◆2/陽光のキミ

 あれから数日が経った。

 表面上、篝は何事も無かったかのように過ごしている。報告書を仕上げ、訓練を繰り返し、スズネやリンネと過ごす。

 勿論、任務から帰った篝を、スズネやリンネは心配してくれた。そんな彼女たちに「大丈夫。ちょっと瘴気に当てられただけ」とごまかしの言葉を口にした。

 その言葉を全部信じてくれたとは思っていない。

 それでも篝に対して、それ以上追求してくるようなことはなかった。

 そうして、日々を過ごすうちに、胸の棘は固さを増し、なお深く突き刺さった。


 任務中に体調を崩したのもあって、機動課きどうか――の更に上、司令部から休暇を取るようにとの指示を受けた。どうやら、事態を重く受け止められているらしい。

 しかし、何をして良いかわからない。それが、篝の正直な感想だった。

 自室のベッドに横たわり、適当に動画を流してみたが、音も映像も篝をすり抜けていく。


 モノトーンの時間だけが、無為に過ぎていった。


 突如、ばあん! と、激しい音とともに、静寂が破られる。

「カガリン! お出かけや!」

 心底驚いた顔をした篝が、音の方向へ視線をやると、そこには仁王立ちのスズネがいた。

 自室のドアが開いてるのを見ると、どうやら先ほどの爆発音らしきものは、スズネがドアを勢いよく開けた音らしかった。


「カガリン! お出かけや!」同じ言葉を繰り返す。そのままズカズカと部屋に入り、椅子に腰を下ろした。

「今、休暇中なんやろ? うちもな、パパに頼ん……いや、業務に隙間ができてな、たまたま休暇中で暇やねん!」

 やからな――とスズネが続ける。

「一緒にどっかでかけよや〜。な〜? ええやろ?」

 思考がいまいち追いつかなかったが、寄り添う仔犬のような温もりが広がり、ほんの少しだけ笑みが漏れた。


 ふたりで駅に向かって歩いていく。

 今日のスズネはいつも以上に可愛らしい。ピンクのカットソーにデニムのショートパンツを合わせ、跳ねるように歩道を進む。黒のスニーカーが地面に触るたび、音符が跳びはねているようだった。

 それに比べて篝は、白のシャツと黒のスキニージーンズのシンプルすぎる組み合わせだった。

 同じ性別なのに、この可愛さの差はなんなのだろうと、自分の服装を少しだけ後悔した。


「水族館って遠いの?」

 篝の声に、まるでダンスのような軽やかさでスズネが振り返る。

「電車で10分くらいちゃうかな。すぐに着くで!」

 動きに合わせてふわりと舞う髪が、陽光を受け、流れるように輝いている。

 その一瞬、町の喧騒が消えたように思えた。


「どんな魚がいるんだろうね」

「イワシにサバにマグロやろ? あとはアジとかヒラメ?」

(全部、食用魚……。)という心の声は封印して「楽しみだね」と答えた。

「あ、でもな。いっちゃん見たいんはクラゲやねん! なんか宇宙みたいにウワー! ってなってるらしいで」

「へぇ! 綺麗なんだろうね……。わたしも、それ見たくなってきた」と言って、小走りに駆け出す。

「ちょっ……! まって! おいてかんとって!」

 背後から、慌てるスズネの声がした。

 振り返り、微笑む。

 こんなに自然に笑えたのは久しぶりだった。


 平日の昼間というのもあって、人影はまばらだった。

 館内はいくつかのエリアにわかれ、それぞれがテーマに沿った展示を行っている。優雅に泳ぐ魚たちを鑑賞しながら、中央の大水槽をぐるりと回るように移動していった。

 スズネは、サバを見れば「うわ! めっちゃ美味そう!」と声を上げ、熱帯魚を見れば「なんやあの青い魚。……食えるんか?」と真剣に悩んでいた。

 大いにはしゃぐスズネと、それを微笑みながら見守る篝。

 ふたりの間に流れる時間は、ゆったりと優しかった。


 照明の落とされた通路を進み、一段低くなったゲートをくぐる。

 スズネと篝、ふたりの息をのむ音だけが、微かに空気を揺らした。

 全天を覆う巨大な水槽。夜のような黒い天井を背景に、淡い光を反射しながら、ひらり、ふわりとクラゲが揺蕩っている。まるで天の川を閉じ込めたような、眼前に広がる神秘的な情景に、ふたりはしばらく言葉を忘れていた。


「……すごい」

「……すごいな」

 止めていた息をゆっくり吐き出すように、ふたりは同じ言葉を紡ぐ。

 それは天井を覆う星々の海に、ゆっくりと溶け込んでいった。


「なぁ、カガリン。無理……してへんか?」

 天井に視線を向けたままのスズネが、ふいに吐息のような言葉を漏らした。

 その言葉に、篝の体がほんのわずかに強張る。

「無理なんか……してないよ」さらりと答えたつもりだったが、言葉がのどに詰まってしまった。

「クラゲってな、泳がれへんのやって」

 急な話題の転換に、思わずスズネの方を見ると、彼女はいまだ天井を見つめている。

「ただ、海流に流されて、漂って――けどな、それでも生きて、進んでる」

 気づけば、スズネはこちらをじっと見つめていた。

「そんなんで、ええんちゃうかな? 自分ひとりで進まんでも、海流が運んでくれる」


 心中に陽光が差す。その光は篝の内側を優しく照らし、彼女を苛み続けた棘を、ホロホロと崩していく。昏く淀んでいた精神が、ぼんやりとした明るさを取り戻していった。


「うん……うん……。そうだね……」

 

 弾けるようなスズネの笑顔に、篝がはにかんだ笑顔を返した。

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