第10話

 エリシアに導かれ、俺たちは崩壊しつつある研究施設を奥へと進む。

 

 背後では、魔族たちの雄叫びと、断末魔の悲鳴が遠ざかっていく。

 俺たちの進む先は、長い一本道の通路だった。


 壁も床も冷たい金属で覆われ、非常灯の赤い光が、俺の白銀の髪と、エリシアの漆黒のドレスを、不気味に照らし出している。

 その通路の突き当たりに、巨大な鋼鉄の扉が見えた。


 おそらく、ここが地上へと続く唯一の脱出口なのだろう。


 だが、その前には、絶望が壁となって立ちはだかっていた。

 ずらりと横一列に並んだ、十数名の騎士たち。


 その全身を包むのは、寸分の隙もなく磨き上げられた、鏡のような白銀の鎧。

 左手には、ヴァルハイム王国の国章が刻まれた巨大な盾(タワーシールド)を構え、右手には、刀身から魔力の光を放つ長剣(ロングソード)を握っている。


 その統率された立ち姿、鎧の隙間から覗く鋭い眼光。

 彼らが、ただの衛兵ではない、選び抜かれた精鋭であることは、一目見ただけで分かった。


「そこまでだ、魔女。そして――」


 騎士団のリーダーと思わしき、兜の飾りが一際豪華な男が、一歩前に出る。

 その視線はエリシアを通り越し、俺を、まるで汚物でも見るかのように、蔑みの目で見下した。


「――被験体No.288。ヴェルナー様の最高傑作と聞いていたが、見るに堪えない失敗作だったようだな。国王陛下直々の御命令である。ここで我らが処分する」


 失敗作。処分。

 その言葉が、俺の頭の中で、冷たく反響した。

 俺の存在価値は、こいつらにとっては、その程度のものなのだ。


「……手間のかかる蝿ね」


 隣で、エリシアが心底面倒くさそうに溜め息をついた。


 彼女が優雅に片手を上げ、その指先に、空間を黒く塗りつぶす漆黒の炎が、ゆらりと灯る。

 だが、俺はその手を、自分の左手で、そっと制した。


「……え?」


 エリシアが、初めて少しだけ驚いたように、俺の顔を見る。


「こいつらは、俺の獲物だ」


 俺の声は、自分でも驚くほど、静かで、冷たかった。


 それは懇願でも、許可を求める言葉でもない。

 ただの、事実の通達。


 エリシアは、俺の右眼をじっと見つめ、俺の瞳の奥に宿る、揺るぎない決意を読み取ったらしい。

 彼女は、ふっ、と面白そうに口元を歪めると、灯しかけた黒い炎を消し、腕を組んで後ろに下がった。


 まるで、これから始まる舞台の、特等席の観客のように。


「ほざけ、化け物が!」


 リーダーの騎士が叫ぶ。

 

「全員、構え! あの失敗作を、塵一つ残さず殲滅せよ!」


 騎士たちが一斉に盾を構え、大地を揺るがすような雄叫びと共に、鋼鉄の津波となって俺に殺到する。


 俺は、目を閉じた。

 そして、全ての意識を、右眼に集中させる。


 憎悪を。

 絶望を。

 苦痛を。

 裏切りを。


 俺から全てを奪ったこの世界への、ありったけの呪いを、右眼に注ぎ込む。


 カッ、と。


 右眼が、灼けつくように熱を持った。

 世界が、より一層、深い、深い深紅色に染まっていく。


「――――オオオオオオオオオオオオオオッッ!!」


 俺の口から、もはや人間のものではない、獣の咆哮が迸る。

 右腕が、内側から爆ぜるような激痛と共に、変貌を始めた。


 皮膚が、黒く、硬い昆虫のような甲殻へと変化し、腕全体を覆っていく。

 骨が軋み、筋肉が脈打ち、人間のものとは似ても似つかぬ、禍々しい形状へと再構築されていく。


 五本の指は、ありえないほどに長く伸び、その先端は、黒曜石のように鋭く、鈍い光を放つ、長大な鉤爪(タロン)と化した。

 赤黒い魔力のオーラが、混沌の雷となって、異形の右腕にバチバチとまとわりつく。


 これこそが、俺の新しい力。

 俺の、復讐の牙。


 『災厄の爪(カラミティ・クロー)』。


「な、なんだ……!?」

「怯むな! かかれぇ!」


 先頭を走っていた騎士が、俺の異様な姿に一瞬怯むが、リーダーの声に背中を押され、魔法の込められた剣を振りかぶる。

 だが、その剣が俺に届くことは、永遠になかった。


 俺の姿が、その場から掻き消える。

 

 いや、違う。


 世界の時間が、引き伸ばされたように遅くなる。

 突撃してくる騎士たちの動きが、まるでスローモーション映像のように、コマ送りで見えた。

 俺は、そのコマとコマの間を、すり抜ける。


 最初に、リーダーの背後を取った。

 彼はまだ、俺が元いた場所を睨みつけている。間抜けなものだ。


「――え?」


 リーダーが、困惑の声を漏らす。

 俺は、変貌した右腕を、無造作に振り抜いた。

 

 ゴトリ、と鈍い音がした。

 

 リーダーの兜が、首から上の全てを失った胴体から、床に転がり落ちる。

 鮮血が、噴水のように宙を舞った。


「き、貴様ぁ!」

「隊長を!」


 仲間が、ようやく俺の存在に気づき、驚愕に目を見開く。

 遅い。


 次の瞬間、俺は騎士団のど真ん中にいた。

 右腕を振るう。ただ、それだけ。


 騎士の一人の盾が、まるで紙細工のように、甲高い音を立てて引き裂かれる。

 そのまま、勢いを殺すことなく、爪は騎士の鎧を、肉を、骨を、バターのように切り裂いた。


 左腕を振るう。別の騎士の首が、ありえない角度に折れ曲がる。

 俺は、黒と白銀の残像となって、鋼鉄の群れの中を舞った。


 それは、もはや戦闘ではなかった。

 一方的な、蹂躙。


 力と、憎悪に任せた、ただの虐殺だった。


 悲鳴が、絶叫が、命乞いが、心地よいBGMとなって俺の耳に届く。

 ああ、そうだ。これが、俺の欲しかった力だ。

 

 俺をゴミだと言った、この世界の強者たちを、一方的にねじ伏せる、絶対的な暴力。


 数分後。

 通路には、動くものは、俺とエリシア以外、誰もいなくなった。

 床は血の海と化し、無残な肉塊と化した騎士たちの残骸が、オブジェのように転がっている。


 俺は、最後の一人を壁に叩きつけ、その心臓を爪で貫き、息の根を止めた。

 赤い血で濡れた、黒い爪を、ゆっくりと持ち上げる。


 その爪から滴り落ちる、一滴、一滴の血が、やけに美しく見えた。

 俺の口から、ふっ、と乾いた笑いが漏れた。


 もう、どこにもいない。


 陽翔の隣で、劣等感に苛まれていた、気弱な少年は。

 この世の理不尽に、ただ涙を流すしかなかった、無力な被害者は。

 

 風間レンという人間は、あの研究施設で、完全に死んだのだ。


 俺は、静かに振り返り、壁際で腕を組んで、完璧な笑みを浮かべている魔女を見据えた。

 俺の青い左目から、かつての光は消え失せている。

 そこに宿るのは、ただ、復讐の対象だけを見据える、氷のように冷たい光。


「案内しろ」


 俺は、復讐者として、最初の命令を下した。


「俺の復讐の、最初の舞台へ」

 

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