第二十七話 ショタコンの哲学

 五月下旬の雨はこんなにも冷たいものなのか。

 普段は雨にれないオタクでんじょのわたしの体力ゲージが、ますます削られていく。


せきさん……! 我が社の岩倉いわくらさんが来ます……! もうすぐあなたはおしまいですよ……!」


 関根さんは鼻を鳴らした。わたしとあつに包丁のさきを向け直し、うすわらいを浮かべた。


「いくら応援を呼んだって無駄。それよりも——」


 関根さんはまぶたを閉じ、すうと息を吸って。


「ワタシの……仕事を返せ……!」

「はあ? お前の仕事?」


 熱人がほとんどオウム返しにかえした。関根さんは闇にちた瞳をより一層くらくして、


「ワタシの収入源を‼ ショタを摂取せっしゅする場を返せ‼ 許すまじ川原広かわはらひろ‼」


 おいおい、えらくご乱心らんしんだな。


 それにしても熱人のお父様の広気か。息子とその婚約こんやく相手がこんな大変なことになってるぞ。今頃ソファかどこかでのんに寝てんのかな……。そう考えると腹が立ってくる。


 それよりも今は——!


「熱人……。わたしはどうなったっていい……。逃げて……!」

「——⁉」


 熱人が振り向く。


「これ以上の犠牲は出したくないの……逃げて安全な場所から警察を呼んで」


 最初からこのつもりだった。

 子々音ここね先輩は岩倉さんを。熱人は警察を呼ぶ。


 どちらが速いかは分からないが、わたしが死体になる頃には関根さんが確保されることだろう。


 熱人はこれから安全な場所で……すくすくと育っていって——


「最低最悪の大馬鹿野郎‼」


 そこまで逡巡しゅんじゅんしたところで熱人のがなり立てる声が聞こえた。


「一人でカッコつけるな‼ オレたちは二人で一人なんだ‼ お前の言うことなんて聞いてたまるか‼ だってオレは——‼」

「死ねえええええええええええええええええええええええええええぇぇぇぇええええっ‼」


 髪を振り乱し、関根さんが熱人に襲いかかった。

 瞬時に前を向いた熱人は関根さんの一撃をひらりとかわす。


 関根さんは、たたらを踏んで水たまりだらけのアスファルトの上に倒れ伏した。

 熱人が素早く関根さんの手から包丁を奪い取る。


「オレは——パワハラ小学生社長・川原熱人。世界一我儘わがままだからな!」

「熱人ッ‼」


 あんのあまり、それ以上声が出て来なかった。でも。勝ったんだ……‼

 わたしはその場に膝から崩れ落ち、濡れたアスファルトにお尻をぺたんとつけた。もう不思議と体の痛みは感じない。でも体は思うように動かなかった。


 熱人は包丁の先端を関根さんの眼前に向けつつ、雨の中で晴れやかな笑顔をこちらによこした。


莉緒りお。終わったね……!」


 どっと涙があふれた。


「ぐっ……熱人くん……!」

「動くな」


 濡れた関根さんの肢体が闇のなかで街灯の明かりに照らされ、うごめく。


「ワタシの……ワタシのショタどうが……‼」

「残念だったね☆」


 熱人が関根さんに笑顔で包丁を向ける。これははたから見たらめっちゃ怖いだろうな。

 わたしは関根さんに視線を突き刺した。


「なにがショタ道よ……! ショタは天使。そんなショタを殺して剝製はくせいにしようとするなんて、あんたのショタ道は……とんだバッタもんよ!」

「なん……だって……⁉ ショタは天使。そこは認める。でもだからこそ、あらゆることを支配したくなるものでしょう‼」


 関根さんが声を荒げて反駁はんばくする。わたしは、もう痛みを感じない全身を使い、大きく息を吸い込んだ。


「……そんなものはショタのでかたじゃない‼ 究極のショタ道は‼ ショタと本心と本心で結ばれることにあり‼」

「……………………負けた……」


 わたしは精一杯の笑顔を作り、心のなかで高らかにピースサインをした。

 もうすぐ岩倉さんや警察が来るだろう。このモンスター女は社会的にも物理的にも終わりだ‼


 ——ふと。

 かんがした。


 降りしきる雨。


 動かない体。


 幼い頃の記憶がフラッシュバックする。

 これは……お母さんの声——————⁉

 突如、わたしはお母さんがわたしを愛してくれていた頃の記憶に呑み込まれた。




 ——莉緒。今日は『徒然草つれづれぐさ』の『こうみょうのぼり』のお話をしようね


 ——木登りの名人がね。高い木の上で人に枝を切らせてたんだって


 ——その間、名人はなんにも声をかけやしないの


 ——でもその人が高い木から下りてきて、いざ地べたに下りようとするところになって


 ——「危ないぞ」って言うんだって


 ——なんでだと思う……?




『きをぬく! きをぬくからだよ、おかあさん!』




 ——そう! 大正解! 莉緒は賢いねえ!


 ——失敗は得てして、難しい所じゃなくって、簡単な所でしちゃうんだよ


 ——莉緒なら……あたしみたいな人生は歩まずにすむかねえ……




『おかあさん……?』




 ——あははっ! なんでもないよ!




 そこまで記憶の海原うなばらただよって、わたしは現実に引き戻された。

 熱人に伝えなくっちゃ! チャンスはピンチなんだ!


 冷たい雨のなか、熱人が余裕の笑みを浮かべ——


 くしゅん、と唐突にくしゃみをした。


 包丁の先端が関根さんの顔の前からズレるのはひつじょうだった。


 関根さんがワンピースの右太腿の辺りに手を突っ込んだ。


 次に彼女の手が見えた時、その手には——


 鋭利な果物ナイフが握られていた。



「危ない‼ 熱人——————ッ‼」



 わたしは咄嗟とっさに叫んだ。


 しかし。


 果物ナイフが熱人の腹部を真一文字に切り裂く。



 遅れて熱人が視線を戻した時には……すべてが遅かった。

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