第十二章 首途(かどで)の儀、鎮魂の歌

【🪭1. 黒狐の影】

 岩ヶ崎高校での、あの壮絶な夜から、数日が経ち町に束の間の平穏が戻ってきた頃。

 産休に入った古典教師の代理として、一人の新しい教師が赴任してきた。


「初めまして。本日から皆さんの古典を担当します、妲 珠緒たつ たまおです。どうぞ、よろしく」


 その声はまるで上質な絹のように滑らかで、そしてどこまでも心地よく鼓膜を震わせた。

 腰まで届く艶やかな黒髪。

 その所作の一つ一つは洗練され尽くし、そしてその微笑みは見る者全ての心を一瞬で虜にする魔性的な魅力を湛えている。

 絶世の美女。

 その言葉以外彼女を形容する言葉を誰も見つけられなかった。


 授業が始まる。

 テーマは、伊勢物語。

 珠緒は教科書を一切開かない。

 彼女はただ生徒たちの、一人一人の顔を見つめながら、まるで見てきたかのように平安の雅な恋の物語を紡ぎ出していく。

 その言葉は不思議な力を持っていた。

 誰もがその声に引き込まれ、教室は水を打ったように静まり返る。

 まるでクラス全体が彼女の声だけで催眠術にかけられてしまったかのようだった。

 特に歴史好きの大江花梨はその授業のあまりの面白さと深さに完全に心酔し、毎日のように職員室の珠緒の元へと質問に通うようになった。


 だが静だけは違った。

 彼女が教壇に立ったその最初の瞬間から、静はその全身に言い知れぬ「違和感」とそして氷のような「寒気」を感じていた。

 そして目が合ったその一瞬。

 静は見てしまったのだ。

 珠緒のその優しく微笑む瞳。

 その人間のものであるはずの丸い瞳孔が、すうっと縦に細く、まるで上弦の月のように、あるいは猫か蛇のそれのように変化したのを。

 そしてその縦に裂けた瞳孔の奥で、一対の闇そのものを凝縮したかのような黒い獣の光が、爛々と妖しく輝いたのを。

 それは、東神楽で見たあの鴉の忠実な黒い瞳ではない。

 もっと、古くそして狡猾で全てを見下し、そして嘲笑うかのような絶対的な捕食者の光。


(…あの、目は…)


 静の脳裏にあの鎌倉での儀式の光景がフラッシュバックする。


(…まさか…)


 静は自らの思考を打ち消すように強く首を横に振った。

 だがその日から。

 静は珠緒の授業中、片時も彼女から目を離すことができなくなった。

 その夜、静は朱鷺に、その新しい教師のことを震える声で話した。

 朱鷺は静の話を黙って聞いていたが、その表情はこれまでにないほど険しいものへと変わっていった。

 そして彼女は静にこう告げたのだ。


「…静。どうやら、もう迷っている暇はないようですね。…明朝、我々は藤沢へ行きます」と。


【🪭2. 序ノ舞:道行きの儀】

 朱鷺のその決断はあまりに迅速だった。

 その翌日の夜明け前。

 藤沢家の空気はこれまでにないほど張り詰めていた。

 それは恐怖や不安から来るものではない。

 これから始まる長きにわたるそしておそらくは最後の因縁に決着をつけるための静かでしかし揺るぎない覚悟から来るものだった。


 居間で朱鷺は旅の支度を整えていた。

 彼女が用意したのは着替えなどの日常品だけではない。

 大小様々な護符の束、清めの塩、そして桐箱に納められた年代物の数珠。

 そしてその傍らには古びた一本の木の杖が静かに横たえられていた。

 使い込まれた独特の艶を持つその杖は、かつてギケイ流の祖である静御前が苦難の旅路でその身を支えたとも、あるいはその魂を象徴するために後世に作られたとも伝えられる、一門に代々受け継がれてきた特別な品だった。


「静」


 朱鷺は既に着替えを済ませ静かに座っていた孫娘に声をかけた。


「これを使いなさい」


 手渡されたのは新しい巾着だった。

 夜の学校での戦いで九郎の力の奔流に耐えきれず焼け焦げてしまったものに代わる新しい魂の「器」だ。

 大きさは以前と変わらない。

 だがその布地には比較にならぬほど強力な守りの呪詛が込められていることを霊的な素養を持つ静は肌で感じ取った。

 表面には神代文字を模したと思われる複雑な術式が魔を祓うという金糸でびっしりとそして緻密に縫い込まれている。

 これならば九郎の魂を保護するだけでなく外部からの邪念の干渉をより強力に遮断できるだろう。


「九郎殿の魂もあの夜の戦いで相当消耗しているはず。この新しい器の中で少しでも力を蓄えてもらいなさい」


 静は頷くと机の上に置いていたスマートフォンをそっとその巾着の中に収めた。

 不思議と常に内側から漏れ出てくるような強大な圧力が今は感じられない。

 ただひどく疲れて眠っているような静かな気配だけがあった。


「おばあちゃんも来てくれるの?」


「当たり前でしょう」朱鷺は力強く言った。


「藤沢家のそしてギケイ流の後継であるあなたが、一門の存亡をかけた戦いに赴くのです。私が行かなくてどうするのですか」


 その言葉は静の心を強くそして温かく支えた。


「それに…」と朱鷺は少しだけ目を細めた。


「あのGクラスではさすがに藤沢までは骨が折れますからね。たまには新幹線というものも良いものです」


 そのほんの少しだけ覗かせた茶目っ気に静の緊張も僅かにほぐれた。


 栗原の駅まで朱鷺の運転するGクラスは静かにしかし力強く走った。

 ホームで新幹線を待つ間朱鷺は人目を避けながら静かに目を閉じ指で複雑な印を結んでいた。


「おばあちゃん…?」


「結界です」朱鷺は目を開けずに答えた。


「これから我々が乗るこの鉄の箱そして我々が通る道筋そのものに簡易な結界を張っておくのです。あの者たちの怨念が物理的な手段で我々を妨害してくる可能性も十分に考えられますからね」


