第十五章 黒狐の神託
🪭1. 高御座の問答】
能舞台の奥、高御座に舞い降りた静を、珠緒は静かに見つめていた。
白狐は低く唸り、目の前の漆黒の九尾の化身を睨みつける。
だが珠緒は動かない。
ただその上弦の月のような瞳で、静を楽しげに観察しているだけだ。
「…なぜ、こんなことをするの…?」
静の問いに、珠緒はくすくすと喉の奥で笑った。
【…なぜですって? …愚かな問いね、ギケイの小娘…】
珠緒はその指先で自らの黒い尾の一本を愛おしげに撫でた。
【…私はただ見ていただけよ。千年の時をかけてね。男たちが、いかにして権力を求め、女たちを利用し、歴史を創り上げてきたかをな…】
【…妲己も、華陽夫人も、淀君も、そして今あなたたちが戦っている北条政子すらも。彼女たちは皆、ただ少し賢く、そして少し美しかっただけ。だが男たちはその力を恐れ、そして利用し、彼女たちに『悪女』というレッテルを貼り、歴史の闇へと葬り去った…】
その言葉は静の心を揺さぶった。
それはあまりに歪んでいながら、しかしどこか真実の響きを持っていたからだ。
【…私はそんな愚かな男たちの歴史を終わらせに来たのよ。この世界から男という存在そのものを消し去り、そしてかつて虐げられた全ての女たちの魂による、新しい世界を創るためにね…】
その瞳に宿るのは狂信的なまでの「救済」の光。彼女は自らを正義だと信じて疑わないのだ。
「…そんなこと、させない…!」
静は扇子を構え直した。
【…フフ、できるかしら? 貴方に、この千年の悲しみが止められるとでも?】
【🪭2. 悪女たちの饗宴】
珠緒がそう言った瞬間、彼女の背後で休んでいた八本の尾が一斉に動き出した。
そしてその先端から、それぞれ異なる時代、異なる国の「悪女たちの怨念」が、おぞましい姿を現す。
その声と同時に、能舞台の空間そのものが捻じ曲げられ、歴史上の様々な「悲劇の舞台」が次々と現れては消えていく。
古代中国、殷王朝の酒池肉林の宴。
その中央で妲己が妖艶に舞い、その袖から放たれる甘い香りが静の理性を蝕もうとする。
『静、惑わされるな!』
白狐と化した九郎の魂が咆哮し、浄化の炎でその幻惑の香りを焼き払った。
すると舞台は一転し、古代ローマのエジプト属州、その宮殿へと変わる。
玉座に寝そべるのは絶世の美女クレオパトラ。
彼女の投げキッスが、毒蛇の幻となって静を襲った。
白狐はそれを俊敏な動きでかわすが、休む間もない。
舞台は再び転換し、今度は古代ギリシャ、アテナイの街角へ。
哲学者が民衆に問いかけるその傍らで、悪妻クサンティッペがヒステリックに叫び、その声が呪詛の刃となって白狐の純白の毛並みを切り裂いた。
さらに場面は移り変わる。
ユダヤの王宮では、銀の盆に載せられた生首を手に舞い踊るサロメの狂気が。
そして第二次世界大戦末期のベルリン地下壕では、エヴァ・ブラウンがヒトラーの狂気を一身に受け、その絶望が黒い霧となって静の精神を覆い尽くそうとする。
妲己、華陽夫人、淀君、日野富子、クレオパトラ、クサンティッペ、サロメ、エヴァ・ブラウン…。
歴史の中で男たちの欲望と無理解によって「悪女」の烙印を押された全ての女たちの魂が、珠緒の尾を依り代として次々と襲いかかってくる。
それは千年の歴史の中で男たちを、そして国そのものを滅ぼしてきた悪意のフルコース。
その猛攻の前に、静と白狐は徐々に追い詰められていった。
(第十五章 完)
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