第十七話 注目の初任給

 熱人が退院してから一か月ほどが経過した。もう五月の下旬だ。

 その日の朝から、わたしは仕事が手につかずにいた。


じまっ‼ なにやってんだ‼」


 資料を床の上に取り散らかしてしまい、勇者・岩倉いわくらさんから怒声でぶん殴られる。

 うー、青い髪の勇者は少し黙っててよ。わたしだって一生懸命やってるんだからさあ!


 そんなわたしが散乱させた資料を高速で拾い集める小さな手が。これはあつの手だ。


「もう、莉緒りお……じゃなくて小嶋! お前本ッ当にドジだな!」


 熱人はわたしのおでこにコツンとグーをぶつけてくる。


「ご、ごめんねー熱人! あ、いや社長!」


 わたしは舌先をちょろりと出してがっしょうした。


 そういえば先月、熱人はわたしをご両親に紹介してくれる、って言っていたけど……。あれはどうなったんだろうか。ひょっとして立ち消えになっちゃった? しょうがないよね、熱人のご両親、忙しそうだもん。


 以前、経済関係の本で、ちらっと熱人のお父様のひろさんを見かけたことがあったけど……。正直、かなり怖そうだった。できればわたしも会いたくないよ。

 ——その時、背後から殺気を感じたわたしは冷や汗がひたいに噴き出て振り返った。


「莉緒~? それから社長~? あたしの前でいちゃつくなああああああぁぁああああッ‼」


 子々音ここね先輩がほうきでわたしと熱人を資料もろともいていく。


「どわあああああああああああぁぁあああ⁉ ちょっと待てよかねぉぉぉぉぉぉぉおおおおおおおおっ!」

「きゃああああああぁぁああああああああ⁉ 子々音先輩ぃぃぃぃぃぃぃいいいいいいいいっ⁉」


 仲良くオフィスの隅に追いやられたわたしと熱人は、咳込みながらよろよろと立ち上がった。


「お前なに怒ってるんだよ……?」

「フンッ!」


 熱人の声を無視し、子々音先輩は箒を直しに背を向けた。

 この先輩、けっこう情緒不安定なのかなあ? まあ、単にわたしと熱人がうまくいきそうでしっしているんだろう。女の嫉妬ほど怖いものもない。


「社長? 小嶋さん? 大丈夫?」


 この声は灰谷はいたにさんの声だ。

 あぁ、陰険いんけんな子々音先輩と違って心優しい灰谷さん。


「そういえば今日、給料日だよね? 小嶋さんにとっては初任給か!」


 わたしは両の口角が吊り上がるのを抑えられなかった。

 そう、朝から仕事が手につかなかったのは、このため。


 いやー、ここまで長かったよおおおおぉぉぉおおおおおお!

 初任給が入ったら、まずソシャゲに課金しないとね! そんでもってガチャ回して、ガチャ回して、ガチャ回して……! ぐへへへへへへへへへ。


「小嶋? 顔が欲望に歪んでるぞ~?」

「——はうっ⁉」


 熱人の声でわたしは正気に戻る。

 あぁ、初任給、楽しみだなあ。もらうまでは仕事がはかどらないよぅ。

 熱人はそんなわたしの顔色を見て、小悪魔じみた微笑を浮かべた。


「はっは~ん。さてはお前、初任給が楽しみすぎて、今日、特にドジばっかだったんだろう」


 ぎくりとした。


「ち、ちっ、違うよ! わたしはそんな強欲な女じゃない!」

「ウソつけ……! しょうがないなぁ。これ以上ドジやらかされても困るし、お前の給料だけ先に払ってやる!」

「マジで⁉ さすがは熱人‼」


 社内なのに名前呼びになってしまったが、もう構うもんか! わたしはお金が欲しいんだ‼


 熱人はおういろの封筒を持って来た。魅惑の封筒キタ——————‼ だいぶペラペラだけど、高卒の初任給だからしょうがないな。これからどんどん偉くなって昇給していかねば!


「ただし給料をくれてやるには条件がある」

「へ? 条件?」


 熱人はその手に黒い猫耳のカチューシャも持ってきていた。


「このカチューシャをつけて三回『にゃあ』と鳴け」

「——なにそれっ⁉」


 えー……? それはさすがに恥ずかしいよー……。

 今は全社員が見てるんだからさぁ……。

 こんな時、頼りになる勇者・岩倉さんは?