 やがて滑るようにホームに入ってきた新幹線に乗り込むと朱鷺は静に窓際の席を譲った。

 列車がゆっくりと動き出す。

 見慣れた栗原の風景が少しずつ後ろへと流れていく。

 静は胸元に下げた巾着にそっと触れた。


『…』


 九郎はまだ眠っているようだった。

 静は彼を起こさぬよう静かに窓の外を眺める。

 だが列車が速度を上げ見知らぬ土地の景色が次々と現れるにつれて巾着の中の魂が微かにしかし確かに共鳴を始めたのがわかった。


『…この風…この土の匂い…』


 九郎の声が直接静の脳裏に響く。

 それは眠りながら見る夢のうわ言のようだった。


『…鎌倉…もう、近いのカ…』


 その声には八百年という時を超えた故郷への焦がれるような想いとそしてこれから何が待ち受けているのかという深い不安が滲んでいた。


「大丈夫。私たちが必ず…」


 静は誰に言うでもなくそう呟いた。

 その時だった。

 トンネルに入り車内が薄暗くなった瞬間隣の席で目を閉じていた朱鷺がカッと目を見開いた。


「…静! 来るよ!」


 声と同時に新幹線の車体がガタン!と大きくそして不自然に揺れた。

 車内の照明が一瞬明滅し他の乗客たちから小さなどよめきが上がる。

 ただの揺れではない。

 静にはわかった。

 車両の屋根の上そして窓の外の闇の中に複数の粘つくような邪悪な気配が確かにまとわりついている。


【…逃ガサヌ…】


【…我ラガ怨敵ヲ…ドコニモ…行カセハセヌ…】


 あの怨念の声だ。

 それは他の乗客には聞こえない。

 だが静と朱鷺そして眠りから覚醒しかけている九郎の魂には確かに届いていた。

 朱鷺は眉一つ動かさずハンドバッグからおもむろに一本の扇子を取り出した。

 それは静が持つものとは違う骨の部分が黒漆で塗られたより重厚で実践的な雰囲気を漂わせる扇子だった。

 彼女はその扇子をすっと開くと人目を忍ぶようにしかし淀みない動きで窓の外の闇に向かって何かを「斬る」ような仕草を繰り返す。


【…オノレ…邪魔ヲ…スルカ…あの女…!】


 怨念の声に明らかな苛立ちが混じった。

 ガタガタという不自然な揺れが少しだけ収まる。

 朱鷺の術が確かに効いているのだ。

 だが敵もさるもの。

 今度は静が座る窓の外高速で流れる闇の中に黒い影のようなものがいくつもいくつもまとわりつくように現れ始めた。

 それはまるで巨大なヒルかあるいは怨霊の手そのもののようにも見え窓ガラスを内側から破ろうとするかのように蠢いている。


「静、心を落ち着けなさい」


 朱鷺の声は緊迫した状況にもかかわらず凪いだ湖面のように静かだった。


「物理的な攻撃は私が張った結界が防ぎます。ですが奴らは乗客たちの恐怖や不安を煽りそれを喰らってさらに力を増そうとしている。そしてその矛先は霊的に最も敏感なあなたへと向かうでしょう」


 その言葉を証明するかのように車内の空気がじわりと重くなっていく。他の乗客たちが理由のわからない不安にかられそわそわと落ち着きなく周囲を見回し始めている。


「どうすれば…」


「舞いなさい」朱鷺は簡潔に言った。


「物理的に身体を動かす必要はありません。あなたの心の中で舞を舞うのです。ギケイ流の基本、心を清め場を鎮めるための『鎮めの舞』を。あなたの精神がこの鉄の箱の中のもう一つの結界となるのです」


