俺のとなりで全部教えてくれよ
結局だな、今って季節としては何なんだ。夏なのか? 梅雨なのか? 別にどっちだって構わないったらそうだけどな、あんまり曖昧なことをやられるとどうも落ち着かない。梅雨前線も前線だ、ふらふらいなくなったり戻ってきたり、そういう不実な真似をされると受け入れる側だって困るんだ。どうせ手を出すなら徹底的にやってくれた方が諦めがつく。なんだってそうだろ、どっちつかずの生殺しが一等酷なんだから。
一昨日なんかもあれだろ、ものすごい豪雨だった……何だっけ、なんか降水帯、のせいだったか? 覚えらんないんだよなあれ、環太平洋擬装網みたいだなって字見るたびに思うんだけど、どうしても帯水とか水帯とかでごちゃごちゃになって何にも覚えられない。ばらばらって大粒の雨がすごい密度で降るんだもんな……そうだよな、相当うるさいよな、あれ。屋根とか窓とか薄くて響くところに当たると、ずっとびりびり音がしてる。
けどさ、雨音、建物によっては全然聞こえなかったりするよな。防音のあれこれなんだろうけど。お前の部屋はどうだ、そういうの――ああ、窓に近づくと聞こえるのか。まあな、最近の雨、戦争映画みたいな音立てて降るからな。窓際とかばちばちってすごい音する。窓の傍じゃなければ全然聞こえないってことは、そこそこちゃんとした
こういうこと言い出すの、ちょっとあれだってのは分かってんだけどさ。たまにさ、漫画とかドラマであるじゃん。マンションとかアパートの集合住宅に住んでて、隣は何をする人ぞみたいに壁に耳当てて音聞いちゃうみたいなやつ。ああ、そうそう中島らもの小説にあったな、耳のやつ。トリハダのやつはさ、二つあるじゃん。マイナスドライバーっぽいやつと、ベッドの下男っぽいやつ。よく知ってるって当たり前だろ、実家いるとき見たじゃん、っていうかお前が配信で怖いのあるから一緒に見ようってやったんだよ。そんときにマイナスドライバーとかの解説もしてくれてさ、こいつ色んなこと知ってんなって思ったから覚えてるんだよ。そもそもお前がそういうの好きっぽいから、俺もこうやって色んな話をさ……まあ、半分くらいはね、そんな感じだよ。好きだろ、こういうの――良かった。お前に嫌がられたら、どうしていいか分からないからな。
じゃあ、今日もそういう話にするか。喋ってる間に、思い出した話がある。どっちかっていうとそうだな、壁の話? ……要約が下手なのはさ、自覚してるから、あんまり言わないでくれよ。努力はしてるんだ、それなりにな。
会社の同期でさ、安達ってやつがいたんだけど、そいつから聞いた話だ。忘年会で、一次会で失礼したはいいけど何となく帰るには半端な時間だねってときに、じゃあ酔い覚ましと時間つぶしにってカフェチェーン入ったときにね、コーヒーとキッシュのお供に聞いた。
安達、実家は西の方らしいんだけど、大学進学を期にこっち出てきてそのまま就職したんだよね。だから大学からずっとマンション住まいだし、就職してからもちょこちょこ住む場所も変えてる。そんな面倒なことよくやってんな、って思うだろ? そいつんち物が全然なくてさ、小さい本棚と貴重品のあれこれが入ってる小物、あとは寝床一式ぐらいしか大きいものがないんだと。だから荷造りも楽だし、住んでるとこに飽きたり条件良いとこ見つけたくらいの動機でふらふら引っ越せるんだってさ。
引っ越しが趣味なのか、って聞いたら、ちょっと考えてから半分だけ、って答えた。
――もう半分は人探しです。
会いたい人がいるんです、父ですって言い切るもんだから、ちょっと怖かったな。ほら、生き別れの父がとか、そういう複雑なご家庭のやつだったら踏み込まない方がいいやつだろ、マナー的にさ。だから、どういう父の話だって聞いたら、部屋にいた父ですって答えが返ってきた。
大学時代に住んでた部屋に、父がいたんです。俺、捨ててきちゃったんですよね、勿体ないことに。
そうしてコーヒーを啜ってから、間合いを測るようにこちらを見る目が照明のせいできらきらしてた。だから、正気かどうかも分からなかった。別にどっちでもいいったら、その通りだけど。
さっきも言ったけど、安達は大学進学を期に地元を離れて、こっちで一人暮らしを始めたやつなんだよな。当たり前だけど、父親は実家でちゃんと生きてる。住んでた物件がどうだったら、普通なんだよ。学生向けマンション、1Kで風呂トイレ別の月六万だからまあ、平均的な物件だよな。訳アリにしてはお得感がない、っていうかこれで何かしらあったら損まである。
親元を離れて一人暮らし、最初はそれなりにはしゃいでたんだそうだ。そりゃあそうだ、大学に行くのは大前提として、それ以外の時間がまるごと自分の裁量で消費できるようになったんだからな。おまけに親の監視の目もない。食事だって気が向いたときに好きなものを好きな分量で食べてもいいし、面倒なら食べなくってもいい。休みの日に昼まで寝てたって、次は明け方まで起きてたって、誰も何にも文句を言わない。
初めての一人暮らしなんて、高校生の夏休みから受験勉強と未成年の枷を外したようなもんだからな。そりゃあ浮かれる。何やったって楽しいに決まってる。お前もそうだったろ?
