の資料によるとまだ六〇代半ばらしい。

 ゴンドウ氏よりかなり歳が離れて若いのは彼より先にこちらへ来たせいだろう。


 役所の身元調査室だと名乗ると、女性は訪ねてきた男と少女の奇妙な二人組を家の中へと招き入れた。


 事前に聞いていた話では、石津加ひとりで調査をしていたときには男ということもあって警戒されることも多かったそう。

 サクラは、昨日の話を聞いた場所が不思議と屋外か飲食店が多かったことを思い出した。それが少女ひとりついてくるだけでそのハードルはずいぶんと下げられているらしい。


 中へと通された二人はキッチンとダイニングテーブルが押し込められた六畳ほどの間で待たされた。ダイニングテーブルの椅子は年季が入っているようで、サクラが座ってもぎしりときしんだ。


 カーテンは閉め切られ、低い天井からぶら下がる電球が弱々しく揺れている。外は雨雲のせいで光がほとんど差し込まない。薄闇が広がるせいかその部屋はサクラにいくばくかの閉塞感を与えた。


 二人の前に、この部屋に住む女性・平池ひらいけかおりが着席するのと同時に石津加が口を開いた。


「近日中に、権洞ごんどう金次きんじ氏がこっちへ到着する。なので彼に関する話を教えてほしい」


 部屋の外では雨が大粒に変わりはじめた。それが分かるほどにこの古いアパートを打ちつける音がよく聞こえる。


 平池は石津加に目も合わせず、肩を丸めて自らの手元に置いてあるくすんだガラスコップに視線を落としたまま自嘲気味に口角を上げた。


「やっぱり、それなのね。はあ……ハナシ、ね。そんなに知らないわ。だってほとんど家にいなかったもの」


 ワイドショーもやっていたので、ゴンドウ氏の身内の元へは彼の話を求めて人が訪ねてきているらしい。彼女が年齢より疲れて見えるのも、カーテンが閉め切られているのもそれを理由としていた。


「家にいなかった?」


「ええ。私より仕事の方を愛していたんでしょう。仕事仕事って、家に帰ってこなかったわ。じゃなければ外に女でもいたか、ね」


 平池は顔をコップの水に向けたまま、目だけを動かして石津加を睨みつけた。疲労とわずかな苛立ちがこもった目が向けられる。


「離婚の原因はそれか?」


「まあ……そうね、そんなところ。子供もいなかったしずっと一人だったから、こんな人と一緒にいる意味あるのかな、って」


 遠慮のない石津加の物言いに鼻で笑って答えた彼女は、ダイニングテーブルに降り注ぐ貧弱な照明のあかりを受けて顔に色濃く影を落とすと一際ひときわ老けて見えた。


「水商売から、結婚して平穏な生活が手に入るならって思ったのに——。失敗したなあ……私から言えるのは、あの人は仕事熱心で、私に興味がなかった。私の三〇年を無意味に奪った最悪の男。それだけ」


 平池が込めた熱を吐き捨てるように話すとしばしの沈黙が流れた。


「あの……それならもっと早くに離婚とか考えなかったんですか?」


 今まで石のようにじっと座っていた少女が口を開いたことで、平池は少なからず驚いた顔を見せた。それも彼女が触れられたくなかった部分に触れて。


「……したかったわよ。さっさと次に行きたかった。けど、結婚している間にあの男がひどく売れたものだから、家の近くにはマスコミか週刊誌の人間がうろつくようになったの。この状態で離婚すれば……私だってタダじゃ済まない」


 テレビで有名人のスキャンダルが流れるたびに思い知らされた。何かあれば、相手だけならいざしらず、自分の元へもマスコミが来ることは十分予想ができる。自由の身を手に入れるには、この意味もない針のむしろに座るマスコミの猛追に耐える覚悟がなければならない。


 苦渋の決断のすえ、平穏な生活現状維持を選んだのは彼女自身の意思でもあった。


「でも、したんですね?」


「ええ。あるとき気付いたのよ。『ああ、自分はなんて馬鹿な選択をしたんだろう』って。人生あと何十年かしかないのに、最後までこの男に付き合わされるなんて御免だわ、って」


 『まあ、結局はそんなに長生きしなかったんだけどね』と付け加えた彼女は、再び自嘲気味に笑ってみせた。


「——なるほど。貴重な情報、感謝する」


 そう言って石津加は席を立ち上がった。ともに過ごした時間はそれほどなかったという彼女からはもう得られる情報はないと、そう判断した。


 彼が立ち上がった勢いで、古アパートの床が軋み天井まで伝わった振動で吊り下げの電球がわずかに揺れた。


「……おばさんは、本当に好きじゃなかったの? その、ゴンドウのおじさん」


 再度問いかける少女の言葉は子供の無遠慮さと、芯をつかもうとする鋭さがあった。


 少女の言葉に、まぶたを閉じた平池かおりは弱々しくかすかに首を横に振った。


「——いえ、好きだったわ。お店に来ていた時は、そんなのばかりじゃなかった。それに……少し、かわいそうな人でもあったし。そんなところにも惹かれたのね」


「かわいそう?」


 石津加の低い声が平池の頭上から降ってくる。平池は自身の脚をなでるような仕草をしたあと、石津加とサクラを交互に見た。


「ええ。彼、お母さまが厳しかったみたいなの。いわゆる、教育虐待、かしら。学生の間は勉強以外の自由も許されなかったし、恋人一人つくるのもお母さまの目が厳しくて叶わなかったって言ってたわ」


「そのお母さんって、いまは……?」


 サクラの目を見て、平池は再度首を横に振った。


「もういらっしゃらないわ。何年か前に転生したから、いないの。私も結婚した時に一度だけお会いしたけど、なんていうか……学歴や家督かとくを気にする人だったから私とは合わなくてそれ以来交流はほとんどなかったわね」


 その話に、サクラは石津加と目を合わせた。

 多様な面を含んだゴンドウ氏の人生は、一言でいい表せるものではない。


 外の雨が、またいっそう強く打ちつけ始めた。

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