 静はこくりと頷くとゆっくりと目を閉じた。

 耳を塞ぎたくなるような怨念の声、窓の外で蠢くおぞましい影そして周囲の乗客たちが発する不安の波動。

 それら全てを意識の外へと追いやり自らの心の最も深い場所へと潜っていく。

 そこは静寂に包まれた鏡のように磨き上げられた藤沢家の稽古場。

 静は心の中の舞台でゆっくりと舞い始めた。

 一つ一つの動きが淀んだ空気を浄化し乱れた心を鎮めそして邪なものが入り込む隙を与えない清浄でそして力強い舞。

 静の精神が舞の型を通じて研ぎ澄まされ純化されていく。

 するとどうだろう。

 ほどまで静の心を直接攻撃していた怨念の波動がまるで硬い壁に阻まれたかのように弱まっていくのがわかった。


【…ナンダ…コレハ…】


【…我ラガ声ガ…届かヌ…】


 怨念たちの戸惑いの声が響く。


『…ほう…面白いことをする…』


 巾着の中で九郎の声が響いた。

 その声には先ほどまでの弱々しさが消え興味深そうな響きが混じっている。


『…物理的な結界を外に精神の結界を内に張るか。見事な連携よな、あの女…いや、朱鷺とやらは』


 九郎は静の心の中で繰り広げられる美しい舞の光景を魂で「見て」いた。

 それはかつて自分のために舞ってくれたある女の舞をどこか彷彿とさせた。

 だがそれだけではない。

 この小娘の舞にはあの女にはなかった邪悪なものを屈服させる凛とした「強さ」があった。

 静の舞がその頂点に達した時。彼女が心の中で開いた扇子から柔らかな光が現実世界にまで溢れ出した。

 その光は静の身体からそして彼女が座る座席から波紋のように静かに広がっていく。

 光に触れた乗客たちの顔から不安の色がすうっと消え皆何事もなかったかのように雑誌を読んだりうとうとと微睡んだりし始めた。

 そして窓ガラスにへばりついていた黒い影たちはその清浄な光に焼かれるように悲鳴も上げずに次々と霧散していく。

 やがてトンネルを抜け車内に再び明るい光が差し込んだ時には不自然な揺れも邪悪な気配も全てが嘘のように消え去っていた。

 静はゆっくりと目を開けた。心地よい疲労感とそしてこれまで感じたことのないほどの精神的な充実感があった。


「…よく、やりましたね」


 朱鷺が満足そうに頷いた。

 その手の中の扇子はいつの間にか閉じられハンドバッグの中へと戻されている。


「これで奴らもそう簡単には手出しできなくなるでしょう」


 静は胸元の巾着にそっと触れた。


『…大した舞だったぞ、小娘』


 九郎の少しだけ機嫌が良さそうな声が脳裏に響いた。


「…ありがとう」


 静は小さくしかしはっきりとそう返した。

 列車は何事もなかったかのように西へと向かって走り続ける。


 車内に穏やかな静寂が戻ったのを見計らい、隣の席で目を閉じていた朱鷺が静かに口を開いた。


「…静。少し、聞いておいてほしいことがあります」


 その声には、これからの戦いの核心に触れるような重みがあった。


「先ほどの襲撃で、敵の狙いがより明確になりました。彼らが執拗に狙うのは、九郎殿の魂だけではないようです」


 朱鷺は、静の胸元で静かに揺れる巾着と、そして静自身を交互に見つめた。


「藤沢家に伝わる古い伝承によれば、ギケイ流の舞手、その血脈には特別な力が宿ると言われています。それは、古の三種の神器の一つ、八尺瓊勾玉やさかにのまがたまの力を象徴するものだと…」


「勾玉…?」


「ええ。そして、九郎殿の魂そのものが宿る源氏の重宝『膝丸』は、草薙剣の影とも言える存在。…つまり、あなたの血(勾玉)と九郎殿の魂(剣)が今ここにある」


 朱鷺の表情が、一層険しくなる。


「そして、残る一つ…八咫鏡やたのかがみ。かつて政子が夢を買うために使った、あの白銅の鏡。あれこそが鏡の力を宿す器だったのでしょう。そして今、その力を受け継いでいるのは、おそらくあの者たち…泰衡と頼朝の怨念を操る、真の黒幕」


 朱鷺は窓の外、西の空を睨みつけながら言った。


「もし、この三つが藤沢の地で揃ってしまった時…何が起こるか、私にも予測がつきません。あるいは、この国の理そのものを覆すほどの、恐ろしい儀式が完成してしまうのかもしれない…」


