9話 『俺』の目指す『私』
鏡越しに踊る姿の『俺』は、幼い頃に恋をしていた憮透奈恋、そのものだった。
不器用で、下手くそで、それでも目が離せなかった……あの頃の奈恋。
すでに限界を迎えている体は、思い通りに動かない。
「……ッ!」
足の怪我もテーピングでマシとはいえ、踏ん張りが効かないし、痛みが全身を駆け巡る。
それでも踊っているのは、奈恋の夢を叶えたいというその一心だった。
俺はいつからか夢のない生活を送っていた。
朝起きて、昼を食べ、適度に大学の授業を受け、ゲームや動画配信を見る。
気づけば夜になっていて、何か物足りなさを残したまま、夢に眠る。
……そんな生活は、灰色の世界だった。
奈恋はこのオーディションを最後だと言った。
どうして最後なのかは正直わからない。
賞味期限――奈恋が使っていた言葉が、今はやけに重く響く。
賞味期限だとしても、ずっと目指してきた夢があと一歩で届くのなら多少無理してでも目指すだろう。
それでも奈恋はこのオーディションを最後にする気がした。
一度決めたことはどんな困難があっても絶対に曲げない、そんな強い意志が……奈恋にはあるから。
……だとしたら、奈恋にはせめて、鮮やかな世界で夢を叶えてほしい。
――ラスサビがやってくる。
朝の時間で練習した事前準備の部分に勝ち目はない。
でも、全員が同じ条件の、このラスサビだけなら。
ほんの数十秒――その一瞬に全てを賭ける。
柚木の動きを思い出す。
全身がしなやかに連動して、軽い力でふわっと回るターン。
――舞えた!
次の瞬間、着地した足から怪我の痛みが全身を突き刺すように襲ってくる。
その痛みで思い出したように、肺が限界を迎えた。
酸素が吸えなくなって、頭が回らない。
掠れゆく世界で――ただ昔の記憶がそこにあった。
「ねぇ、なんで奈恋はそのアイドルの子が好きなの?」
幼い俺には、不思議だった。
男が女のアイドルを好きになるのは、恋愛感情の延長線だと思っていた。
女が女のアイドルを好きになるのは、キラキラした憧れだと思っていた。
でも奈恋は当時、世間的にもそんなに可愛くはない女アイドルを推していた。
「この子はね、ステージでいつも笑ってるの。でも本当は、心配性で、緊張しくて、舞台裏で泣いちゃう子なんだ」
ドキュメンタリーと題された動画をスマホで見せてくる奈恋は、その子と同じように笑っていた。
「普通の、平凡な女の子が、自分の苦しさを全部抱え込んで、笑ってステージに立つのを見たら……私、すっごい元気出たんだ」
スマホの電源を消した真っ黒な画面に、一瞬映った悲しそうな奈恋の表情を今でも覚えている。
「だから私もね、ぜーーったいに沢山の人を笑顔にする!」
――その笑顔は、小学生の俺には眩しすぎた。
音楽が止まった。
鏡に映る俺は、不器用に笑っていた。
誰も何も言わないまま、静かなレッスン場に、俺の呼吸音だけが残っていた。そして、それは夢の終わりを告げる音にも思えた。
怪我した足が、ズキズキと痛む。
でも、もうどうでもよかった。
それよりも、胸の奥で熱く鳴っているものがある。
――ちゃんと、やりきった。今できる限界を出し切った。
奈恋の目指すアイドルになれていただろうか。
不格好で、未完成で、それでも――あの日、夢見た姿に少しだけ近づけた気がした。
「……ほんと、不格好ね」
ふいに、隣から声がした。柚木は息一つあがっていなかった。
彼女はまっすぐ私を見ないまま、そう吐き捨てた。
なのに、踊る前まで感じていた敵意は全く無くなっていた。
「……わかってる」
俺は、そう答えるだけで精一杯だった。
体力も限界だったけど、それ以上に、心が限界だった。
全力は出したけど、これで受からなかったら……奈恋にどんな顔で会えばいいんだろうか。
「五分後、結果発表をしますので、少々お待ちください!」
男審査員の呼びかけで、俺は椅子にもたれた。
奈恋だとしたら、どんな風に面接を受けて、どんな風に踊ったんだろう。
そういえば、大人になってからの奈恋の踊ってるところ、見てないな。
想いに耽っていると、張り詰めた緊張が解けたのか――意識を失っていた。
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