捕食者
ゴーサインだ。
鷹月はジャケットの内側に手を入れ、そのまま手を横に薙ぐ。
あまりに早く、脈絡のない動作。
だから、望は自分の腕に何が起きているのか、一瞬分からなかった。
分かったのは、望が持っていたナイフが石畳にカランと落ち、その腕がぶらんと垂れ下がった後だ。
望の左の二の腕に、垂直に銀色の刃が刺さっている。
ナイフだ。
そう認識する間もなく、焼き付くような痛みが望の左腕を襲う。
「う、うわぁああ!」
望は千李を突き飛ばし、身体を丸めてナイフの刺さった自分の腕を、もう片方の手で庇うように覆う。
そのため、目の前で砂利が鳴ったことにも気が付かなかった。
「ぐっ!」
ざっという音とともに、顔の下から強い衝撃が走り、そのまま望の顔が跳ね上がる。
とんでもない速さで距離を詰めていた鷹月の膝が、屈んでいた望の鼻を下から襲ったのだ。
そして次は逆に、跳ね上がった頭の後頭部に、鷹月の頭上で組まれた両拳が振り下ろされる。
「が、ぶっ……!」
下にあるのは石畳だ。
ゴッと、重いものが落ちる音。
顔から石畳に叩きつけられ、声も上げられずに望は動かなくなる。
望が地面に沈んだのを確認し、鷹月は静かにドライバーの男の方を向く。
「ひ、来るな、来るなよ!!」
鷹月の顔はいつも通り、笑顔だ。
楽しいからではない、仕事中だから。
彼はパンツのポケットから黒い革のグローブを出してゆっくり嵌めながら、ドライバーの男に近づく。
「来るんじゃねぇよ。ほ、本当に、本当に刺すからな!」
男は両手でナイフを構えて、鷹月に向ける。
「どうぞ」
鷹月は歩みを止めない。
男は、自分の喉がヒューヒューと音を出していることに気が付いた。
必死で息を吸っているはずなのに、まるで肺に入ってこない。
近づいてくる鷹月の姿がぼやける。
目の前で見せられた、無駄のない一連の暴力。
戦いなどではない。
歩くことと同じくらい当然のように振るわれる、単なる行動。
格闘技をかじっていたドライバーの男は、だからこそ理解してしまった。
目の前の男は、常人が持っているであろう一線を、何の躊躇もなく超えてしまえる男だと。
本能が恐怖に食われる。
次の瞬間、ドライバーの男はナイフを捨てて走り出した。
勝ち目が皆無であるならば、逃げの一手、ということだろう。
もつれる足を奮い立たせ、ここまで来るのに使ったタクシーに辿り着く。
「はっ、はっ、はっ!」
喉が変な音を立てている。
息をするたびに頭が揺れる。
ドアを力いっぱい閉めると、震える手で差しっぱなしのキーを回そうとするがうまくいかない。
がちがちと震える歯を噛みしめ、両手でつかんでキーを回す。
ぶぉん、とエンジンがかかった音に安堵し、急いでアクセルを踏む。
しかし。
「なっ!」
まるで沼にタイヤが嵌ったかのように、ギュルギュルと甲高い音を立てるだけで、車体は一向に進まない。
こんなときに故障したのか。
ドライバーの男は何度も、力任せにアクセルを踏む。
「なんで、なんっ……」
そして気付く。
ライトに照らされたバンパーの前、そこに鷹月がいた。
身体を屈めて両手を突き出し、タクシーを後ろに押し出している。
人の力で車を押し返している?
そんなことがあり得るのか?
思わず男はアクセルから脚を離してしまった。
ガクンと車体が上下に揺れる。
そして車は完全に停まった。
体を起こした鷹月が飛び、停まったタクシーのボンネット上に、ダンッと音を立てて降りる。
月明かりを背負った鷹月の濃い影が、ドライバーの男の上に落ちた。
「あ、あ」
そのまま視線を合わせるように、鷹月は少しかがむ。
そして左手でフロントガラスを抑え、右手を振り上げる。
目の前の透明な壁が、もはや何の意味も持たないことを、ドライバーの男は本能で理解していた。
右手が振り下ろされる。
「うわぁああああ!」
ガシャンという音とともに、フロントガラスを突き破った鷹月の右手はドライバーの首を捕らえ、そして引き寄せる。
ひび割れたフロントガラス越しに、目が合う。
猛禽類の目。
捕食者の目。
形の良い唇が、わずかに開く。
「つかまえた」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます