3節 身元調査室の仕事

起8:役所の仕事に、興味はありませんか?

 再びマーブルのドアベルが店内に響き渡り、ガラスの向こうではカフェを後にする江野道の後ろ姿が坂の下へと消えて行った。


「ありがとうございましたー」


 彼を見送った青葉がガラスドアを閉めると、ひとときの沈黙が訪れる。サクラはちらりと先ほどと同じテーブル席に座る瀬戸の後ろ姿に目をやった。


 注文したブラックコーヒーをすすり、時折、カップとソーサーの当たる音が聞こえるほどに店内は静寂に包まれていた。仕事中ではあろうが、客としてしばしの休息かもしれない。


 見送りを終えた青葉は一度厨房に入ると、パンが並んだ銀のプレートとトングを持ってホールへ戻ってきた。そして、瀬戸のことを気にすることなく黙々と店頭の売り棚にパンを並べ始める。売り棚はみるみる間に端からパンで埋められていく。


 青葉は完全に仕事に戻り、ともに江野道を見送ったサクラはどこか手持ち無沙汰を覚えながらカウンターの席に腰を落とした。

 客なのでこの状況は当然なのだが、買い出しから一緒に戻ってきた気でいた彼女は、急にやることがなくなって自分だけ働いていない状況がなんとなくソワソワする。


 やがて店の仕切りの奥から顔を出した綾橋がタオルで手を拭きながら厨房から出てくると、まっすぐに瀬戸のいるテーブル席へと歩いていく。


「瀬戸さん、お待たせしました」


 その声に瀬戸が座ったまま後ろを振り返る。柔和な目がカフェの店主を視界に収めた。


「ああ、綾橋さん。いつもすみません。今日もコーヒー美味しいですね」


「ありがとうございます。今日は二階にも?」


 瀬戸のテーブル席のそばに立った綾橋が尋ねた。彼が頷くと、眼鏡の縁を光沢が走った。


「ええ。伺おうと思っていたところにいただいたお電話だったので、ちょうど良かったです。はいますか?」


「今日はまだ出るところを見ていないので、おそらく。声をかけてみましょうか?」


 その申し出に瀬戸はゆるゆるとかぶりを振った。


「いえいえ、私がお願いする立場ですから。このあと伺います。ただ、ご同行だけお願いしても?」


 その言葉に綾橋は何度か頷き了承した。瀬戸のこの返事も予想していたものと思われる。


 柔らかく微笑んだ瀬戸だったが、ふと何かを思い出してその目を開いた。


「ああ、そうだ。持ち込みの方、お電話いただいた時はかなり深く落ち込んだ様子と伺っていましたが、お会いしてみると大変リラックスして話してくださったようで……何かありましたか?」


「それでしたら、彼女が——サクラちゃん」


 綾橋は瀬戸の背後に視線を送ると、カウンターに座る少女に呼びかけた。同時に、瀬戸も彼女の視線の先を追うべく体を捻り後ろを振り返る。

 テーブル席に背を向けてカウンターに座っていたサクラが振り返ると後方の二人と視線がぶつかった。綾橋が手招きしている。


 サクラがカウンターでぶらぶらとさせていた足を軽やかに地面に下ろすと、柔らかな黒の革靴が床を踏みしめた。床とカカトが打ち合い、静かな店内にカツカツと足音が響く。彼女は綾橋と瀬戸のいるテーブル席に向かって歩き出した。


 綾橋は近付いてきたサクラの後ろに回ると、優しく両肩に手を乗せた。


「瀬戸さんが来る前に彼女と話していたようです。そのおかげで、だいぶ緊張がほぐれたようで」


 江野道が話し終えた後、彼女にオレンジジュースを奢った経緯を綾橋は知っている。綾橋の目から見ても、あの沈んだ顔をしていた男性がこの少女と会話を交わした前と後で様子が変わったことは明らかだった。


「そうでしたか。ありがとうございました」


「いえ、私は何も……」


 サクラからすれば、何かしようとしたわけではなく気になって声をかけただけだった。礼を言われるようなことは無いとそう顔の前で両手を振ると、そのとき彼女の左手首で揺れるものが瀬戸の目に留まる。


「新しい帰還者の方でしたか。来たばかりで変なところに鉢合わせてしまいましたね」


 瀬戸の言葉に、綾橋は何かを思い出したように両手をあわせた。そして彼とサクラの間に移動すると、瀬戸の方を揃えた指先で示す。


「紹介がまだだったわね。こちらは瀬戸せと尚人なおひとさん。役所の身元調査室の方なのよ」


 瀬戸が軽く頭を下げると、続いてサクラの方に手を向けた。


「こちら泡方あわかたさくらさん。最近、うちに通ってくれるお客様です」


 サクラも同じように軽く会釈する。しかし、顔をあげた時、瀬戸の表情は目を丸くしていた。


「泡方……櫻さん? もしかして、最近"まづる"でこちらに来ました?」


「えっ。あ……はい、そうですけど……」


 "まづる"とは、渡りの海でサクラを小舟とともに救出してくれた出迎でむかせんの名前だ。サクラはその"まづる"で働く救命士の人たちに遭難から助けてもらい、この街にたどり着いた。


 思いもしなかった反応に驚いたサクラだったが、その問いに数度頷いた。


「あなたが……そうでしたか」


 顎に手を添えて前のめりでまじまじとサクラの顔を見つめる瀬戸はしばしそのままの体勢で思案した。サクラは妙な緊張感になんとなく目を合わせられず、行き場を失った視線を持て余す。


 そうして、瀬戸は一つ咳払いをすると姿勢を戻し、再び柔和な笑みを浮かべた。


「泡方櫻さん。役所の仕事に————興味はありませんか?」


「……え?」


 彼女は、即座にその言葉の意味が分からなかった。

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