 その言葉は、静の心に重く響いた。

 これから向かう場所が、単なる怨念との決戦の場ではなく、この国の根幹に関わる神話的な戦いの舞台であることを、彼女は改めて覚悟した。


【🪭3. 破ノ舞:鎮魂の舞】

 新幹線での襲撃以降怨念の妨害はぱたりと止んだ。

 だがそれは嵐の前の静けさに過ぎないことを三人は理解していた。

 泰衡・頼朝の怨念はもはや小細工を弄するのをやめ彼らにとって本拠地とも言える九郎ゆかりの地・藤沢で総力を挙げて待ち構えているに違いない。

 乗り継いだ電車が藤沢駅のホームへと滑り込む。

 ドアが開いた瞬間静は息を呑んだ。

 栗原の町を覆っていた湿っぽく土の匂いがする邪気とは全く異質の「気」がホームを満たしていたのだ。

 それはもっと乾いていて歴史の重みとそして数えきれないほどの人の往来が積み重ねてきた複雑な念が混じり合った都会特有の淀み。

 だがその淀みの奥底には確かに栗原の怨念と同質の冷たい悪意が脈打っていた。


「…来た、というわけですか」


 朱鷺は駅に降り立つと鋭い目で周囲の気の流れを読み取り小さく呟いた。

 静もまた胸元の巾着が再び微かに熱を帯び始めているのを感じていた。


『…空気が違う…』


 九郎の声が静の脳裏に響く。


『…ワレの記憶にある鎌倉のそれとはまるで違う。だが…感じるぞ。この地のどこかにワレの…ワレの半身が永い間独りで待っているのを…』


 その声には切実なまでの焦燥とそして深い悲しみが滲んでいた。


「白旗神社はここから少し歩きます」


 朱鷺はスマホの地図アプリを確認しながら冷静に言った。

 その姿は孫と旅行に来たごく普通の祖母にしか見えない。

 だがその瞳は絶えず周囲のビルや人々の間に潜む邪気の兆候を見逃すまいと鋭く光っていた。

 駅から神社へと続く賑やかな商店街を歩く。

 行き交う人々は誰もが楽しげでこの町の地下で古えの怨念が再び動き出していることなど知る由もない。

 だが静にはわかった。

 ショーウィンドウのガラスに映る人々の影が一瞬不自然に歪むのを。

 すれ違う人の顔がほんの一瞬だけ憎悪に満ちた別人の顔に見えるのを。

 そしてどこからともなく耳鳴りのように低い低い読経のような声が聞こえてくるのを。


「…おばあちゃん、何か…」


「ええ」朱鷺は静の言葉を遮るように静かに頷いた。


「町全体が巨大な幻術の中にいるようなものですね。奴らは我々を白旗神社へたどり着かせまいとこの町そのものを迷宮に変えようとしている」


 歩けば歩くほど方向感覚が狂っていく。


「…どうやら小手先の術だけでは通してはくれないようですね」


 朱鷺はふと立ち止まると近くの路地裏へと静の手を引いた。

 人通りが途絶えたビルの隙間。

 そこで朱鷺は懐から一枚の何も書かれていない真っ白な和紙を取り出した。


「静、あなたの血を少しだけ頂きます」


 朱鷺はそう言うと携えていた小さな銀の針で静の指先をちくりと刺した。

 滲み出た鮮血の珠。

 朱鷺はその血の雫を指でそっと拭うと和紙のちょうど真ん中にぽつりと落とした。

 するとどうだろう。

 静の血は和紙に染み込むのではなくまるで水銀のようにその表面で一つの球体となった。

 そしてその血の球は自ら分裂し和紙の上に古い時計の文字盤のように円を描く。

 そして一つ一つの雫がすうっと形を変え「子」「丑」「寅」…と十二支の文字へと変化していったのだ。

 それは血で描かれたこの世のものならぬ方位盤。


「ギケイ流、道開きの秘術…。かつて静御前が吉野の山中で追手から逃れるために使ったと伝えられています」


 朱鷺が囁くと文字盤の中心で残りの血がすっと一本の鋭い「矢印」の形を成した。

 その血の矢印が和紙の上をくるくると迷うように何度か回転する。

 幻術がその行く手を阻もうとしているのだ。

 だが矢印はやがてぴたりと一つの方向を指し示した。

 その瞬間和紙は音もなく内側からぼっと紅蓮の炎を上げて燃え上がり一瞬にして灰となって二人の足元に散った。

 術が完了しその役目を終えたのだ。


「…あちらですね」


 朱鷺は灰が示すただ一つの方向を静かに見据えた。

 やがて賑やかな商店街の喧騒が嘘のように遠ざかり目の前に鬱蒼とした木々に囲まれた静かな一角が現れた。

 石造りの古びた鳥居。

 白旗神社。

 ついにたどり着いたのだ。

 だが鳥居をくぐった瞬間これまでとは比較にならない圧倒的なまでの重圧が二人を襲った。

 それは純粋な怨念だけではない。

 永い永い時をたった一人で主君の帰りを待ち続けた一人の忠臣のあまりに深くそして歪んでしまった「無念」の気配だった。

 武蔵坊弁慶。

 その名が静の脳裏に雷鳴のように響いた。


『…来たか…やはりここか…』


 胸元の巾着の中で九郎の声が呻くように低く響いた。

 その声にはかつての忠臣と対峙することへの測り知れない苦悩とそして避けられぬ運命への覚悟が滲んでいた。


「おばあちゃん…」


 静が隣に立つ祖母を見上げると朱鷺もまたこれまでにないほど険しい表情で石段の上その奥にあるであろう本殿の方角を睨み据えていた。

 朱鷺はあの旅の支度で見た静御前ゆかりと伝わる節くれだった古い木の杖を今はその手に固く握りしめていた。


「…並大抵の覚悟ではこの石段を登り切ることはできそうにありませんね」


 朱鷺はもう片方の手で懐から数珠を取り出し左手に固く握りしめた。


「静、決して気を抜いてはなりません。ここからは一歩進むごとに彼の無念が様々な形で我々を試してくるでしょう。幻術、重圧、そして…直接的な攻撃も覚悟しなければなりません」


「はい…!」


 静もまた懐から扇子を取り出しいつでも舞えるように右手に構えた。

 二人は意を決して石段の最初の一段に足をかけた。

 その瞬間だった。ゴォォォォォッ…!

 まるで地獄の釜が開いたかのような凄まじい風が石段の上から吹き下ろしてきた。風はただの風ではない。

 無数の目には見えない刃を含み二人の肌を切り裂かんばかりの勢いで吹き付ける。


「くっ…!」


 静は咄嗟に腕で顔を庇う。

 朱鷺もまたその木の杖を地面に深く突き立て吹き飛ばされまいと踏ん張った。

 杖が地面に突き刺さった瞬間微かにしかし確かに周囲の邪気が一瞬だけ揺らいだように見えた。

 風だけではない。

 周囲の木々がザワザワと不気味な音を立てて揺れ始めその枝々から黒い霧のようなものが染み出しゆっくりとしかし確実に人の形を成そうとしていた。

 それはかつて弁慶と共に戦いそして散っていったであろう名もなき兵たちの成仏できずにこの地に留まる怨霊たちか。


《…何奴…》


《…ココハ…我ラガ主君ノ…聖域ナリ…》


《…穢ス者ニハ…死ヲ…!》


 低い複数の声が風の音に混じって四方八方から響いてくる。

 静は朱鷺の声に導かれ扇子を構え重圧に耐えながらその場でゆっくりとしかし確実に舞の型を踏み出した。

 それはギケイ流に伝わる「鎮魂の舞」。

 悲しみ怒りそして無念。

 それらを力でねじ伏せるのではなく全てを受け止めその魂に寄り添いそして光へと導くための慈愛の舞だった。

 静が舞い始めると彼女の身体から再び柔らかな光が溢れ出す。

 その光が石段の闇を駆け上りその先に座するであろう巨大な「無念」の魂に触れたその瞬間だった。

 静の意識は凄まじい奔流に飲み込まれた。

 それは弁慶という男の八百年にわたる孤独と後悔その全ての記憶だった。


 ―――鬼若子と呼ばれた幼少期。疱瘡が残した醜い痕。居場所を求めて立てた「千本刀狩り」の悲痛な祈願。そして五条の大橋での九郎との運命的な出会い―――


「静、しっかりなさい!」

 朱鷺の叱咤で静ははっと我に返った。

 ほんの数秒のはずなのにまるで弁慶の一生を垣間見たかのような濃密な時間。

 彼の孤独、祈り、歓喜、そして絶望。

 その全てが奔流となって静の心に流れ込み、彼女の瞳からは知らず一筋の涙がこぼれ落ちていた。

 だが涙と共に静のその歴史を愛する魂の奥底で、一つの冷徹な**「違和感」が芽生えていた。


(…おかしい…)


