第3話『沈黙は金じゃない』



鎌倉でのデートから、五日が過ぎた。




時計の針が午後四時を指すと、空は約束されたかのように鉛色の雲に覆われ、しとしとと冷たい雨を地上に落とし始めた。



俺、桐島レンは、一人暮らしの部屋の窓辺に立ち、ガラスを伝って流れ落ちる無数の雨粒を、ただぼんやりと眺めていた。




部屋の空気は、湿気を含んで重い。昨日着たままソファに放り出したTシャツや、読みかけで床に積まれた雑誌が、この部屋の主である俺の心の乱れを忠実に映し出しているようだった。




俺は、ゲームをしていた。



恋愛という名の、古くから伝わる駆け引きのゲーム。



ルールは単純だ。



デートの後、あえて連絡を絶つ。



相手が焦れ、不安になり、「どうしたの?」と連絡をしてきたら、こちらの勝ち。




その瞬間に、関係性の主導権は完全にこちらの手中に収まるのだ。




俺はこれまで、このゲームで負けたことがなかった。




だが、今回は違った。




テーブルの上に置かれたスマートフォンは、まるで石のように沈黙を続けている。



ひかりからの連絡は、ない。



LINEのトーク画面を開いては、閉じる。




緑色の背景に、鎌倉でのデートのお礼を言い合った、たった数回のやり取りが虚しく表示されているだけだ。




彼女のアイコンは、初期設定のままの、味気ない灰色の人影。



SNSのアカウントも見つけられない。




彼女の日常は、俺にとって完全に未知の領域だった。




雨音だけが、部屋の中に響き渡る。




ぽつ、ぽつ、と窓枠を叩くリズミカルな音。




それはまるで、静かに時を刻むタイマーのようで、俺の焦りをじわじわと炙り出していく。




(何を考えてるんだ、相沢ひかり…)




彼女のあの屈託のない笑顔が脳裏をよぎる。



あれも計算のうちなのか?




俺を焦らし、夢中にさせるための、高度な戦略?



だとしたら、彼女はとんでもない策士だ。




現に俺は、この五日間、彼女のことばかり考えている。



講義の内容も、友人の話も、右から左へと通り抜けていく。



気づけば、無意識にスマホを手に取り、新着メッセージがないかを確認している自分がいた。



いや、違う。



何度考えても、あの笑顔が計算されたものだとは思えなかった。



だとしたら、答えはもっと残酷なものになる。



(俺のことなんて、もうどうでもよくなったのか…?)