けれども数か月経てば、色んなことに慣れてくる。要は飽きるんだよな。夜中に部屋を抜け出して、コンビニに行ってアイスとスナック菓子を買って薄暗い夜道をとぼとぼ歩くだけであんなにどきどきしたのに、それが当たり前に馴染んでいくんだ。二十四時間人通りの途切れない駅前も、いつ見ても混雑してるファストフードのチェーン店も、街灯の淡い光が滲んだ生温い夜闇の感触も、全部が馴染みのある風景になってしまう。
そういう頃になると、また自分が何にもうまくできないことにも気づくんだよな。
ゴミ捨ての曜日をうっかり忘れるたびに、どうしてこんな社会の基本みたいなことさえまともにできないのかと玄関に積んだ袋を見るたびに思ったり、Suica付き定期にチャージし忘れて改札で引っかかったり、洗面所の電球が切れて、取り換え用に買ってきたやつが合わなかったり。些細でくだらないことだけども、そんなことも自分には満足にできないっていうのがじわじわ分かってくるんだよな。
梅雨の夜だった。何かしらささやかなしくじりがあったんだろうけど、覚えてもないんだと。それでも一丁前に落ち込んで、明かりを消しても何となく寝つけなくて、壁際のベッドに座り込んでぼんやりしてたんだと。
こうやって寝たところで明日は来るし、その明日も今日と対して変わらないんだろうし、そんな平凡な毎日でさえ自分はつまんないミスをやらかすんだろうし――と、まあ、ろくでもないことをうだうだ考えていた。
「そう悩むことでもない。早く寝ないと、明日が辛いぞ」
安い壁紙にざらつく壁、そこに寄りかかった背から、肩から、耳から声が伝わる。どうしたんだと労わるような、気遣うような調子の優しい声だ。
最初は驚いて、壁から身を離した――勢い余ってベッドから落ちかけて、ぐらぐらしながらどうにか布団にしがみついて、また恐る恐る耳をつけた。
「――大丈夫だったか。ベッドからでも落ちたら怪我するからな、ちょっとした高さでも、油断すると危ないんだ」
こちらを見ているってのが分かって、恐る恐る部屋中を見回した。けど、当たり前だけど誰もいない。本棚と、ローテーブルと、部屋の隅で干しっぱなしになってるバスタオルぐらいしか見当たらない。
呆然と身を預けたままの壁から、撫でるような柔らかさで、囁く声が伝わった。
「大丈夫だ、心配しなくていい。俺は父さんだし、父さんだからお前の味方だ」
父さんって名乗ったんだってさ、その声。
勿論そいつの父とは似ても似つかない声だった。地元を離れて一人暮らし、父親どころか知り合いもいるわけがない学生マンション――それで部屋の壁から父親の声が聞こえるなんてわけがない。一応はな、隣の部屋のやつが父親を名乗って話しかけてきた、も可能性としてはあるかもしれない。けど、ないだろ、それ。物理的にはありえるけど、その他で大体ありえない。
だから父なわけがないけど、安達は父だと飲み込んだ。
壁の父はその希望に応えてくれた。声が聞こえるのは夜だけだったけど、それもかえって都合が良かった。寝る間際、父の声を聞きながら眠りにつけるわけだからな。日々のどうしようもないことを愚痴れば慰めてくれるし、しくじったことを零せばアドバイスもくれる。そいつに落ち度があるときは、ちゃんとそれも指摘してから慰めて力づけてくれる。そんな父親らしいことをしてくれるなら、認めてやるのが筋だろう――それに、相手がそもそも父さんって名乗ってるしな。そういうものだと受け入れたってだけのことだろう。
色んな話をしたってさ。コンビニで売ってた期間限定の炭酸コーヒーがリアクション取りづらい感じで微妙な味だとか、大学からの帰りにセールスに声を掛けられて、何階建てのマンションにお住まいですかって聞かれてマジで知らなくて答えられなかったし他の質問も誤魔化す以前に分かんなくておろおろしてたら逃がしてもらえたとか、夕飯にたまねぎ抜きのカツ丼が食べたくなったからスーパーで材料揃えて、よし作るかって調理台のところに品を出したらカツがなくって唐揚げがあって、レシート見ても唐揚げがあるから自分が何したか分かんなくなったけどとりあえず唐揚げを卵とじにして食べたとか。
