地球と自由
「失礼します」
部屋に入り、いつもの自分とは違う声を意識して出す。プライベートではあまり使わない、穏やかなトーンで。
扉を静かに閉じて、一礼。
第三病院 精神保存科 第七病室。
ひとりの女性が横たわっている。
綺麗な長いブロンドの髪。透き通るような白い肌。
この都市、Beta-3出身ではないことが一目でわかる。
目は、閉じられたままだ。
連続した意識不明状態が、今日で二週間になる。
何度か廊下で顔を合わせたことがある気がする。
だが、言葉を交わした記憶はなかった。
少女が、静かに顔を上げる。
悲しさか、諦めか。表情を読み取るのは難しい。目が合うと、少女は軽く会釈をした。私も、それに応える。
瞳は綺麗なグレー。
眠る母親と、同じ色をしているのだろう。
「……看取師の久瀬です」
瞳に少し見惚れていた。
慣れた声で話を続ける。
「お母様の臨界意識停止状態が、医師によって確認されました。これは、連続した2週間の意識の喪失を意味しております。」
酷な事実ではあるが、淡々と続ける。
経験上、下手な同情は却って逆効果だ。
「本日は、SE-HASS、いわゆる地球のご説明に参りました。お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「田中……田中夏希です」
夏希——夏を、
現代では珍しい名前かもしれない。
夏は2週毎に来るからだ。
「夏希さんですね。ありがとうございます。」
顔には出さず、続ける。
「お母様の生前の同意記録が確認できておりませんので、本日は夏希さんに
母親はここに運ばれて長いが、認知機能の低下などから同意確認はできないと判断されていた。
「すでにご存じのことも多いとは思いますが、
これから改めてSE-HASSについてご説明いたします。何か現時点でご不明な点はございますか?」
「……いえ、ありません。始めてください」
私は頷き、タブレットを起動する。
表示された説明資料に沿って、制度の内容を語る。
何百回と繰り返してきた文言。
身体が、喉が、自然と言葉を生成する。
グレーの目が、画面を見つめる。
私の声に合わせて、小さく頷いている。そのことに、少しだけ安堵した。
「……以上となります。何かご質問はございますか?」
大抵は、ここで返ってくる。
「大丈夫です。署名します」と。
静かな声で、それだけを言う人も多い。
だが、夏希は違った。
「……地球って、自由ですか?」
不意を突かれ、思わず答えに詰まる。
今の問いかけは、想定していなかった。
私が理解できていないと察したのか、彼女は続ける。
「お母さんは……地球で、自由になれますか? 例えば、鳥みたいに」
……初めてだった。
こういう問いを受けたのは。
しばらく何も言えず、ただ彼女を見つめる。
返答を誤れば、何かを壊してしまうような気がした。
驚きが顔に出たのは分かっている。だが、どう取り
私の言葉は、遅れて、慎重に口をついて出る。
「鳥には……なれません。地球では、人間として、生まれ直すことになります」
夏希の表情は変わらない。
「ただ……そうですね、鳥のように大空を駆けることは、できるかもしれません。そういった技術は、私たちの先祖が地球に暮らしていた頃に存在していたそうです」
そう言って、私は少しだけ笑う。
夏希は、少し目を伏せた。
作り笑いであることは伝わってしまったのだろう。
「……すみません、変なこと聞いて」
「あ、いえ……」
少し明るい声で夏希が続ける。
「もう少し、母と居させてください。この病室、あとどれくらい使って大丈夫ですか?」
「数日は可能だったと思います。確認しますね。後ほど先生も来るので、先生に伝えてもらうよう頼んでおきます」
夏希は、少しだけ安堵したような顔をした。
それが問題の先延ばしであることは、彼女もわかっているはずだ。
「ただ……意識がない状態が長く続くと、脳の保存に影響が出る可能性があります。なるべくお早めのご判断をお勧めします」
準備もあるので、同意の前には出来るだけご連絡ください。そう伝えて、タブレットをベッド脇に置き、私は部屋を後にした。
地球と、自由。
液体の中に閉じ込められた、脳。
彼女の問いかけが、私の心を揺さぶっていた。
⸻
時計の針が終業の時刻を指す。
ただ、今日は夜勤のシフトに入っている。
伸びをして、腹ごしらえでもしておこうと、机の上の軽食に手を伸ばす。
その瞬間、アラートが鳴った。
——田中さんの病室。
同意が完了したという通知だった。
安楽死ではない。地球移行の同意だ。
意識停止後の
処置に備え医師に報告を入れ、病室へと急ぐ。早足で廊下を進む間、心がざわついていた。
(なぜ...急に同意を...?)
昼間の様子だと、今日同意することはないと思っていた。同意するとしても、事前に報告はしてくれるだろうと。
彼女の身に何かあったのだろうか。夕方頃に廊下で会った時は、病院裏の公園に行くと言っていたが...
病室のドアを開ける。少し音が鳴る。
珍しく、自分の焦りを感じた。
昼間と同じ。
ベッドには、変わらず美しい女性が横たわっていた。
そしてその傍に、彼女——夏希が立ち尽くす。
目は見開かれ、表情は硬直している。
床には、タブレットが落ちていた。
手から滑り落ちたのだろう。
「……夏希さん?」
静かに声をかける。
「大丈夫ですか?同意を確認しましたので、すぐに処置へ移りますね」
返事はない。
けれど、数秒後、彼女はゆっくりと、ほんの少しだけ頷いた。
それを見て、私はベッドを部屋の外へ運ぶ。
夏希は、一歩も動かなかった。
そこに立ったまま、何も言わず、母親を見送っていた。
すれ違ったスタッフに、彼女のフォローを頼み、私は処置室へと向かう。
この後の仕事も多い。自分を落ち着かせるため、私は深呼吸を繰り返す。
夏希の言葉が、頭の中をこだましていた。
——地球って、自由ですか?
——お母さんは、地球で自由になれますか?
彼女は、母のために何を願ったのだろうか。
それを知る術を、私は持ち合わせていない。
⸻
田中夏希の言葉を、私は今でも思い出す。
綺麗なグレーの瞳と共に。
——あの日から、もうすぐ一年が経とうとしていた。
⸻
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