踏み出す凡人

 やっと少し笑みを取り戻した千李に、小烏は続ける。


「えぇ。そしてこれはきっと、あなたと椿さんだって同じだと思いますよ?」


「え?」


 ヒーローと凡人。

 助けるものと、助けられるもの。


 今、小烏と千李の立場は同じだ。

 だから小烏は、自分と鷹月の事を話したのだろう。


「もし壊れた人間でさえヒーローとしてのプライドがあるのだとしたら、椿さんはなおさら、あなたのヒーローであるというプライドがもっと強くあったはずです。ヒーローは1人ではなれませんからね」


 小烏は優しい目で千李を見る。


「椿さんにとっては、自分を信じて見上げてくれているあなたの存在こそが、彼の存在に意味を与え、彼を強くしていたのかもしれません」


 自分を見る、強く優しい椿の眼差しを千李は思い出す。


「……私は椿君にとって、負担じゃなかったのかな。もしそうなら、私がいたことに少しでも意味があったなら、すごく嬉しいです」


 千李は小烏の方を向いて、にっこりと笑う。


「私はそう思いますよ。そしてヒーローもまた、ひとりの人間だと知ってしまったのなら、いつまでも凡人に甘んじているわけにもいきません。同じ過ちを繰り返さないよう、凡人は凡人なりに強くなっていかなければいけない」


 小烏は、再度蓮池の方を眺める。


 蓮池で息を引き取ったヒーローは、最期に何を思ったのだろう。


「そうですね。私も椿君みたいに強くならなきゃ」


 そう千李が言うと、小烏は少し笑う。


「相模さんは、割とお強い方だと思うので、余計なお世話かもしれませんね」


「そ、そんなことないですよ。未だに母さんを前にすると足がすくむし、全然弱いままです」


「でもあなたは、自分の人生を生きるために、今までの人生をひっくり返すような選択をしてきたじゃないですか」


 小烏は千李が女として生きることを決め、楓と対立したことを言っているようだ。


 それは確かに千李の人生で、最も悩み、そして勇気のいる選択だった。


「でも結局、母さんは私の事を受け入れてくれませんでした。そしてこれからも、きっと私の選択は誰かに迷惑をかけてしまう」


 千李は楓のことを思い出したのか、顔を強張らせる。


「今でも、母さんの前で『私は男じゃない』って言った時のことを夢で見るんです。そして泣きながら飛び起きる。言わなければ良かったのか、間違った選択をしたのか、未だに私には分からないんです」


 千李はぎゅっと自分の指を握る。


「大伯父様が亡くなり、跡取り問題で揉めているとき、私は母に『何があるか分からないから、あなたも跡取りとして覚悟をしておきなさい』と言われたんです。……私はその時が来たと思いました」


 長い髪のウィッグ。

 レースの着いた下着。

 リボンのついた柔らかく白いニット。

 ふわりと広がる紺色のスカート。

 軽やかな花の匂いがする香水。


 自分に最もふさわしいと思う姿で楓の前に立った。


 その時の母の顔を、千李は忘れることが出来ない。


 頭の良い母は、瞬時に起こったことを悟ってしまった。


 少し目を見開いて固まった、青白い顔。


 母の顔を忘れられないのに、その表情にどんな感情の名前を付けたらよいのか、千李には未だに分からない。


 そして。


 その後の事は思い出したくもない。


 母の反応は、概ね千李の予想した通りだった。


 分かっていたのに、千李は選択したのだ。


 ぐっと身体に力を入れて感情を抑える千李を見て、小烏は口を開く。


「正しい選択か良い選択かは、人によって変わりますし、時が経たなければ分からないこともあります」


 千李が顔を上げると、小烏は優しく見下ろしていた。

 彼は続ける。


「それよりも、選択するという行為自体が大切だと私は思ってます。それはゼロを一にする、とても勇気のある行為ですから。最も重要な場面で、あなたは選択し、行動した。そういう人間であろうとした。それが何より強さの証だと、私は思いますよ」


