第一章 北の地の兆候

【🪭1. 夏風と白拍子】

 北海道、上川郡東神楽町。

 その町の名は、アイヌの言葉で「神々の、遊び場」を意味する、この地の雄大な自然への畏敬から名付けられたという。

 大雪山たいせつざんの雪解け水が育む、豊かな田園地帯。

 町のあちこちにはお洒落なカフェや家具工房が点在し、週末には旭川や札幌から多くの人々がその穏やかな時間を求めて訪れる。

 一見、どこにでもある平和で美しい、北海道の小さな町。

 その町の中心部、役場のすぐ隣にその学び舎は建っている。

 東神楽高等学校。

 三階の教室の窓から、一人の少女が頬杖をつき、ぼんやりと外を眺めていた。

 藤沢 ふじさわ しずか

 窓の外では野球部の快音が響き、その向こうには東神楽神社の緑豊かな鎮守の森が広がっている。時折、練習の合間に水を飲みに来た野球部員たちが、神社の鳥居に向かって律儀に頭を下げているのが見えた。

 廊下からは吹奏楽部が練習する、少し調子の外れたトランペットの音が聞こえてくる。

 の音に混じって、時折すぐ隣の義経公園から子供たちの楽しそうな歓声が聞こえてくる。


「静ー、またそれ読んでるの?」


 昼休みの教室で、友人の陽菜が静の手元を覗き込みながら呆れたように言った。

 静が読んでいたのは、町の図書館で借りてきた古びた歴史専門書『奥州藤原氏と源平合戦』だった。


「だって、面白いんだもん。この義経が頼朝に追われて平泉に逃げてくるところとか…」


「えー、全然わかんない。静って、ほんとシブいよね」


 陽菜ひなはそう言うと、すぐに他の友人たちの輪に加わり、昨日見たテレビドラマの話で盛り上がり始めた。

 静は苦笑しながら、再び本に視線を落とした。

 彼女は、その輪の中に入れないのではない。

自ら、入ろうとしないのだ。

 なぜなら、彼女には分かっていたから。

 自分はいつかこの穏やかな日常を捨て、どこか遠い場所へ行かなければならないという予感を、小さな頃から抱いていた。


 放課後、静はまっすぐ家に帰ると、母屋の隣にある小さな離れの稽古場へと向かった。

 そこが静にとって、唯一本当の自分でいられる場所だった。


「ただいま、お母さん」


「おかえりなさい、静」


 稽古場では、母の海瑞希みずきが、既に白い稽古着に身を包み、静を待っていた。

 静の母、海瑞希はギケイ流の舞手だった。

 だが、栗原に住む祖母・朱鷺とは違い、彼女が舞うのはあくまで神事としての静かで清らかな「奉納の舞」だけだった。

 稽古の後、汗を拭う静の姿を、海瑞希はどこか遠い目をして見つめていた。


「…あなたの舞は、あまりに清らかすぎるわね…」

「え?」


「清らかすぎるものは、時としてより深い闇を呼び寄せてしまうから…」


 その呟くような言葉の真意を、静はまだ理解できなかった。


「…ねえ、お母さん」静は尋ねた。

「おばあちゃんの舞はもっと、こう…力強いって聞いたことがある。お母さんの舞とは違うの?」


 その問いに海瑞希は一瞬哀しげな顔をして、そして静かに首を横に振った。


「…あの力はあまりに強すぎるの。人を守ることもできるけど、人を傷つけることもできてしまう。…私は、あなたにそうなってほしくないだけ…」


【🪭2. ざわめく杜と、運命の呼び声】

 その穏やかな日常に最初の「不協和音」が聞こえ始めたのは、夏休みが目前に迫った頃だった。

 義経公園の周りで、やけにキタキツネを見かけるようになった。

 その狐たちは、どこか何かに怯えているように見えた。

 そしてからすたちの鳴き声が、明らかに、おかしくなった。

 まるで何かを警告するかのように、あるいは遠い地で起こっている悲劇を嘆くかのように、甲高く、そして不吉な響きで鳴き続けるのだ。

 そしてある日の夕暮れ。

 自室の窓から西の空を眺めていた静は、見てしまった。

 一羽のひときわ体格の大きな鴉が、町の中心にある神社の杜の上をゆっくりと旋回しているのを。

 その漆黒の瞳が、まっすぐに自分自身を確かに「見て」いるのを。

 肌が粟立つ。

 あれはただの鳥ではない。

 その夜、一本の電話が藤沢家にかかってきた。

 栗原に住む祖母の朱鷺からだった。

 電話を終えた海瑞希の顔は青ざめていた。


「…おばあちゃんが、栗原で何か、良くないことが起こり始めたって…」


「良くないこと?」


「…ええ。そして…静、あなたを呼んでるの…」


 海瑞希は静の肩を強く掴んだ。その手はかすかに震えている。


「ダメよ、静。あそこへ行ってはダメ。あなたは関わるべきじゃない。これは私と母様かあさま(朱鷺)との問題なんだから…」


 それは娘を案じる母の、必死の制止だった。

 だが静は、静かに母の手を握り返した。


「…行かせて、お母さん」


 その、決意の、声。

 海瑞希は、息を呑んだ。


「お母さんの気持ちは、分かる。でも、でもね…。私は、お母さんの娘。そして、おばあちゃんの、孫…なんだから」


 静の瞳には、母が、そしておそらくは静自身も今まで見たことのないような、強い光が宿っていた。


「分からない。でも、呼ばれてる気がするの。栗原に行かなければいけないって。私の血が、そう言ってる気がする…」


 娘の瞳の奥に宿る、その抗いがたい運命の光。

 それはかつて自分が捨てようとした、ギケイ流の舞手の宿命の輝きそのものだった。

 海瑞希はもはや何も言えなかった。

 ただ強く、強く娘を抱きしめることしかできなかった。

(第一章 完)

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