第2話 勇者が異世界から去った日
勇者が魔物を薙ぎ払う度に、前線は押し上げられて行った。それまで、魔物の暴威に為す術もなく、ただ怯えて身を縮めている事しか出来なかった人々に、勇者の出現は、唯一訪れた一筋の希望の光の様に思われた。
束の間の休息を取る為に、砦へと戻る勇者を目にして、しかし、声を上げる者は皆無だった。皆一様に押し黙り、息を詰め、その一挙一動を見詰めている。
一度、かの者を讃える歓声が砦を揺るがせた事も有った。しかし、その声も、勇者を讃えようと直接彼の下に近付いた者が、口から上を切り飛ばされた事によって、忽ちの内に消え失せた。
皆、誰一人として思い当たらなかったのだ。かの勇者を送り出した時、つい今しがた彼を讃えたその同じ口から、嘲笑と罵倒の言葉が投げ掛けられていた事に。
そして、勇者の目に映る彼等の姿が、最早人を見るそれでない事に。
人と同じ顔を持ち、人と同じく言葉を話す。人と同じ手足を持ち、人と同じ様に振る舞う。そう云った類の、しかし根本的にに性質を異にする物達。勇者の目に映る彼等の姿は、つい先程薙ぎ払って来た物達のそれと何ら変わる所が無かった。今はそうする理由が無いだけで、仮にどんな些細な理由であっても、それが出来てしまったからには、勇者は躊躇なく彼等に剣を向け、顔色一つ変える事無く最後の一兵に至るまでその手に持つ物を振るう事を止めなかっただろう。
それをしなかったのは、偏に彼等の陣営が、自分を元居た世界へ還す手段を有しているだろうと云う、その一点にあった。
異なる世界から彼等の有する戦力を、たった一人で優に超える勇者と云う存在を召喚するという事。それは何時何らかの拍子に、その刃が自分達にも向けられるかもしれない、という危険を孕んでいる。ならば、それに対する手段として、元居た世界に送り返す手段も同時に有しているだろう。
彼等の望みが、自分達を脅かす存在の殲滅であるというなら、それも良いだろう。自分はその役目を果たす。対価として彼等は勇者を元の世界へ送り返す。元はと言えば、何の承諾も無しに無理矢理この世界に連れ去られたもの。釣り合っていないと云えば釣り合っていないが、何処までも自分本位に思考する彼等にその理屈は通用しまい。文句の付け様がないまでに徹底して彼等の要求を満たし、その上で自身の要求を通す。回り道になるが、結局の所これが最善であると思われた。
直ぐ様この場所から王都へと取って返し、脅し付け、無理にでも要求を通す事も考えた。しかし、彼等がその事を想定していたとしたら? 帰還と称して、自分とは全く縁も所縁も無い世界へ飛ばされる可能性も有り得る。詰まる処、どうあっても彼等の思惑通りに動かざるを得ない自身の境遇に歯噛みしながらも、それでも足を止める訳には行かない。もう、自分の命は自分だけの物では無いのだから。
来る日も来る日も迫り来る魔物の群れを薙ぎ払い、遂にその姿をこの世界で見なくなるまでに、およそ十年余の期間が費やされた。これを長いと見るべきか短いと見るべきかに関しては、後世の判断を俟つしかないだろう。ともあれ、脅威は去った。人類は勝利した。これで心置きなく人間同士で争い殺し合う事が出来る。
勇者にしてみればそんな彼等の事情はどうでも良かった。ただ自分の戦う姿を後ろで見ているだけで、上がってきた戦果を、さも自分達の物の様に受け入れ無邪気にはしゃいでいた彼等を横目に、再び勇者は最初に呼び出された豪華な装飾の施された広間に立っていた。
口々に投げ掛けられる賞賛の言葉。それ等全てを無視した上で、勇者は自らの要求を突き付けた。自分を元の世界へと返す様に、と。
それまで満面の笑みだった彼等の表情が強張り、影が差す。あわよくばこのまま勇者を囲い込み、自らの陣営として他国への戦兵として利用する気でいた彼等からしてみれば、ここで勇者に去られるのは痛手であった。せっかく自分達が時間を掛けて育てて来たと云うのに、その恩も返さずにこの世界を去るなどと言う勇者に対して、何と不実な、と云う言葉が其処彼処から上がった。
その中で、お待ちください、と云う、一際澄んだ声が周囲を抑え通り渡った。華麗な衣装に身を包み、亜麻色の艶やかな髪を腰まで伸ばし、澄んだ深い碧眼の、触れなば散らんと云った可憐な姿を見た者達からどよめきの声が上がる。国中にその美しさを讃えられた王女の、去り行く勇者を引き留めんと進み出る。なけなしの勇気を振り絞った行動に、周りの賞賛の視線の集まる中、しかし、王女はそれ以上歩を進める事が出来なかった。
両手を胸の前に組んだ懇願の姿勢のまま、左右に分かれて落ちる自分の姿を、王女は垣間見た。そのまま踏み出していたら、確実に訪れていたであろう自分の姿。王女はその場に崩れ落ち、遂に最後までその姿を一顧だにする事無く、勇者は剣を床を一突きすると、今一度自らの要求を繰り返した。勇者にとって、この世界に呼び出された当初であったならば、その姿に間違いなく動揺したであろうその美しさは、今では見る者を吸い寄せる為に巧みに擬態した蟲以外の何物でもなかった
息の詰まる様な沈黙の中、誰かが言った。もし、その手段が無い、としたら? 勇者は即答した。その時は、この世界で殲滅する対象が一つ増えるだけの事。
直ぐ様術師が呼び出された。最早かの者は此の世界を脅かす災害でしかなかった。そう見做されてからは早かった。瞬く間に儀式の準備が整えられて行く。しかし、その手際は何処かぎこちなく、かと言ってそれが未熟な故の物ではなく、手順自体は手慣れた様子の、何処かちぐはぐな物を感じさせる物だった。
それを見た勇者は、この場にいた誰もが気付かなかったが、僅かに口の端を釣り上げていた。彼等は儀式の内容を理解していないのだ。ただ伝えられるがままに儀式の内容をなぞっているに過ぎない。
長い時を経る内に、彼等の持つ秘伝は失われた。何れ、この先、ほんの僅かな記憶の齟齬で、この儀式自体も意味を為さない物に成り果てるだろう。術者達の様子から、その結末はそう遠くない事が覗われた。今回は自分の手により脅威は取り除かれたが、再び彼等の手に負えない脅威が世界を覆った時、頼みの勇者を召喚する事も出来ずに、彼等は為す術もなく滅びの時を迎える事になるだろう。既に勇者がこの世界に於いて為すべき事は終わりを告げていた。それが為に、勇者はその口端に笑いを浮かべたのだった。
自身の存在がこの世界から遠退いて行く事を感じながら、勇者の意識は早これより帰る世界に向いていた。もう此処には何も無い。此処に在りながら、既に滅びの確定している仮初の存在。
勇者がこの世界を去った後に残ったのは、ただ虚ろな器、空っぽになった世界だけだった。
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