 困り切ったわたしは岩倉さんの席に視線を飛ばす。勇者はトイレに行ってしまったらしく、席を立っていた。なんだよそれ‼ ゆ————しゃ——————っ‼


「……おい金子。ハサミを持って来い」

「はい」

「はえ? 熱人? なんでまた?」


 熱人は子々音先輩からハサミを受け取ると、その刃を封筒にあてがった。


「決まってるだろう。これを真ん中からジョッキンと切るんだよ」

「ひええっ‼ やります! 『にゃあ』でも『わん』でも『ケロケロ』でも……! なんでも鳴きます‼ いえ、鳴かせていただきます‼」


 わたしは熱人の手から黒い猫耳カチューシャを奪い取って頭につけると、


「にゃんにゃんにゃーん! 初任給が欲しいにゃーん! 熱人様! お金ちょうだいにゃーん……!」


 もう、やけくそだ。


 今までの人生で一番恥ずかしかった。デスクについている社員たちからクスクスと笑い声が漏れる。子々音先輩は黒い猫耳カチューシャをつけたわたしを見て興奮していた。


 それを見た熱人は蓮色れんいろの眉をぴくりと動かし、


「だーっはっはっはっはっはっはっ‼ そうか、金が欲しいか‼ ならくれてやるよ‼」


 下品なわらいとともに自身の足元に黄土色の封筒をぺしりと捨てると、それを踏みつけた。熱人は足で封筒をズイっと差し出してくる。


 こんのクソガキ……‼

 まぁ、なにはともあれ。これで初任給ゲット————ん? 紙切れみたいにホントに薄いな。わたしの胸みたいにぺったんこだ。それに軽い……?


「ほれ! 会社に金を払え!」


 何故か熱人が左手を伸ばしてきた。


「熱人? それ……どういうこと……?」

「どういうことって? お前が我がソーマスに与えた損害を払ってもらうんだよ!」


 会社のなかだけど、さっきから名前呼びだ。もういいや名前呼びで!


「熱人、ちょっと意味が分かんない——」

「莉緒。オレは意味が分かる。金を払え」


 一向に意味が分からないわたしは、とりあえず初任給の入った黄土色の封筒を開けた。


 わたしは目を疑う。入っていたのは——給与明細だけ。おおざっな子供の書いた文字で、「給与215,000円、会社の損害216,000円くらい」と大書たいしょしてあった。


「会社の損害216,000円くらい」ってなに⁉ わたしは会社に貢献こそすれ、損害なんて一円も与えてないっての‼


 なにこれ……訳わかんない………………‼


 わたしはその場に崩れ落ちた。熱人は白目をきそうなわたしを、だいあくのようなあくどい表情で見下ろし、ほくそ笑む。


「お前。先月はっぴ着てうちのゲームソフト売ってただろ」

「…………え……? う、うん、そ、そんなこともあったねえ……」

「何本売れた?」

「た……ただの一本も…………!」


 そこまで来て、ようやく思考が追いついた。おおいに不本意ながらも理解ができた。


「——売れなかった分が全部、会社の損害だ!」

「えええええぇぇぇええええ‼ この時代に初任給マイナス千円なんて聞いたことがないよおっ‼」


 そんなあっ! そんなのってないよおっ‼

 今日まで約二か月間、熱人と初任給のためだけに生きてきたのに‼

 これ、いわゆる「爆営ばくえいぎょう」だよね⁉


「熱人‼ これ自爆営業だよ⁉ 立派なパワハラ‼ 今すぐやめなさい‼ そしてわたしに、お給料をちゃんと払って‼」

「自爆営業? なにそれ知らん。そんなの弱者の戯言たわごとだろ。この世はな、弱肉強食なんだよ。弱者は強者のにえでしかないんだッ‼」


 熱人の怒鳴り声にオフィスが、しん……と静まり返った。

 なんで? なんでそんな悲しいことを言うの、熱人‼

 ……——ッ‼



 破裂音とでもいうべきか、そんな音がした。


 わたしが熱人の左頰を思いっ切りはたいたのだ。


 熱人の小さな体は、ふらふらと一回転して床に尻もちをつく。


 熱人は左頰を押さえて呆然ぼうぜんとしていたが、やがて。


「うっ……うぅ……っ! うわあああああああああああぁぁぁああああああああんんんっっっ‼」


 わたしは熱人をはたいた右手をスラックスの生地で拭く。わたしの右手も、けっこう痛かったのだ。


「お前‼ 絶対に許さない‼ 婚約こんやく破棄はきだ‼ 訴えてやる‼」

「訴えてみなさいよ……。パワハラしてばかりの弱者のあんたにできるもんなら……‼」


 オフィスが再び、ざわつき始めた。


「こ、小嶋さん、もう……!」「莉緒……!」


 灰谷さんと子々音先輩がわたしを止めようと近づいてきたが、わたしはそんな灰谷デブと子々音先輩を手で制す。


「——なにごとだ⁉」


 そこへ勇者・岩倉さんが息を切らせて帰って来たのをわたしは背中で感じ取った。

 ——わたしは決心した。

 熱人のパワハラを、絶対にやめさせる‼


2025年 5月23日(金)

【Today’s power harassment】:にゃんにゃん言わされる、自爆営業

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