すれ違う想い
「『神谷家と街の繋がりを壊す手伝いをしてほしい』。椿は私にそう言ってきたの」
廃寺の中。
湿った土と埃の匂いが冷えた空気に溶けて混ざっていた。
主のいない本尊の台座に浅く腰を掛けた楓が、どこか疲れたようにそう呟く。
本堂の中には、廃寺内の状況を伝えるために呼び寄せた蘭と春菜の姿もあった。
扉の外では、正樹を乗せた救急車が走り去っていく音が聞こえる。
あの後、台座の裏から地下に降りた小烏たちが見たのは、かつて納骨所であった小さな空間に鎖で手足を繋がれた中年男性と、2通の書面だった。
1つは、先代が残した遺言状。
もう1つは、椿が書いた千李宛の手紙。
そのほかにも紙屑やペンが転がっていた。
それらは正樹が生きている証拠として、楓宛てに手紙を書かされていた名残だ。
納骨所には、正樹を生かしておくための保存食料と水のボトルが用意されていた。
しかしそれらはすべて封が切られており、狭い部屋の中に転がっていた。
その中で、顔を覆うように髪と髭を生やした男性は、異臭とともに放置されていた。
水のボトルを握りしめ、地上への階段に向かって這うような格好で。
彼は椿の帰らぬ1か月を、残された食料と水でかろうじて生き延びたのだ。
小烏は彼の息があるのを確認すると、梓に救急車を呼ばせ、楓と千李に彼の素性を確認させた。
そして救急車によって彼が運ばれるのを確認し、残された2通の書面に目を通した。
正樹がなぜ失踪したのか。
椿がなぜ千李に絵を送ったのか。
そこには椿の、未熟で不完全ながら、今まで誰も成し得なかった巨大な壁に立ち向かおうとする意志が書かれていた。
その内容に千李だけではなく、家族である蘭と春菜も口を閉ざしてしまった。
「兄から睡蓮の絵が届いた時、千李の下宿先に送ろうとしたのだけど、何かが引っかかった」
そんな中で、楓が言葉を紡ぐ。
「なぜ兄さんがわざわざそんなことをするのか。誰かから何かを貰っても、何かを与えるような人じゃなかったから。そして絵を検めてみたところ、あの『椿』を見つけた」
思い出すように、楓は遠くを見るような眼をする。
「椿に連絡を取った時、睡蓮の絵のことだと話すと、とても驚いていたわ。そして、裏口を開けておくから、夜に神谷家の庭に入ってくるように言われたの」
「椿さんの手引きで、誰にも見られずに神谷家の庭に入れたわけですね。彼自身も誰にも聞かれたくない話だから、秘密裏にあなたを呼び出した」
小烏の言葉に、楓は小さく頷く。
「あの椿の絵を描いて送ったのが椿自身だとは教えてくれたけど、その意味までは教えてくれなかった。あの絵は私にとってなんの意味もない無駄なものだ。ただ自分が最後に描く絵になるだろうから、千李に渡してほしいとそう言うだけ」
「だから、あなたはうちの助手に、『無駄なもの』と口走ってしまったんですね」
「そうね。その言葉がずっと残ってたみたい。……絵の話は、それで終わりになった。そして椿は、自分が神谷家の当主になると、私に宣言したの」
誰に向けてか、少し嘲るように楓はふっと笑って続ける。
「もちろん私は反対した。兄がいるし、今の時点で当主が誰かはまだ決められないと。だけどあの子は、兄とはもう話がついていると言っていて、自分が当主になることを確信しているようだったわ」
楓はここに来てその理由を理解した。
小烏もそれが分かった。
「おそらく、椿さんは当主を譲るための文書を、ここで正樹さんに書かせるつもりだったのでしょう」
楓も同意する。
「そうでしょうね。兄が私を通さずそんなことを決めるわけがないと思っていたから、その時は強がりだと思っていたけど」
「『神谷家と街の繋がりを壊す手伝いをしてほしい』と言われたのは、その時ですか?」
小烏の言葉に、楓は自分の腕をもう片方の手でぎゅっと握って頷く。
「そう。誰でもない、この私に。あの子はそんなことを言ったの。誰よりもこの家を守ろうとしている私に、よりにもよって」
楓の声は微かに震えていた。
「千李も私も、この家のために犠牲になる必要はないって。私の力があれば違う形の神谷家が作れるって。そう言ってたわ」
