夢の後は喉が渇く
佐々木の木
第1話しじまの階段
母は死んだはずだった。
朝、父が呼んだ葬儀屋に連れられて、遺体は棺に納められた。夜にはもう、遺影の前に花が飾られ、親戚が集まっていた。なのに、夜中の二時。階段の下から、母の寝言が聞こえた。
「……ん、ちがう……そうじゃない……あかんよ……」
子どもの頃から聞き慣れた、少し高めのくぐもった声。癖のある関西弁まじりのイントネーション。俺は思わず部屋の戸を開け、廊下を覗いた。暗闇のなか、階段の下は見えなかった。
翌日、何も言えなかった。言ったところで、「気のせいや」で終わるのはわかってた。でも、三日目の夜、また聞こえた。同じ時刻、同じ場所。階段の下から、母の声が上がってくる。
「……だめ……それは……おとうさんには言わんといて……」
母の寝言は、決まって“なにかを止める”言い回しだった。そしてそれを聞いていると、俺の指先がじんわり汗ばんでくる。部屋の空気が、階段の底からゆっくりとせり上がってくるみたいだった。
一週間後、夜にトイレへ行こうとして、俺は足を止めた。階段の上に、父が立っていた。無言のまま、下を見下ろしている。俺は思わず、「どうしたん」と声をかけた。父は振り返らなかった。
「……お母さんの声が、してる」
それきりだった。
次の日、父は家を出た。遺影の前に「しばらく実家に戻る」とだけ書かれたメモを置いて。仏壇には線香の匂いだけが残っていた。それからしばらく、声はやんでいた。気味悪さはあったが、俺は少しホッとしていた。
けれど、十日目の夜。
ついに、階段の途中に“影”が立っていた。ぼんやりと、逆光のように。形は、人間。でも、顔だけが、濃い影のなかに沈んで、見えなかった。そいつは、しゃがんだ。うずくまるような姿勢で、
「……ゆるしてな……」
とだけ言った。
聞き覚えのある、母の声だった。でも、口調がどこか“幼かった”。
俺は、思い出した。母のアルバムのなかに、赤ん坊を抱く祖母の写真があったことを。その赤ん坊には、母とは違う名前がついていた。“夭逝した姉がいた”と、母は一度だけ言っていた。その子の名は、もう誰も口にしなかった。
階段の途中にいるのは、母ではない。あれは、母の中に住んでいた“もうひとりの声”だ。死んだことで、ようやく出てこられたのだ。母の寝言は、母のものではなかったのかもしれない。ずっと階段の下から、登ってこようとしていたのかもしれない。
今夜も、声が聞こえる。
「……あかんよ……登ってきたら、あかんよ……」
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