「所長さん」


 強く握りしめていたせいで白くなっていた千李の指先に、熱のない小烏の手のひらが被さる。 


「あなたは大丈夫ですよ。その怖いお母さんに、我々のために立ち上がってくれたじゃないですか。椿さんだって、きっと同じことを言うと思いますよ」


 千李は小烏を見上げる。

 顔も声も全然似ていないのに、小烏の姿と、いつかの椿の姿が重なって見えた。


 自分を受け入れてくれる椿の笑顔も、静かな彼の表情も、思い出すことさえ辛かったのに。


 今はもう、ただ暖かく胸の奥に落ちていくようだった。


「……はい、ありがとうございます」


 やっと胸につかえていたものが落ちて行ったのが分かり、千李は泣きながら笑顔を見せる。




「わーぉ。これはスキャンダルですよ、助手君」


「春菜さん、これはセクハラって言うんですよ」


 そんな空気に野次を飛ばしてきたのは、春菜と鷹月だった。


 身を屈めて寄せ、こそこそ話をするように口の横に手を当てて2人で言い合っている。


 ばっと千李は手を引っ込めて慌てる。


「ちち、違いますよ! 所長さんは私を慰めてくれようとしただけです!」


 小烏はというと、呆れたような顔でため息をついていた。


「ちーちゃん、もう大丈夫?」


 春菜が千李に寄り、心配そうな顔で手を取る。


「うん、心配かけてごめんね。もう大丈夫だよ」


 千李はその手を優しく握り返すと、えへへと春菜は嬉しそうに笑う。


「お兄ちゃんがいなくても、私はちーちゃんの味方だからね。楓おばちゃんだろうと誰だろうと、ちーちゃんのこと虐めたら、私がぎったぎたにしてやるから!」


「そ、そっか」


 張り切る春菜は、千李の前でファイティングポーズをとって、きっと前を睨む。


「さっき助手君に聞いたの。素人は下手なことをせず目を狙えって」


 そう言って、猫のように指を開いて立てる。


「そうそう、それです。そのまま顔をひっかいたらどれかの指は目に入りますから、そのままガリっと」


「不穏な芽を育てるな、アホ助手」


 物騒な講義をする鷹月を小烏が叱る。


「下手に急所狙うより効果的なんですよ?」


「そういうことを言ってるんじゃねぇよ」


 完璧な助手モードであっても、治安の悪さが抜けない鷹月を前に小烏はため息をつく。


「はぁ。神谷さんにこれ以上下手なことを吹き込まないうちに、撤退させていただきましょうか」


「えー、もう帰っちゃうの?」


 春菜が千李にぎゅっと寄り添う。


「これから相模さんのお家で調査があるんですよ。今日が期限ですので、残念ですがこれで失礼させていただきます」


 小烏が丁寧に言うと、春菜が口を尖らせるが、何か閃いたように人差し指を立てる。


「あ、そうだお母さん、ちーちゃん家に行くんだよ。だから私も一緒に行く!」


「え? でも」


「私も絵を探すの手伝うよ!」


 春菜の提案に戸惑う千李が、小烏の方を見る。


 先程、最善を尽くしたいと梓でさえ協力者にした千李の事だ。


 おそらく手を借りられるのであれば、春菜にも協力してもらいたいのであろう。


 それを察して、小烏は頷く。


「我々は構いませんよ」


「やった! んじゃ行こ行こ!」


 ぱっと笑った春菜は、千李の手を取ってぴょんぴょんと飛び跳ねる。


「では早速向かいましょうか」


「そうですね」


 小烏の声で、千李を含む4人は蓮池に背を向け、西棟に向かって歩き始める。



 途中、千李は後ろを振り返る。


 花の咲かない冷たい蓮池。


 もういない幼なじみを想い、少し目を閉じる。


 「…………」


 そして振り向き、他の3人を小走りで追った。

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