その響きは怒りなのか、悲しみなのか、小烏には分からなかった。
震えを抑えるように、楓は自分を抱きしめながら続ける。
「どうして? この家を守ることがどれだけ大事なことなのか、どうしてみんな分からないの? 神谷が作ったものに守られてきたのに、それを維持することでみんなが幸せになれるって、どうして分からないの?」
神谷の家に尽くすのは、自らもその恩恵に預かってきたことを自覚していたため。
そして、それを次世代に残してこそ、恩恵に報いることができたと言える。
幼い頃から、楓の中には常にその意識があった。
「私はそのために、当主にもなれない女のくせにと言われ続けて、文字通り血反吐を吐きながら、この家のために全てを捧げてきたのに!」
見開いた楓の目からあふれた涙が、乾いた地面を濡らす。
「どうして、そんな私の前で! 兄さんも、椿も、千李も! どうして私の大事なものを蔑ろにできるの!?」
「母さん……」
初めて見る母の姿に、千李が涙を浮かべる。
しかし楓が取り乱したのは、ほんのわずかな時間だった。
ふっと息を吐くと、涙を拭って少し顔を上げる。
「信じてもらえないかもしれないけど、殺す気なんてなかったわ。怒りのあまり立ち去ろうとする私に、あの子はまだ縋ってきた。『これはあなたのためでもある』ってね。私のことなんて何も知らないくせに」
楓は吐き捨てるように言った。
対極にありながら、椿は楓とも手を取り合える仲間になれると思ったのだろう。
しかし楓の神谷家に対する想いの強さを、椿は理解しきれていなかった。
楓は、苦しそうな声で続ける。
「だから私はその手を振りほどいたら、バランスを崩してあの子は倒れた。でも、その時はまだ生きてたわ、間違いなく。私の名前を呼んでいたし、まだ私を追おうとしてきたから。でも私は、もうあの子と話したくなくて、そのまま帰ってきたの」
「頭をぶつけた直後には何もなくても、その後でめまいなどの症状が出ることがあります。椿さんもそうだったのかもしれません」
楓と小烏の説明を聞いた蘭が、口を押さえてしゃがみ込む。
それを春菜が抱きしめるように支える。
「帰ってから椿の言葉の真意を、あの睡蓮の絵の前で、ずっと寝ずに考えていた。そして次の日、あの子の訃報が届いたの。それで、私は……」
自分の行動が椿の死につながったことを知ってしまった。
「小室さんは、その様子を見ていたのでしょう。椿さんの死と睡蓮の絵、そして楓さんが何か関係あることを察した。だから睡蓮の絵が千李さんに渡り、彼女が何かに気がついてしまう前に隠した、ということですね」
小烏がそう言った後、閉ざした廃寺の扉がぎっと鳴る。
外から現れたのは、その小室だった。
「奥様。そろそろ到着されます」
彼もどこか憑き物が取れたようなすっきりした顔で、恭しく楓に向かって頭を下げる。
その後ろから、ぼんやりと赤い光が見えた。
千李は小室の言葉の意味を楓に尋ねる。
「母さん、到着って?」
「警察を呼んだの。全て話そうと思って」
そう言うと、楓は台座から静かに立ち上がる。
「警察!? 母さん、それって……!」
梓が慌てて声を出す。
自首しようとする母に向かって。
しかし止めるのが正しいことなのかも分からず、梓は途中で手を止める。
彼女の行動が全て神谷家のためのものならば、今もそのために行動している。
神谷家。
その言葉は、梓にはどこか遠いものに思えた。
「……母さん、俺は? 俺の事は、どうでもよかった? 神谷家じゃない俺は、母さんの大事なものには入ってなかった?」
昨日鷹月に指摘され、しかし今まで聞けなかったことだった。
知ってしまうのが怖かった。
そして今の話から、やはり楓の大切なものは神谷家であり、そこから外れた自分が彼女にとってどのような存在なのか、捉えることができなかった。
しかしそんな梓の顔を見て、楓は何も言わない。
「母……さん」
その反応に、梓は絶望したように肩を落とした。
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