第26話 ラオネルの石碑

 ベアトリスの天気詠みの通りならば、もうすぐ雨が降る。

 少し風が強くなってきている。

 怪しい雲が遠くの方に見えている。

 少しだけ空気がしっとりとしだし、天気が変化する前触れを感じた。

 エグモントにラオネルの石碑に来て欲しいと言われているけれども、天気が崩れそうだから急がなければならない。


「お姉様、邸に戻って夜の準備をしましょう?」


 ベアトリスが私の方に近寄ってきた。

 天気だけではない。

 私達も着替えてパーティーの準備をしなければならないからそれほど時間がない。

 とにかく、雨が降る前にエグモントに会いに行かなければ。


「私、エグモント様に少し呼ばれているから少しだけ石碑まで行ってくるわ。すぐに戻るからベアトリスは先に戻っていて」

「え?もうすぐ雨が降りますよ」

「ええ。分かっているわ。だからすぐに戻るから心配しないで」


 我が領の森の中にあるラオネルの石碑は、私とエグモントが再会を果たした場所。

 現の死者となったエグモントを初めて認識できた場所なので、私にとっても特別だった。

 急がないと。



*****




 この森は、初めて来る人はほぼ100パーセント迷うらしい。

 私達兄妹にとっては、この森が遊び場のようなものだったので全く迷うことはないのだが、何かのきっかけで間違えて入ってしまった人が遭難しかけるという事件が何度か今までも起こっていた。

 私にはわからないけれども、相当難しい森のようだ。

 これは大神官に言われたことだけれども、ラオネルの石碑の護り人であるバシュラール家のものだけがこの森を簡単だと認識できるらしい。

 他者にとっては簡単に侵入できる森では駄目なのだそうだ。

 森が森の意志で簡単には受け入れないのではないかと仮説が立てられていた。

 私達バシュラール家の者は全く迷うことはないので、言われてみればそうなのかもしれない。

 それくらい、ラオネルの石碑を護ることは私達の平和のために大切なことだった。


 石碑の側までやってくる。

 ここだけ森が少し開けていて、空気が変わる。

 厳かで静かな、透き通るような空気。

 石碑はずっと変わらずそこにある。

 幼い頃からこの空間は、私にとっては心を落ち着けるために大切な場所だった。


『リーズ。来てくれてありがとう』


 気が付くと、石碑の向こう側にエグモントが立っている。

 先ほど感じていたような少しだけ冷たい表情は気のせいだったのか、いつものように温厚な笑顔でそこにいた。


「いえ、エグモント様。呼んでくださってありがとうございます。ただ、雨が降りそうなのです。パーティーもありますし、ちょっと急がないといけないのですが……ここで試してみたいこととは?」


 ちらりと空を見上げると、かなり分厚い雲が周囲を覆い出していた。

 今にも雨が降り出しそう。

 後の予定も詰まっているし、本当に急がないと。


『忙しいのに呼んでごめんね。でも、どうしても試してみたかったんだ。ねぇ、リーズ。この石碑に触れてみて』


 石碑に触れる?

 エグモントの言葉の真意がイマイチよく分からなかったけれども、わたしは石碑に近付いてそっと触れてみた。


 すると、体中にフワッと力が充満するような感覚が満ちて、ブレスレットを外して以来、向こう側が透けるように見えていたエグモントが、はっきりとした形で見えるようになった。


「え?え?どういうこと?エグモント様がまたはっきりと見えるようになりました!」


 ブレスレットをはめていたときと同じような見え方だった。

 エグモントがニコリと笑うと、私に近付いてきてそっと頬に触れた。

 その感触は、ここ数日感じることが出来なかったエグモントの掌の感触。

 羽で撫でられているような軽い感触だけれども、はっきりと手が触れていると実感できる。


「エグモント様に触れられているのが分かるわ!どうして??」


 あまりの驚きに、私は興奮してしまう。

 一体どうして今まで気が付かなかったのだろう。気分が高揚する。


『石碑の下の方、よく見て。あのブレスレットの内側にあった5色の石があるのがわかる?』


 私は、石碑の回りに生い茂る雑草をかき分けて、下の方を見てみると、そこにはブレスレットの内側に埋め込まれていた5色の石と全く同じ石が同じ並びで埋め込まれていた。


「これ、全く同じ……今まで全く気が付きませんでした。こんなところにあるなんて」

『多分これのおかげだと思う。なんの石かちゃんと一度検証したほうが良いのかもしれないけれど、見たことがないような石もあるからかなり特別なものなのかもしれないよね。でも、これが巫女の加護の力を強めてくれているのだと思う』