あのデートは、俺にとっては最高に楽しかった。



だが、彼女にとっては、そうではなかったのかもしれない。




俺の空回りしたエスコートや、浅はかな知識の披露に、心の底では呆れていたのではないか。



だとしたら、この沈黙は、彼女なりの優しさなのか。



波風を立てずに、この関係を自然消滅させようという…。



そこまで考えて、俺は自分の心臓がドクン、と大きく脈打つのを感じた。



胸の奥が、冷たい手でぎゅっと掴まれたような不快な感覚。




これは、不安だ。



そして、もしかしたら、ほんの少しの恐怖。




プライドが、警鐘を鳴らす。



このまま連絡を待つのは危険だ。




ゲームの敗北を認めてでも、彼女の真意を確かめなければならない。




この得体の知れない不安から、一刻も早く解放されたかった。




俺は、震える指でスマホを手に取ると、LINEの画面を開いた。




たった三文字のメッセージを打ち込むのに、まるで重い鉛の塊を持ち上げるような、途方もない努力が必要だった。




『元気?』



送信ボタンを押す。



メッセージの横に、既読の文字はつかない。




俺は、まるで判決を待つ被告人のように、ただ時間だけが過ぎていくのを耐えるしかなかった。




雨音は、いつの間にか勢いを増し、ざあざあと世界を洗い流すような音に変わっていた。







結局、その日はひかりから返信がなかった。




翌日の昼休み。



大学の長い廊下を、俺は目的もなく歩いていた。



ワックスで磨き上げられた床は、天井の蛍光灯の光を鈍く反射し、まるでどこまでも続く濡れた道のようだ。




窓の外では、昨日から降り続く雨が、グラウンドを大きな水たまりに変えていた。




行き交う学生たちの話し声や足音が、湿った空気に吸い込まれて、いつもよりくぐもって聞こえる。




俺は、昨夜から何度もスマホを確認していた。



だが、ひかりのトーク画面に『既読』の二文字がつくことはなかった。



もはや、不安は確信に変わりつつあった。



終わったんだ。



始まる前に、終わってしまった。




そう思った瞬間、ポケットの中のスマホが、ぶ、と短く震えた。




心臓が跳ね上がる。



慌てて取り出して画面を見ると、そこには『ひかり』の二文字が浮かび上がっていた。



しかも、LINEの通知ではない。電話の着信だ。



どうして、今。




俺は混乱しながらも、周りの視線を避けるようにして、廊下の隅にある階段の踊り場へと駆け込んだ。




コンクリートの壁に囲まれた、ひんやりとした空間。



自分の荒い息遣いと、早鐘のように打つ心臓の音が、やけに大きく響く。




「……もしもし」




深呼吸を一つして、俺は通話ボタンを押した。




『あ、レンくん?ごめん、昨日LINEくれてたんだね。気づかなくて』




電話の向こうから聞こえてきたのは、いつもと寸分違わぬ、明るく弾むようなひかりの声だった。




「え、あ、いや……」




俺は言葉に詰まる。



どんな声で話せばいいのか分からない。




怒ればいいのか、拗ねればいいのか。




『どうしたの?元気なかった?もしかして、何かあった?』




その声には、俺を責める響きも、駆け引きを楽しむような色も、微塵も感じられなかった。




ただ純粋に、俺の身を案じている。



そのあまりの屈託のなさに、俺の心の中で渦巻いていた疑念や不安が、一瞬で吹き飛んでしまった。




「いや、その……俺が、連絡しなかったから。怒ってるのかなって……」




我ながら、情けない声が出た。




『え?なんで?』




電話の向こうで、ひかりが心底不思議そうに首を傾げている気配がした。




『レンくんが忙しいのかなって、思ってただけだよ。それに、私も今週はレポートが大変で、それどころじゃなかったし。ごめんね、心配させちゃった?』




「……いや、別に」




俺は、壁に背中をもたれかかった。



コンクリートの冷たさが、シャツ越しにじわりと伝わってくる。




駄目だ。



この子には、何もかもが通用しない。




俺が必勝法だと信じていたゲームのルールは、彼女の世界には存在すらしないのだ。



俺が一人で空回りして、勝手に不安になって、勝手に負けただけ。



その事実に、俺は安堵すると同時に、まるで底なし沼に足を踏み入れてしまったかのような、得体の知れない感覚に襲われた。



この子を理解することが、果たして自分にできるのだろうか。




『そうだ、今週末の土曜日、空いてる?この前のお礼に、美味しいものご馳走させてよ』




ひかりの明るい声が、俺を現実へと引き戻した。



俺は、その誘いを断る理由など、何一つ持ち合わせていなかった。








土曜日の約束を取り付けたものの、俺の心は晴れなかった。




ひかりに対する疑念が消えたわけではない。



むしろ、彼女の不可解さは、より一層深まったようにさえ感じられた。



本当に、俺に会いたいと思ってくれているのだろうか。



それとも、ただの気まぐれか、あるいは義理で誘ってくれているだけなのか。




確かめなければならない。



俺の心の中で、黒くて醜い感情が鎌首をもたげた。



彼女を、試してみたい。



もっと過激な方法で。



彼女のあの穏やかな笑顔の下に隠された、本心を引きずり出してやりたい。




そして俺は、自らが最も忌み嫌うはずの行動に出ることを決意した。




約束の前日、金曜の夜。



俺は、ユウキたちサークルの仲間と、駅前のファミレスにいた。




ドリンクバーの機械が唸る音、他のテーブルから聞こえてくるけたたましい笑い声、店内に薄く流れるオールディーズのBGM。




様々な音が混じり合った、週末前の浮かれた空気がそこにはあった。




俺は、テーブルの下でスマートフォンの画面をタップし、ひかりの電話番号を呼び出した。



これから自分がしようとしていることへの、微かな罪悪感。




