樽を纏うシャルドネ

 扉が開いた瞬間

しっとりとした雨の音が店内に入り込んだ。


 小さなワインバー「LIBERO」


 照明は落ち着いた琥珀色、葡萄酒の残り香が舞う空間に、黒鍵の最後の一音の余韻が消えてゆく。


 ピアノの演奏を終えた若い女性が、ゆったりとした拍手に応え、軽く一礼する。

 

 入ってきた男は、濡れた傘をたたみ、落ち着いた身のこなしでカウンターの一番端へと腰を下ろした。


 名は樫本かしもとかおる


 五十代前半。カーキ色のジャケットに、真っ白なカットソー。


 元広告代理店勤務で、数年前にFIRE――いわゆる経済的自立と早期退職を果たした独身男。

 仕事も家庭も手放して、自由と引き換えに少しだけ静かな孤独を受け入れた男。


 LIBEROの常連。

 マスターは彼の姿を見ると、すぐに言った。


「いらっしゃい。いつものやつで、いいですか?」


「うん、あれを。……少しだけ樽が香るやつ、ね」


「カリフォルニアのシャルドネ、開けますね」


 ほどなくして、厚みのある大ぶりのグラスがカウンターに置かれた。


 注がれた液体は、ほんのりと琥珀がかった濃い金色。


 トロピカルな果実の甘い香りと、バニラ、バター、そして焼いた木樽のニュアンス。


 それが、彼が「いつものやつ」と呼ぶ、樽香の強いシャルドネだった。


一口飲む。

 舌に広がる、まろやかで甘い口当たり。

ほどよいアルコール感とビターな苦味が後味を引き締める。


 彼は満足げにゆっくりとグラスを置いた。


 ピアノの前から下がってきたミオが、楽譜を抱えて通りかかる。

 彼女に目を向けながら、樫本はさりげなく言った。


「よかったら、あちらのお嬢さんにも一杯。……同じやつを」


 マスターがグラスを拭いていた手を止め、少し困ったように笑った。


「ええっと……ミオちゃんはたしか、樽香の効いた白は苦手だったかな……?」


 ミオも立ち止まり、申し訳なさそうに笑う。


「すいません、ビギナーなもので。リースリングとか、ソーヴィニヨン・ブランは好きなんですけど……」


「はは」


 樫本は小さく肩をすくめた。


「気を使わせてごめんね。……昔、別れた妻によく叱られたよ。

“また人の酒まで勝手に決めようとして”ってね」


 ふと遠くを見るような目つきになった。


「“あなたが一番良いと思ってることが、他人にとっては苦痛なこともあるのに、どうしてわからないの”……って」


 ミオは何も言わず、そっと頭を下げて席へと戻っていった。


 ミオが去るのを見届けた樫本は、グラスを持ったまま、独りごとのように言った。


「オレが好きだったのは……シャルドネだったのかな」

 ひと息置いて、グラスを見つめた。


「それとも、樽の香りのする葡萄酒が……ただ、好きだったのか」


 静かな声だった。

誰に向けるでもなく、ただグラスの中の琥珀に語りかけるような声。


「彼女のことを、綺麗で、社交的で、笑顔を絶やさない……理想的な“妻”だと思ってた。

 でも、それはたぶん……彼女が纏っていた“妻”っていうフレーバーだったんだよな」


 指先で、グラスの脚を回す。

 とろりと揺れる白い液体に、淡い光が絡む。


「ほんとの彼女は……もっと無口で、繊細で、

 ときどき泣きそうな目をしてた。……それを、心の奥にしまい込ませてたのは、オレだったのかもしれない」


 カウンターの向こうで、マスターが静かにグラスを拭く音がした。

 なにひとつ口を挟まないその無言が、今夜はありがたかった。


 樫本は最後の一口をゆっくりと飲み干す。


 まろやかな甘み、バターの重さ、果実の濃さ、

 そして、飲み干したあとの──静かな虚無。




唄「Chardonnay」


シャルドネ


Chardonnay donnay donnay


樽だね


いつもバニラの香りさせちゃってさ


君の香りはどこなんだい


シャルドネ


Chardonnay donnay donnay



※この作品に登場する楽曲「Chardonnay」は、実際に音源化されています。

作詞は作者、作曲・演奏はAI音楽ツール「Suno」によって生成。

小説とともに、“唄”としても味わっていただけたら幸いです。


https://kakuyomu.jp/users/sabamisony/news/16818622177402836358


https://suno.com/s/wQGEucK0weNFpH28

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