「本当ですね。早急にブレスレットの内側の石を王都神殿かどこかで検証してもらいましょう!同じ石を集めることが出来れば、私がエグモント様と繋がり続けることが出来るかもしれないし」


 希望が見えてきた。

 この5色の石さえ再現できれば良いのだ。

 それで今はベアトリスがつけているブレスレットと同じものを作れば良いのだから。


『そう思ってね。色々と調べていたのだけれど、5つのうち3つは多分なんとかなりそうなんだけれど、残りの2つは我が国には存在しない石のようでね……世界中を探せばあるかもしれないけれど、かなり望みは薄そうなんだ』

「そ、そんなに手に入れるのが難しいのでしょうか?」

『この5つの石がそうかもしれないという仮説を持ってここ最近はずっと調べていたからね。もうこの世に存在しない石かもしれない』


 なんということだ。

 結局ブレスレットに埋め込まれているものと、石碑に埋め込まれているもの、この2セットしか無いということなのか。

 せっかく希望が見いだせたのに、また振り出しだ。

 一瞬高揚した気分が一気にまた沈まされた気分となる。

 あのブレスレットや石碑の秘密がわかったとはいえども、結局再現が難しければ意味がない。


『だから、石碑を壊して石を取り出そう?』

「え……?石碑を壊す?」


 思わずエグモントを見やる。

 石碑を壊すだなんて、耳を疑った。


 ラオネルの石碑は、気の遠くなるほど昔からここに存在し、ラオネルを伝え続ける象徴だった。

 ここだけ森の中でも開けていて、空気が違うように感じられるのも石碑があるからだった。

 石碑に刻まれているラオネルの教えは、私達の根幹であり、この世の中が平和で平穏であるために伝えていかなければならない大切な教えだった。


『だって、壊さなければ石を取り出せない。この石がないと僕とリーズが繋がれないでしょう?』


 そういって、エグモントは私の唇にキスを落とした。

 私の唇にふわりとした層の分厚い空気が集まるような感触があった。

 エグモントの気持ちは嬉しいけれども、言っていることはちょっとよく分からない。

 石碑を壊すなんて、考えられなかった。


「エグモント様。石碑を壊すなんて私には出来ません。ラオネルの石碑はずっとここにあって、我が国の平和を護るための象徴となっているものです。これが無くなるということは、平和を脅かすことになるかもしれませんし、もしかすると私達巫女の加護の力まで消えてしまうかもしれません。本当に何が起こるか想像もつかない事になりかねません。エグモント様とまた繋がるために、ブレスレットをなんとかベアトリスから私に戻してもらえるように考えますから、石碑を壊すなんて言わないで」


 エグモントが眉をひそめる。そして見たこともないような冷たい表情を見せる。


『なら、ここでまた試そう?石碑にずっと触れていて』


 エグモントが、私の背中を石碑に押しつけながら抱きしめる。

 その力は私からしてみるととても軽いのだけれど、なぜだか押し返してもなかなかエグモントを離すことが出来ない。

 エグモントが自分の体を私にピタリと寄せてくる。

 白いドレスにエグモントの体が溶け込み、私の肌に直接触れる。

 その手が私の胸に触れた。

 思わずピクリと体が反応するのを見逃してはもらえず、エグモントはまた私の唇にその唇を重ねてきた。


 こんなところでこんなことをするなんて信じられないだけでなく、いつでも紳士的だったエグモントが別人になってしまったようだった。

 いつも羽や筆先でそっと撫でるようにしか感じられないその感触も、なぜだかすごく強く感じられた。

 少し乱暴で、私の唇を文字通り貪っているように。

 こんなところで、こんな乱暴な触れられ方はどうしても嫌なのに、なぜだか抵抗できない。

 脚の震えが止まらず、身動きが取れなかった。

 だんだんエグモントの片手が私の下腹部の方へ伸びていく。


「いや、こんなの違う……エグモント様やめて……」


 エグモントは私と目を合わせようともせず、そのまま唇を首筋に這わせて私の身体を弄る。


 その時、雨がポツポツと降り出した。

 それは一瞬で強い雨に変わっていく。

 エグモントの髪や肌やずっと来たままの騎士服は濡れたりしないのに、雨がまるでエグモントの涙に見えるように重なった。


「リーズ!そこにいるのか?!」


 強い雨のせいではっきりと見えないけれど、その声は幾度となく聞いたことのある声。

 ジェラルド。


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