絢爛のグレイス【カドカワBOOKS10周年記念長編コンテスト 中間選考通過作品】
灰崎レイ
序章 大日本帝国戦勝百二十周年記念式典
第一話:車椅子の少女
「なぁ……ここで今から何の取引すんだよ? やたら来るの遅ぇじゃねーか」
愚痴る俺をアニキは睨みつけて言った。
「オメェはド素人だが、記憶力だけは悪くねぇ。面倒な手順も一度だって間違えなかった。だから連れてきてやったンだ」
「なんだよ……いきなり」
「──いいか? 細けぇことはいちいち聞くな。オメェは目的だとか、裏で誰が絡んでるとか、全部理解した上じゃなきゃ動けねェような面倒臭ェ男なのか?」
「いや……」
「だよな? 関係ねェ情報を頭に入れンな。必要なことだけ、俺が、時間が来たら話す。それを完璧に覚えて、それをやり遂げろ。だからその時まで、一言も口を挟むんじゃねェぞ? わかったか⁉」
「ああ……わかったよ……」
今日のアニキは、やけにピリついてる。
今日の取引で俺たちが得られる報酬は、今までとは桁が違う。
どこから紹介されたんだか知らないが──
初めての、しかも素性も知れない連中だ。
「あのさ、永住権付きのID……ちゃんと発行してもらえるんだよな?」
アニキは、今にも襲いかかろうとするトラみたいな目で、俺のことを睨みつける。
「約束を破ったことがあったか? この俺が」
「……ねぇな」
逆に守ったことがないから心配なんだよ。
前の仕事の支払いも、その前のだって、まだ貰っちゃいないんだ。
だが、ここで盾ついたって、殴られるだけだ。
「わかってるなら聞くな」
……だよな。
アニキに連れられて、横須賀までやってきた。
貸してくれるって言うから、調子に乗ってどんどんカネを借りまくった。
そうしてるうち、普通の仕事の儲け程度じゃ、増えてく利子の分すら返せなくなった。借金を返すため、俺はアニキの仕事はなんでも手伝う。
だが、今回の仕事がうまくいけば、その利子のほとんどをチャラにしてやるって言ってくれた。オマケに盗まれた永住権付きのIDまで。
今まで文句も言わず黙ってアニキに着いてきて良かった。
これがあれば、まともな職業にもつけるし、部屋も借りられる。
人間らしい生活をスタートさせるチャンスだ。
この仕事だけは、何があっても絶対に成功させなきゃならない。
それなのに──約束の時間から既に二時間が過ぎていた。
もう来ないんじゃないか、という諦めと絶望が頭をよぎり始めた頃、黒のミニバンが地下駐車場へ降りてきて、俺達の目の前に止まった。
中に乗ってる奴らは日本人じゃなかった。
後ろが開いて車椅子が降りてくる。
アニキは外人たちと暫く話した後、それを押して戻ってきた。
「この子をできるだけ会場に近いところまで連れてってやってくれ。車椅子だ。押してやれ」
それが俺の仕事だった。
車椅子には少女が座っていた。
黒髪の、痩せた少女。
作り物みたいだった。
マネキンか、蝋人形かと思った。
焦点の合わない目をして虚空を見つめ、無言で座ってる。
あの手合いが連れてる女にありがちな、壊れちまった奴らと同じ目だ。
アニキが連中の車に乗って出てったのを見送って、俺は彼女を押して外へ出た。
帝国戦勝百二十周年を迎える今日、五月二十七日。
その記念式典がここ横須賀で開催される。空は雲一つない、快晴だった。大勢の見物客が既に会場には集まっていて、警戒にあたる軍の警備兵の姿も見える。車輪がカラカラと音を立てるのに混じって、太陽の光がジリジリと肌を焼きつける。
「暑ちぃ……」
額に汗が流れた。目の前の小さな背中に視線を落とすと、その透けるほど白く細い首筋が痛々しく見えた。華奢というより、病的に痩せた身体。折れそうなくらい細い足だが、生まれつき歩けなかった、と言うわけではなさそうだ。
そんなことより、この暑さだ。
長袖の上着を着込んでいては、熱中症になってしまうかもしれない。
「……なぁ、暑くないか?」
彼女は何も答えない。
……
見た感じ、日本人のように見えたが……。
もしかすると日本語が喋れないのかもしれない。
「ホット? アーンチューホット?」
……
「アンタさ、事故かなんかで怪我して歩けなくなったのか?