 静は涙を拭いながら思考を加速させる。


(…弁慶の記憶の中の九郎義経はあまりに純粋すぎる。…光そのものだ。…兄を信じ友を信じそしてその純粋さ故に裏切られ滅びていった…)


(…だが、あの衣川の合戦の記録。そしてその後の奥州藤原氏の滅亡までの流れ。

 …私が読んできた歴史書に記されたその結末は、あまりに手際が良すぎる。

 まるで誰かが描いた完璧な『筋書き(シナリオ)』のようだ…)

 静は心の中で問いかけた。

 胸元の巾着に宿るその悲劇の主人公の魂に。


(…九郎。…教えて。…あなたを本当に追い詰めたのは、本当に兄上と泰衡だけだったの…?)


 そのあまりに鋭すぎる問いかけに巾着の中の九郎の魂が激しく揺らいだ。


『…何を言う、小娘…。それ以外に誰がいるというのだ…』


 その声は戸惑いそしてどこか怯えているようにすら聞こえた。

 だが静のその問いは九郎自身も気づいていなかった八百年前の記憶のその最も深い層に打ち込まれた一本の楔となった。

 彼の魂の奥底に眠っていた一つの光景が一瞬だけフラッシュバックする。


 ―――それは鎌倉の館。兄・頼朝と対面したあの息の詰まるような謁見の間。

 兄のその冷たい瞳。

 そしてその兄の背後。

 御簾の奥で静かにしかし全てを見定めるかのように座している一人の女の「影」。

 その影から放たれる言い知れぬ威圧感と冷たい視線。

 あの時自分は本当に兄とだけ対峙していたのだろうか?