しかし、それを上回る、彼女の反応への好奇心。



心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。



コール音が、三回響いた。



『もしもし、レンくん?』




「あ、ひかり?ごめん、今大丈夫?」



俺は、周りの友人たちに聞こえないように、少しだけ声を潜めた。



目の前では、ユウキが訝しげな顔でこちらを見ている。




「ごめん、急で本当に申し訳ないんだけど……。明日、急にサークルの大事な用事が入っちゃって。行けなくなったんだ」




言った。




唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。




これは、俺がかつて、恋の熱が冷めきった時に、何度も使ってきた常套句だ。




そして、その度に、相手を深く傷つけてきた言葉でもある。




これまでの彼女たちは、この言葉を聞くと、決まって同じような反応を示した。



電話の向こうで、声が震え始める。




そして、涙声でこう問い詰めるのだ。




『私とサークル、どっちが大事なの?』




『私のこと、もうどうでもよくなったんでしょ?』。




その涙や怒りこそが、「愛されている証拠」なのだと、俺は心のどこかで信じていた。




自分の存在が、相手の感情をそれほどまでに揺さぶることができる。




その事実に、歪んだ満足感を覚えていたのだ。




だから、今度もそうなるはずだった。




ひかりも、きっと同じように、泣いて、俺を責めるだろう。



そうであってほしい、とさえ願っていた。




電話の向こうで、ひかりが一瞬、息を呑んだ気配がした。




静寂。




ファミレスの騒音が、急に遠のいていく。




俺は、固唾をのんで、彼女の次の言葉を待った。




『そっか……』




ようやく聞こえてきたのは、落ち着いた、それでいて少しも温度の下がらない声だった。




『大事な用事なら、仕方ないね。分かったよ、お疲れ様』




え?




『また今度、埋め合わせしてくれたら嬉しいな。サークル、頑張ってね!』




それだけ言うと、彼女は「じゃあ、またね!」と、いつもと変わらない明るい声で、一方的に電話を切ってしまった。




ツー、ツー、ツー……。




スマートフォンのスピーカーから響く無機質な電子音が、俺の敗北を告げていた。







俺は、黒い画面になったスマートフォンを握りしめたまま、呆然としていた。




画面には、蛍光灯の光を浴びた、自分の間抜けな顔が映り込んでいる。




「……なんだよ、それ」




思わず、声が漏れた。




怒りも、悲しみも、詰問も、何もなかった。



ただ、あまりにもあっさりとした、物分かりの良い返事。



まるで、俺との約束が、彼女にとっては何の重要性も持たない、数ある予定の一つに過ぎなかったとでも言うように。




胸の奥が、ずきり、と痛んだ。




それは、プライドが砕かれた音だったのかもしれない。




「お前、さいてーだな」




沈黙を破ったのは、正面に座っていたユウキだった。




彼は、ポテトをつまむ手を止め、心底軽蔑したような目で俺を見ていた。




「何がだよ」




「とぼけんなよ。それ、お前が昔の彼女にやられて、めちゃくちゃキレてたやつじゃん。そっくりそのまま、やり返してんじゃねえか」




ユウキの言葉が、鋭いナイフのように俺の胸に突き刺さった。




そうだ。




二年前に付き合っていた彼女が、そうだった。




俺とのデートの約束を、何度も「友達との約束が」と言ってキャンセルした。




その度に俺は、自分が軽んじられているように感じて、惨めな気持ちになった。




そして、最後には怒りを爆発させ、彼女を激しく罵ったのだ。




「……うるせえよ」




俺は、吐き捨てるように言った。



しかし、ユウキの指摘が、的を射ていることは、自分でも分かっていた。




脳裏に、あの時の元カノの顔が、鮮明にフラッシュバックする。



俺に罵られ、ただ黙って、大粒の涙をこぼしていた彼女の顔。



あの時の俺は、彼女の涙の意味を、本当の意味では理解していなかった。



ただ、自分の思い通りにならないことへの苛立ちを、ぶつけていただけだ。




だが、今なら分かる。




彼女の涙は、悲しみだけではなかった。



それは、自分の存在価値を否定されたような、深い絶望と、痛みから来ていたのだ。




その痛みが、数年の時を経て、今、ブーメランのように俺の胸に突き刺さっている。




ひかりに「愛されていない」のではないかという、身を切るような不安。



自分がしていることへの、吐き気を催すほどの自己嫌悪。




そして何より、過去の恋人たちが感じていたであろう、あの胸の痛み。




俺は、ひかりを試しているつもりだった。




彼女の愛情の深さを、測ろうとしていた。




でも、間違っていた。




俺が試していたのは、ひかりじゃない。



このゲームで試されていたのは、俺自身の、空っぽで、脆くて、どうしようもなく未熟な心の方だったのだ。




ファミレスを出て、一人で歩く帰り道。




雨はすっかり上がっていたが、濡れたアスファルトが、街灯の光をぎらぎらと乱反射させていた。




道端にできた水たまりに、歪んだ自分の顔が映っている。




それは、今まで見たこともないほど、情けなくて、惨めな顔をしていた。




胸が、苦しい。




息をするのも、ままならないほどに。




この痛みは、一体どこから来るのだろう。




ひかりに拒絶されたことから?



それとも、自分の醜い本性を突きつけられたことから?




分からない。




ただ一つ確かなのは、俺が始めたはずのこの恋愛ゲームは、もうとっくに俺の手を離れ、俺自身を蝕み始めているということだけだった。




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