それとも生まれつき歩けないのか?」
……
やっぱ通じないか……
「……目が見えないの」
彼女がまるで独り言のように、ぽつりと呟いた。
「あ、そう……」そう返そうとして──口が止まる。
「──って、目ぇ見えないのに、こんなとこ来てどうすんだよ?」
それっきり、返事はなかった。
ただ沈黙のまま、彼女は風に揺れる髪をそのままに、じっと前を向いていた。
言葉が通じるとわかってからは、俺は彼女に一方的に喋りかけた。
返事はなかったが、それでも構わず、式典の様子だとか、家族づれが多いだとか。
保育園の園児達が見学に来てる事を話すと、それには反応して、
「お願い、子供の近くには行かないで」
と意思表示した。
悪ガキどもが集まってきて、車椅子に触られるのが嫌なのかもしれない。
そうして俺たちは狭い歩道をゆっくり、小一時間ほどかけて式典会場までやってきた。
記念艦の前には国旗が並び、軍服の男たちが隊列を組んでいる。
平和記念式典というより、まるで戦勝パレードのような威容だ。
会場の中心を目指して俺たちはさらに進んだ。
「……さすがにここまでが限界だな。ここから先は貴族の招待客しか入れねぇ」
それでもこれだけ近けりゃ、たとえその目で見えなくても雰囲気を肌で感じられるだろうよ。
「ねえ、偉い人たちがいるのって、ここから何歩くらい?」
寡黙で無表情な奴が、初めて自分から喋ったかと思えば、意味不明なことを聞いてくる。
「そりゃ……ざっと、三十歩か、四十歩か……だな」
「ありがとう」
彼女はそう言うと、静かに立ち上がった。
え?
車椅子から離れ、彼女はまっすぐ歩き出す。
ピピ、ピッ。
彼女の服の下から、微かな電子音が聞こえた。
「おい……どこ行くんだよ!」
嫌な予感がした。
彼女を追いかけ、肩を掴もうとしたその時──
彼女の姿が見えなくなった。
消えた。
「え……?」
辺りを見回すが、誰もいない。
ただ、空っぽの車椅子だけが、そこにあった。
「……お、おいッ‼」
叫んでも返事はない。
だが、何かがおかしい。
空気が変わった。
周囲の人々のざわめきが、波のように広がっていく。
俺は反射的に式典の壇上の方へ顔を向けた。
そして、見た。
――彼女だった。
会場の中心、壇上のど真ん中に、立っていた。
いつの間に?
どうやって?
厳重な警備を抜けて……あそこまで行ったってのか⁉
彼女はそこでゆっくりと膝を折り、静かにうずくまる。
その瞬間──。
――ドンッ!!
全身に響く重低音の衝撃。
視界を焼き尽くす光。
そして肌を焼き付ける爆風。
それらが一気に襲いかかった。
視界は光に塗り潰され、身体は弾き飛ばされた。
鼓膜が破れそうなほど、耳の中にけたたましい高音が鳴り響く。
「いやあああああああ‼」
混乱と絶望が満ちていく。
人々の悲鳴、泣き叫ぶ声が、まるで津波のように押し寄せる。
会場は一瞬にしてパニックになり、阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。
どこからともなく吹き出した白煙が視界を覆い、足元が見えなくなる。
彼女が――爆発した。
あの柔らかな声で「ありがとう」と言った、彼女が。
目の前で、まるで何もかもなかったように。
消えた。
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