『……っ…!』


 九郎の魂が声にならない悲鳴を上げる。

 その魂の共鳴を感じ取り静は確信した。

 この物語にはまだ我々が知らない「真の登場人物」がいる、と。


「…おばあちゃん。私…」


「分かります」朱鷺は静の肩を支え静かに言った。


「彼の魂に寄り添うのです。飲み込まれるのではなく! あなたの舞で彼の永い孤独を今こそ終わらせてあげるのです!」


 静は涙を拭うと強く頷いた。

 そして扇子を構え直した。

 もう迷いはない。


『…小娘、来るぞ!』


 胸元の巾着から九郎の声と共に黒き呪装の傀儡の鎧が迸り静の身体を彼女の動きを完璧にトレースするために誂えられたかのように精緻にそして有機的に覆っていく。


《…何ヲ…スル…気ダ…!》


 石段の上から弁慶の訝しむ声が響く。

 静は跳んだ。

 怨霊の群れを踏み台に石段を駆け上がっていく。

 八艘飛び。

 ついに静は長い石段の最上段闇の中心へと舞い降りた。

 そこに彼はいた。

 苔むした石灯籠の前に巨大な影が座している。

 その姿はかつての仁王立ちの最期を思わせる不動の威圧感を放っていた。

 静は舞う。

 全ての悲しみを受け止めそして天へと還すための最も神聖な「奉納」の型。


「―――彼の魂に、安らぎを」


 静の凛とした声が境内に響き渡った。

 その瞬間静の身体から放たれた光が無数の黄金色の「矢」となって弁慶の魂へと降り注いだ。


《グ…ォ…オオオオッ…!》


 光の矢はかつて彼の肉体を貫いた鉄の矢のようにその魂の隅々までを貫いていく。

 その姿は衣川での最期を再現するかのように全身が光のハリネズミと化していく。

 だがその矢には痛みはなかった。

 一本また一本と刺さるたびに八百年という永い間彼の魂にこびりついていた怨念無念そして孤独が浄化され溶けていく。


《あ…あぁ…》


 弁慶の魂が見上げる。

 その瞳に映ったのは壇ノ浦の船上で背中を預けてくれた主君の笑顔。


「弁慶、そなたがいれば百人力よ!」と屈託なく笑う若き日の九郎の声。


 暖かく満ち足りた幸福な記憶。

 光の矢はやがてその輝きをどこまでも優しい慈愛に満ちた光へと変え弁慶の魂全体をそっと柔らかく包み込んでいった。


《…我が、殿…。ようやく…ようやく、お会い、できた…。お待ち、しておりましたぞ…》


 満足げな安らかな呟きと共に武蔵坊弁慶の魂が最後の粒子に至るまで完全に天へと還っていく。

 境内にはこれまでの禍々しい気が嘘のような清浄な静寂が戻ってきた。


【🪭4. 急ノ舞:白狐神楽】

 境内にはこれまでの禍々しい気が嘘のような清浄な静寂が戻ってきた。

 静は八艘飛びと魂の融合の激しい消耗によりその場に膝をつく。

 黒き呪装の傀儡の鎧は役目を終えたかのように静の身体からするすると離れ胸元の巾着へと吸い込まれていく。

 朱鷺が駆け寄り静の肩を力強く支える。


「…見事でした、静。あなたは一人の忠臣の魂を八百年の苦しみから救ったのです」


 静は頷こうとしたが言葉が出なかった。弁慶の最期のあの安らかな表情が瞼の裏に焼き付いて離れない。

 その時胸元の巾着から九郎の声が静かにしかしこれまでにないほど澄んだ声で静の脳裏に響いた。


『…弁慶は最後の最後までワレに道を示してくれたか…。あのどこまでも忠義な男よ…』


 その声には深い悲しみと忠臣への限りない感謝そして自らの運命に今度こそ決着をつけるという揺るぎない覚悟が宿っていた。

 九郎は続ける。


『静。そして朱鷺とやら。礼を言う。ワレはお前たちと共にこの戦いを終わらせたい。ワレの半身を取り戻しそして友…泰衡の怨念をこの手で解き放ちたいのだ』


 初めて九郎が静と朱鷺を明確な「仲間」として認め自らの意志を表明した瞬間だった。

 彼のその悲痛なまでの決意が静と朱鷺の心を打つ。

 静は膝に手をつきゆっくりと立ち上がった。


「…行こう、九郎。おばあちゃん」


 その瞳にはもはや涙はなかった。

 あるのはこれから待ち受ける運命の全てを受け入れる覚悟だけだった。

 その静と九郎の覚悟を受け朱鷺が決然とした表情で宣言する。


「…ならば行かねばなりません。本殿へ。ですがこのままの姿では最後の神域へは入れない。静、あなたも、そして九郎殿も、本来の『戦装束』を纏う時です」


 朱鷺は懐から数枚の何も書かれていない真っ白な和紙の護符を取り出しギケイ流「装束変幻の儀」を執り行う。

 形代から伸びる金糸のように輝く霊的な「糸」が静と朱鷺の身体に巻き付き徐々にしかし確実に装束の形を成していく。

 静の身体には純白の狩衣と緋色の袴が。

 朱鷺の身体には夜の闇を思わせる深い藍色の地に銀糸で星々が刺繍された神官を思わせる荘厳な装束が編み上げられていく。

 そして最後の光の糸が静の頭上で凛とした黒い烏帽子を編み上げると儀式は完了した。

 彼女たちの服装は完全にギケイ流の「戦装束」へと変わっていた。

 決戦の準備は整った。

 三人はついに白旗神社の本殿へと続く最後の石段を一歩踏み出した。

 その瞬間空気が変わった。先ほどまでの弁慶の「無念」が渦巻く重く冷たい気配ではない。今この場を支配しているのはもっと熱く激しくそしてどうしようもなく人間的な「情念」の嵐だった。


【…なぜだ、九郎…!】


 いきなり脳髄を直接殴りつけられるかのような悲痛な叫び声が響いた。

 それは泰衡の声。

 裏切られた友への八百年間問い続けてきた答えの出ない問い。


【…我は、お前を信じていた! 奥州の地で、共に新しい国を創ると、そう誓ったではないか…!】


 その声は幻覚となって静の目の前に八百年前の奥州・平泉の光景を映し出す。


『…やめろ…』


 巾着の中で九郎の声が苦しげに呻いた。

 今度は別の声が響いた。

 冷徹で感情がなくしかし有無を言わせぬ絶対的な「法」のような響きを持つ声。

 頼朝だ。


【…愚かな弟よ。情に溺れ天下の大局を見誤る。そなたの存在そのものがこの国の安寧を脅かす最大の『乱れ』であったのだ…】


 泰衡の悲痛な叫びと頼朝の冷徹な断罪が交互に波状攻撃のように三人を襲う。


「静、九郎殿! 耳を貸してはなりません!」


 朱鷺が杖を強く地面に打ち付け呪いの言霊を和らげる。


「これは奴らの後悔そのもの!」


 静ははっと我に返った。

 そうだ。これは彼らの「悲しみ」だ。

 静は扇子を構えた。


「九郎、あなたの本当の気持ちをあなたの言葉を私に聞かせて。そしてそれを舞に乗せる!」


 静は「誓いの舞」を舞い始めた。

 その舞に呼応するように静の胸元の巾着、本殿の奥の木箱、そして泰衡の怨念の核となっている「何か」が共鳴を始める。

 その瞬間三者の魂の記憶が混じり合い静と朱鷺は九郎の最も鮮烈な記憶――「壇ノ浦の真実」を幻覚として追体験することになった。


 ―――世界が反転する。

 血と潮の匂いが渦巻く阿鼻叫喚の海。

 九郎は弁慶に守られながら八艘飛びで御座船を目指し入水寸前の二位尼から安徳天皇とその身柄を確保した。

 船室の奥帝の私室で九郎は安徳天皇と二人きりになった。

 帝は静かに神託を下した。


「…決めたのじゃ。三種の神器は一つにあってはならぬ。この国の安寧のため三つに分けそれぞれの宿命を持つ者に託すことにする」


「宝剣(草薙剣)は、そなたが持て、九郎」


「勾玉(八尺瓊勾玉)は、いずれそなたが出会う、清らかなる魂を持つ舞手に託すがよい」


「そして、鏡(八咫鏡)は…遠き北の地で、平穏を願う、藤原の者に」


 帝の許しを得て弁慶と二位尼が証人として部屋へと入る。

 九郎はその二人に向き直り神託の全てを伝えた。そして自らが佩く源氏の重宝「膝丸」を誇らしげに見つめた。


『直接手渡されたわけではない。だがこれを持つ許しを得た事で兄上が源氏の武将として弟として認めてくださった無言の証だと信じておる』


 その時の九郎はまだ知らなかった。

 信じていた絆の証が実は自らの魂を縛る最も恐ろしい呪いの器であったことなど知る由もなかったのだ。


 ―――幻覚が霧散する。


 静と朱鷺は息を呑んで目の前の光景を見つめていた。

 全ての謎が今氷解した。

 泰衡と頼朝の怨念もまたその「ありえざる記憶」を垣間見て激しく動揺している。


【…嘘だ…そのようなことが…】


 朱鷺が静かにしかし力強く言った。


「…いいえ。帝は生き延びられた。そして神器と共に九郎殿にこの国の未来を託されたのです。あなた方が八百年間抱き続けた怨念は全てこの『真実』を知らなかったが故の悲しいすれ違いに過ぎなかったのですよ」


 その言葉が引き金となった。


【…嘘だ…! そんなことが…あって、たまるか…ッ!】


 泰衡の怨念が絶叫する。

 制御を失った「後悔」のエネルギーが暴走を始め二つの怨念が一つに融合し漆黒の波動が白旗神社の境内全体を飲み込んでいく。

 視界が闇に閉ざされる。

 そして次に静が目を開けた時そこに白旗神社の姿はどこにもなかった。

 彼女たちが立っていたのは業火に包まれ黒煙を上げる壮麗な寺院のその屋根の上だった。

 金色に輝くはずの中尊寺金色堂が黒煙を上げその壁からは黄金が涙のように溶け落ちている。

 北の王都・平泉の無残な最期の姿。


『…平泉…』九郎が苦しげに呟いた。


『…泰衡の心の奥底…。友を裏切り自らの手でこの都を焼き払った時の後悔と絶望の記憶そのものだ…!』


 その時空が裂けた。

 火の粉を纏った黒雲の中から巨大な炎の龍と化した泰衡の怨念がその姿を現した。


【…お前さえ、ここへ来なければ…!】という泰衡の悲痛な叫びに、


【…そなたさえ、生まれなければ…!】という頼朝の冷徹な声が不気味な不協和音となって重なり合う。


 炎の龍が灼熱のブレスを吐き出す。


「九郎!」


 静の叫びに胸元の巾着から神聖な白狐が再びその姿を現した。

 白狐は静を背に乗せると燃え盛る屋根瓦を蹴り炎のブレスを紙一重でかわす。

 地面からは弁慶の「忠義」の記憶が折れた薙刀やひび割れた鎧となって突き出し静を守るための「結界」と化している。


「朱鷺殿!」


「ご心配なく!」


 少し離れた場所で朱鷺が静御前ゆかりの杖を燃え盛る屋根に突き立て叫んでいた。


「この程度の幻術私の結界で道は切り開きます! あなたは舞いなさい静! あの龍の形をした『後悔』の核をあなたの舞で打ち砕くのです!」


 朱鷺が杖を中心に藍色の結界を展開する。

 結界は上空から降り注ぐ怨念の余波を次々と弾き返し静が自由に動ける「舞台」を確保していく。

 白狐の背の上で静は「雪解けの舞」を舞い始めた。

 舞に合わせて周囲の熱風が清浄な空気へと変わり空からは美しい幻の雪が舞い落ち始める。


【…雪…だと…? この燃える平泉に…雪…!?】


 炎の龍が戸惑いの声を上げる。


「九郎、今!」


 静の指示に白狐が浄化の炎「狐火」を龍の心臓へと叩き込んだ。


【グオオオオオオッ!!!】


 龍が苦しげに身悶えする。


『…好機! 静、あの男の一番楽しかった記憶を思い出させてやれ!』


 静は頷くと舞の型をかつて平泉で桜が満開の季節に人々が宴で舞ったという古の舞へと変えた。

 幻の雪は桜の花びらへと変わった。

 燃え盛る平泉に無数の美しい桜吹雪が舞い始める。

 そのあまりに場違いでそしてあまりに美しい光景に炎の龍の動きが完全に止まった。その巨大な龍の瞳に一瞬だけかつての若き日の藤原泰衡の穏やかな顔が浮かび上がった。


 ―――そうだ、あの桜の下で、我らは、共に、酒を酌み交わし、この国の未来を、語り合ったではないか…。


 その一瞬の心の隙。静はそれを見逃さなかった。

 白狐が最後の跳躍をする。

 静はその背から炎の龍の額の中心へと自らの扇子をそっと触れさせた。


【……あ……】


 炎の龍は満足げなそしてどこか安らかな溜息をつくとその巨大な身体を光の粒子に変え桜吹雪と共に空へと溶けるように消えていった。

 第一の怨念藤原泰衡。

 その魂は浄化された。

 炎が消え桜が消え平泉の幻が霧散していく。

 だが白旗神社はまだ戻ってこない。

 代わりに三人の足元を冷たい鉄の匂いがする赤い液体が満たし始めた。

 空は鉛色の重苦しい雲に覆われ空気は氷のように冷たい。

 目の前に現れたのは鶴岡八幡宮の血の滝と化した長い石段だった。


『…今度ハ…兄上…いや、頼朝…カ…』


 九郎が吐き捨てるように言った。

 その血の石段の上からカシャカシャと無数の怨霊武者たちがなだれ込んできた。

 そしてその奥から氷の彫像のような頼朝がゆっくりと石段を降りてきた。


【…我が世の安寧を乱す者、源九郎義経。そしてそれに与する全ての者よ。…ここで果てよ】


 言葉と同時に天から無数の鋭い氷の刃が雨のように降り注ぐ。

 白狐が狐火でそれを迎え撃つ。

 その隙に朱鷺が叫んだ。


「静、九郎殿! あの頼朝の本体は『理』! 情に訴える舞は通用しません! 彼の『理』を超えるほどのより大きな『理』で打ち砕くしかない! 静、舞いなさい! ギケイ流、天地開闢の舞!」


 静は白狐の背の上で深く息を吸った。そして舞い始めた。

 世界そのものを一度混沌へと還しそして再創造するための創世の神事。

 その混沌とした舞に合わせてこの血に染まった鎌倉の世界の「理」が軋みを上げ始めた。

 血の滝が逆流する。鉛色の空に亀裂が走る。


【…何…だと…? 我が作り出したこの完璧な『理』が…乱されていく…?】


 氷の頼朝の完璧な表情に初めて焦りの色が浮かんだ。


【…小娘ごときが…! この頼朝の天下の理を…!】


 頼朝は腰に佩いた太刀「髭切」を抜き放った。

 空間そのものを断ち切るかのような絶対的な一撃。

 だがその一撃が静に届くことはなかった。

 白狐の隣に立つ首のない九郎の幻影が自らの「膝丸」を抜きその一撃を真正面から受け止めていた。


 キィィィィィンッ!!!