大概がくだらない、つまらない話だった。でも家族同士の雑談なんてそんなもんだろうしな。――俺だって人のことは言えない、こうして夜な夜なお前に変な話を吹き込んでるわけだからな。この話に実があるかったら、なあ。確かめるまでもない。
そいつが大学を出て引っ越す日まで、壁の父はいてくれたんだと。
最後の夜、段ボールだらけの部屋で壁に寄りかかって話をした。その夜も色んな話をしたはずなのに、どうしてかあんまり思い出せないって悔しがってた。『俺はずっとマルボロ吸ってるな』って一言だけ覚えてるんだと――だから、俺は父親の吸ってる銘柄だけは知ってるんですって、そう安達は言ってたな。
でも、それでおしまい。夜が明けて時間になって、引っ越し業者が来て、荷物を運び出して、安達も部屋を出た。
それから随分経ったし色んな部屋に住んだけど、どこの部屋の壁からも父の声は聞こえてこない。だから、まだ探してるんだと。あのときの父を、壁の父を、ずっと。
どうなんだろうな、たまたまそいつが住んだ部屋の壁に父が来たのか、それとも元々その部屋の壁には父がいたのか。後者だったら訳あり物件扱いになりそうだし、事前に説明とかありそうだけどな。だってほら、下手をすれば夜な夜な人の声がするってクレームが飛んでくる可能性だってあるわけだから。そう考えるとたまたまっぽいけど、だとすると安達のやってること、めちゃくちゃ絶望的っていうか……まあな、分かっててやってそうな気はするけどな、その辺も。
コンロ二口エアコン・洗濯機据え付けトイレ風呂別父親付き、こういう物件、相場の見当がつかないな……。訳あり物件って括れば楽かもしれないけど、それも乱暴な気がする。その手の物件の訳って、こう、害があるじゃん。壁の父、悪いことはしてないから。父親を名乗って、話を聞いて、励ましたり叱ったりしてくれる。悪いことはしてないんだよな。首も絞めないし悪夢も見せない、本やら皿やらぶん投げたりもしなかったんだから、全く安全な
ああ、安達も同じことを言ってた。部屋の壁、そこにいる父だったとするなら、またあの部屋に入ったやつにも父の声が聞こえているんだろうかって。自分のことを励ましたように、慰めたように、叱ったように。あの声でまた違う誰かの父親を名乗っているのかと思うと、胸の奥に砂を詰め込まれたような心地になるって、キッシュにフォークをぶっ刺したまま言ってた。
――仕方がないよな、だってそいつは父なんだから、誰にだって父として振舞うものだ。自分だけの父にしたかったのなら、ちゃんと手元に置いておけばよかったんだ。……どうやるんだったら、そんなの俺だって知らないさ。ただ、そう頼めば応えてくれたんじゃないかな、とは思うよ。俺の父親になってくれ、傍にいてくれってさ。だって父親だ、子供の頼みをどうして聞かない訳がある。
そうだお前、そろそろ大学も休みだろ? 飲みに出る日とかも増えるんじゃないのか……いや、夜遊びがどうこうとかそういうことを言う気はない。前にも言ったろ、無茶をしない程度にあれこれ試せるの、若い頃の特権みたいなもんだからな。そのための一人暮らし、みたいなところもあるだろうし。飲みでもオールナイトの映画でも危ないことをしないなら全然いいだろ。
そういうお楽しみの最中に俺が邪魔をしたら、遠慮なく切ってくれていいからなってことを言っておきたかったんだ。ほら、この間先輩のとこで家飲みしてたときに、邪魔しちゃったからな。結果的に先輩の役には立てたけど、本来なら弟のそういうところに乱入すんのって、あんまりいいことじゃないだろ。気にしてんだよそういうの、ちょっとはさ。
じゃあ、おやすみ。今日は……どうなんだろうな、冷えるような気もするけど、でも厚手のタオルケットだと蒸すくらいの湿度はあるしな。あれだ、いい感じに適当に着て、お腹とか冷やさないようにして寝なさい。
一人暮らしで風邪引くの、想像以上に堪えるからな。――そうなったらお見舞いくらいは、なんとか行ってやりたいもんだけども。来ても役に立たないし
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