透過性の夢庭 ―これは誰の夢なのか?―
椎奈らん
第1話 欠片たちは秩序を欲さない
私のアパートは築三十年、六畳一間にユニットバス。窓は東向きで、朝七時には必ず陽が差し込む。目覚まし時計は午前六時五十八分を指している。データ入力の仕事を始めて二年、毎朝同じ時間に起きている。これらは確実な事実だ。
しかし今朝は違った。朝が訪れたのか、あるいは夜が終わらないまま光だけが差し込んできたのか、私にはわからない。いつもと同じ光のはずなのに、窓枠に沿って這い上がる光の帯は記憶の断片のように不規則で、そこに映る影は私の輪郭を正確に写し取ってはくれない。
「おはよう」と誰かが言った。声の主は見えない。しかし確かに聞こえた。隣室からではない。この声は、空気を震わせることなく直接私の意識に届いたようだった。
ベッドの端に腰掛けながら、昨夜見た夢を思い出そうとする。しかし夢は水のように指の間から流れ落ち、残るのは湿った感触だけだった。確かにそこには庭があった。石畳があり、透明な何かが流れていた。そして誰かが立っていた。片目の子どもだったような気がする。
時計を見る。針は動いているが時間を示してはいない。分針と時針が同じ方向を指し、秒針だけが逆回りに動いている。これもまた夢の一部なのだろうか。
キッチンで珈琲を淹れながら、窓の外の風景を眺める。高層ビルが林立し、その間を縫うように車道が走っている。人々は蟻のように小さく見え、それぞれが目的地を持って移動している。しかし私には、彼らが本当に意志を持って歩いているのか、それとも何かの力によって動かされているのかがわからない。
珈琲の香りが鼻腔を満たす。この匂いだけは確実に現実のものだと思える。液体が喉を通る感覚、胃に届く温かさ。これらの感覚が私に「今、ここ」という実感を与えてくれる。
「記憶とは何だと思う?」
今度ははっきりと声が聞こえた。振り返ると、誰もいない。しかし確かに誰かが話しかけてきた。その声には聞き覚えがあるような気がするが、思い出せない。
テーブルの上に一冊のノートが置かれている。昨夜、ここにはコンビニ弁当の空き容器があったはずだ。しかしノートがある。表紙は銀色で、文字や模様は一切描かれていない。手に取ると、予想以上に重い。
ページを開く。最初のページには、見覚えのある筆跡で文字が綴られている。私の筆跡に似ているが、完全に同じではない。まるで私が寝ぼけて書いたか、あるいは私の手を借りて誰かが書いたような微妙なずれがある。
『私は今日、自分が誰であるかを忘れた。正確には思い出せなくなった。鏡に映る顔は確かに私のものだが、その私とは何者なのかがわからない。名前は覚えている。住所も覚えている。しかし、それらの情報と私という存在の間に、どのような関係があるのかが理解できない』
文章は私の状況と奇妙に重なっている。まるで誰かが私の心の中を覗き見て、それを記録したかのようだ。しかし筆跡は明らかに私だけのものではない。私の文字と他者の文字が混在している。夢の中では、筆跡もまた意味を変えるのかもしれない。
その時、居間の空気が変わった。温度が下がり、湿度が上がった気がする。
「それは君が書いたものかもしれないよ」
今度は目の前に、白衣を着た中年の男性が座っている。いつの間に現れたのだろう。彼の顔には見覚えがあるような、ないような曖昧さがある。まるで夢の中で見た顔を、起きてから思い出そうとしているような感覚だ。
「あなたは誰ですか?」
「ナミオカです。君の担当医だよ」
担当医? 私は病気なのだろうか。体調に異常は感じられない。むしろ、この状況自体が異常なのかもしれない。
「君は夢を見ますか?」
「見ます。でも、思い出せません」
「それでいい。思い出せない夢にこそ、真実が隠されている。記憶というのは意識の検閲を受けた情報だからね。夢は無意識の純粋な表出だ」
ナミオカ博士は手帳に何かを書き込みながら話を続ける。
「君が持っているそのノートには、君の無意識が記録されています。書いたのは君自身です。ただし、君の中の別の人格がね」
「別の人格?」
「自我とは複数の人格の集合体です。君が『私』と呼んでいる存在は、実は複数の『私』から構成されている。そのうちの一人が、そのノートを書いたのでしょう」
博士の説明は理解できるような、できないような感覚を与える。しかし、なぜか納得してしまう自分がいる。
「では、私は誰なのでしょうか?」
「それを見つけるのが治療の目的です。君はこれから、自分自身を探す旅に出ることになる」
博士の姿が薄くなっていく。透明になり、そして消える。残ったのは珈琲の香りと、手の中のノートだけだった。
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