第8話 深層生態学②

 昼食を終え、生徒たちは再び講義室へと戻ってきた。


 照明が落とされ、教壇奥のホログラフがゆっくりと起動する。浮かび上がる青い文字列──「セレナス分類基礎」。


「それでは、午後の授業を始めますね」


 静かに響いた凪先生の声は、午前と変わらず穏やかだった。

 彼女はステージの中央へと歩み出ると、手元の端末を操作し、ホログラムの円環を空中に展開させた。


「午前中の内容を踏まえて、今回はセレナスの具体例を見ていきましょう。

 とはいえ、ここで紹介するのはほんの一部です。

 セレナスは、共鳴する人によって性質がまったく変わる……それを前提に、参考までにご覧ください」


 最初に現れたのは、しなやかな体躯を持つイルカに似たシルエットだった。

 尾びれは広く、流線型の身体が優雅に光の中を泳いでいる。


「こちらは“イルカ系セレナス”。

 共鳴事例の多い、比較的穏やかな個体群です」


 生徒の何人かが端末に視線を落とし、情報を記録する。


「この個体は、高速遊泳に特化した能力を持ちます。

 最大時速80キロ。救助や探索、緊急搬送任務で活躍する例が多いですね」


 続いて浮かび上がったのは、体側に波紋のような模様を持つセレナス。

 ホログラム上で、その模様が水中に同心円を広げていく。


「こちらは“音響探知型”。

 イルカのソナー能力を拡張して、水中構造物や生体の気配を検知できます。

 海底調査やインフラ点検に用いられることもあります」


 静かな驚きの声が上がる。


 さらに三体目──淡く青白い光を放つ、幻想的なセレナスが現れた。

 水中に同化するような揺らめきと共に、尾びれを広げる。


「最後に、“水操作能力”を持つ個体。

 周囲の水を自在に操り、攻防両面で活躍します。

 ある程度の訓練を積むことで、物理現象そのものに干渉できる個体もいます」


 ユウはその光景を眺めながら、自分の中にある“力”を思い返していた。


(……あれも、これに近いのかな?)


 思考が霧のように揺れた。


「……ここまで見ていただいた通り、セレナスには多様な能力があります。

 でも大事なのは“能力”よりも“関係性”です。

 どんなに高いポテンシャルがあっても、共鳴がなければ、力は引き出せません」


 凪先生は、ゆっくりと円環を閉じると、次のスライドを表示した。


 映像が切り替わり、そこに「ルイン・セレナス記録映像」と表示される。


「──ここからは、少し現実的な話をします」


 映し出されたのは、夜の監視映像。

 海中で揺れるカメラの映像に、赤黒い影がゆらりと現れた。


 無人潜航機のライトが次々と砕かれ、画面が一瞬、闇に包まれる。


「これは先月、深層門アビス近辺で観測されたルイン・セレナスです。

 甲殻類のような姿でしたが、共鳴の兆候はなく、出現直後に暴走。

 施設を破壊し、職員に被害を及ぼしました」


 静止映像に切り替わる。そこには、禍々しい棘を持つ巨大な外殻が映し出されていた。


「被害は観測基地一棟の全壊、職員三名負傷──うち一名は重体です」


 教室には沈黙が落ちた。


 ユウも、背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 ルイン・セレナス──あの時、船で対峙した光景が、脳裏をよぎる。


(あれも……同じだったのか)


 手のひらに、ふと残る感触がよみがえる。


 映像はさらに進み、特殊部隊の対応記録へと切り替わった。

 セレナスを帯同した隊員たちが包囲し、ようやく制圧に至るまでが、静かに再生されていく。


「このような個体に対処するため、アビス・ガーディアンと呼ばれる部隊が設けられています。

 彼らはセレナスの知識を持ち、共鳴による抑制を試みる最前線の存在です」


 ホログラムに浮かぶ、戦闘服の隊員たち。いずれも気配が鋭く、静かな威圧感を放っていた。


「ですが、皆さんにまず知っておいてほしいのは──

 セレナスは決して“敵”ではないということです」


 先生は、生徒一人ひとりをゆっくりと見渡す。


「彼らは、私たちの心を映す鏡です。

 だからこそ、向き合い方を間違えれば、災いにも変わってしまう。」


 その言葉に、静かだった空気が、少しだけ引き締まった。


 やがて、背後の濃紺の海に浮かぶ藻が、ゆらりと流れを変えた。

 静かにチャイムが鳴り、授業の終わりを告げる。


「──今日は、ここまでにしましょう」


 凪先生は、静かに一礼をした。


 初めての授業の幕が下りたその瞬間、生徒たちは誰もが口を開かず、各々の思考の海へと沈んでいった。


 まるで、そのを、今ようやく知ったかのように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る