 八百年ぶりに、対の宝刀が再びその刃を交える。

 その二つの宝刀が共鳴したその瞬間。

 神器「膝丸」にかけられていた八百年前の「舞の封印」の呪いがついにその限界を迎えた。


【…馬鹿な…! 我が呪いが…!】


 頼朝の驚愕の声を背景に膝丸は本来の月光のように清冽な輝きを取り戻した。

 そしてその清浄な力が九郎の魂へと奔流となって流れ込む。

 呪いから解放された彼の魂が自らの半身を強く強く引き寄せた。

 本殿の奥砕け散った木箱から若々しいままの九郎自身の「首」が光の粒子となり彼の空虚な兜の中へと吸い込まれるように結合していく。

 光が収まった時そこに立っていたのはもはや首のない怨霊ではなかった。

 眉目秀麗という言葉が陳腐に聞こえるほどの強い意志と深い憂いをその瞳に宿した若き日の完全な「源九郎義経」その人だった。


「…静。…礼を、言う」


 初めてその唇から紡がれた生身の声。

 九郎は頼朝の刃を力強く押し返した。


『…兄上。あなたの『理』は確かにこの国に安寧をもたらしたのかもしれない。だがそのためにあなたはあまりに多くの人の心を切り捨てすぎた…!』


『舞を忘れ物語を失った『理』などただの氷の牢獄に過ぎぬ!』


 そして静の舞がついにその頂点に達した。


「―――天地、反転!」


 その言霊と共に静の身体から混沌の原初の光が迸った。

 光はこの血に染まった偽りの鎌倉の全てを飲み込んでいく。


【…馬鹿な…! 我が天下が…! 我が秩序が…!!!】


 氷の頼朝の悲鳴のような叫び声もまた混沌の光の中へと吸い込まれ消えていった。

 光が収まる。

 目の前に広がっていた血に染まる鎌倉の幻は完全に消え去り再びそこには夜明け前の静かな白旗神社の境内が戻ってきていた。

 異空間戦闘は終わった。

 混沌の光が収束したその中心。

 そこにはただ静かに佇む三人の男たちの魂の姿があった。

 鎧を脱ぎ生前の姿に戻った九郎。

 公家の装束を纏い穏やかな表情を浮かべる泰衡。

 そして烏帽子を被り為政者の顔からただの「兄」の顔に戻った頼朝。

 彼らの魂は浄化されあとは静かに天へと還るだけ。

 誰もがそう思ったその瞬間だった。


 ―――だが戦いは終わってはいなかった。


 浄化された後に残った純粋な「負のエネルギーの残滓」。

 そして九郎の魂の根源であり八百年間彼を生かし続けた「怨嗟の木の根」。

 それらが主を失いこの世に害をなす制御不能の「毒」として最後の暴走を始めたのだ。

 完全な姿を取り戻した九郎はその暴走する呪いを静かなしかし全てを悟った目で見つめていた。

 そして彼は静に向き直り八百年分の全ての想いを込めて微笑んだ。


『…静。そなたのおかげで私は人としての心を取り戻せた。舞う喜びを思い出すことができた』


 その声はもう脳内に響く声ではない。

 彼の唇から紡がれる生身の温かい声だった。


『だがこの呪いは私が始めた物語。…私が終わらせねばならぬ』


 九郎は静の返事を待たずに最後の舞を舞おうとした。

 自らの魂ごとこの呪いの奔流を抱きしめそして共に消滅する覚悟だった。

 だがその九郎の肩を二つの手がそっと掴んだ。

 泰衡と頼朝だった。


「…九郎」泰衡が穏やかにしかし力強く言った。


「…もう一人で背負うことはない。…友よ。最後のこの責務だけは共に負わせてはくれまいか」


「…そうだ、弟よ」頼朝もまた静かに頷いた。


「…私はお前にあまりに多くのものを背負わせすぎた。…為政者として兄として犯した全ての過ちを今ここで償おう」


 三人の男たちは互いを見つめ合った。

 そこにはもはや憎しみも後悔もすれ違いもない。

 ただ八百年の時を超えてようやく本当の意味で互い理解し合った友と兄弟の姿があるだけだった。

 三人は頷き合うと共に呪いの奔流へと向き直った。

 そして三つの魂は一つとなった。

 自らの意志でその暴走する「毒」と「木の根」をその魂の中心へと引き寄せていく。


「…九郎…! やめて…!」


 静が白狐の背から悲痛な声を上げる。

 だが九郎は静に最後の微笑みを向けた。

 それは「ありがとう」と言っているかのようだった。

 三人の男たちの魂とこの世の全ての歪みそして再び一つに戻った完全な三種の神器をその内に聖なる「くさび」として封じ込めたまま。

 彼らの光り輝く魂はその輝きを内側へと収束させ一つの巨大で静謐な漆黒の石へと変化していく。

 彼らの最後の穏やかな表情をその表面にかすかに残したまま。

(第十二章 完)

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