諸々想紙

葉霜雁景

春を振り返る

 春という季節は、夢のようなものだった。目覚めの感覚と、霞と朧のぼんやりとした雰囲気が、夢現の境を曖昧にする。光と色が増えていくのに、冷たい影は消えず、ふとした時にこちらを包む。そういう影から見る春光が、最も美しく見えるようで面白い。


 初春の頃は、まだ冬から抜け出せていなかった。雪解けや寒さの緩和をじっと待ち続け、じっとしているがゆえに、冬が少しずつほどけていくのを感じ取れるような気がした。止まっていたものが少しずつ動き出し、雪と氷は水に変わり、木の根が明けて黒土が見え、早咲きの花が点々と密やかに開き始める。寒さの隙をついて、かじかむことのなくなった手をゆっくり開くような、身じろぎと幽かな息遣いを感じるような頃合い。研ぎ澄まされた冬の静謐は、春の蠢動を早々と察知するためにあるのかもしれない。

 春が見せる最初の姿は土であり、冬が終わりゆく姿は水である。すべてを覆っていた冬が、最後には春を育むため、その姿を溶かしていく。冷たい雪解け水を吸い込んだ春の土は、もう浅い眠りに入っているけれど、まだ目覚めない。うつらうつら、薄れゆく冬に包まれて、起き上がる時を待っている。


 仲春の頃は、冬と春が交互に入れ替わるようだった。三寒四温、暑さ寒さも彼岸まで。春が未熟で冬に負けているようでもあり、春が気まぐれで冬が怒っているようでもあり……解釈によるが、冬と春は親しいように思える。教師と教え子のようだ。そう思えば可愛らしいのだが、人間は不安定な気温や天候に振り回されるばかりである。

 なんとなく、この頃の風は柔らかくなったように感じられる。依然として冷たいのだが、もう厳寒を敷けるほどの力は無いようだった。代わりに強さを増していく様は、冬が後片付けをしているようにも、春が大きく動き出しているようにも思える。

 春が動きを増していく季節だから、じっと動かず耐えてきた冬という季節を感じ取れるのだろう。静と動が隣り合い、より互いの存在感を際立たせる。そんな姿を垣間見たようだった。

 この頃には遠望が霞んだり、月が朧に滲み出したりと、空気にも水が及び出していた。19時から20時あたりの空は瑠璃色をしていて、どの季節より鮮やかだったように思う。春が来ているのだと、この時に強く実感した。


 晩春になって、やっと春らしい天候や気温になった。いや、これは春の極致であり、これまでに長い準備を経ていただけなのだと知った。一気に光が増して川面がきらめき、花が咲き誇る。春の代名詞だろう桜も咲く。遠くに見える山には霞が掛かり、朧月はより縁を滲ませている。

 麗らかな春爛漫は短い。花に嵐、花冷えの雨、花曇りがやって来る。咲きたての花はしっかりとして、風雨に負けず咲き誇っているが、時が経てば経つほど散っていく。さらにうねる季節の動きに揉まれているのだ。春は美しい装いを、いとも簡単に脱ぎ捨ててゆく。じっとしていられない子どものように。極致という名の頂上へ来たから、後は滑るように降下するだけとでも言うように。

 春の暮れに、華やかな春をざっと洗い流していく風雨は、風雨なりの美を置いていく。花吹雪と虹である。さっぱり洗い流された春の美は、欠片になっても美しさを留め、世に散りばめながら去っていく。

 春の終わりもまた、冬が終わった時と同じく水なのだ。透明な水がどんどん溢れ、解けた冬と一緒になって、土に浸透していく。空に昇っていく。冬と春に満たされた世は、新しい葉を芽吹かせて、活力を漲らせている。


 こうして春を振り返ると、どういう季節なのかが明らかになると同時に、春の全てを知り尽くしていたわけではないことを痛感する。春の名物を知らないということではなく、春の蠢動を察知していなかったことに愕然とするのだ。冬の終わりは春の始まりだというのに、二十四節気七十二候を頼りに調べなければ、春の到来に気付きもしなかったのである。

 思っている以上に、私は春を知らなかった、捕捉していなかったのである。いざ立春から暦を追い続けると、桜が咲いて春が来たと言われることが、あまりにも遅く感じられる。春が頂点へ上り詰めた頃になって、初めて人は春を認知し、喜ぶ。そうして夏を予感させる気温の変化に気付いて、春が素早く行ってしまうかのように感じているのだ。春はずっと、近くで息づいていたというのに。

 春は入念に準備を整え、咲き誇り、そして自らを満遍なく振り撒いて消えていく。静かに現れ、静かに目覚め、時が来たら鮮やかに、力強く開き伸びていく。起き抜けでぼんやりしながら、夢と現をさ迷うような不安定さで進みながら、春は通り過ぎていくのだ。終わる頃には全てを洗い流して。洗い流した後には、しっかりと水を蓄えて。

 淡々と整え、見事な成果を挙げ、自分の痕跡は綺麗に消し去っていく。本当にいたのかと夢のように遠ざかり、現実には無色透明の活力だけを残していく。良くできて美しい、尾を引くような未練もない、夢のような季節が春なのだろう。春が仕事をやり切り、清々しい景色が広がるようになれば、そこにはもう、春を隠れ蓑にした夏がいるのだ。

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