第9話:制御不能な主婦と、命の境界線
第九話:制御不能な主婦と、命の境界線
スーパーの一角で繰り広げられる、信じがたい光景。強盗の一人が、ごく普通のパート主婦、神原みゆきによって床に組み伏せられていた。みゆきは、柔術のバックテイクの体勢から、男の首に腕を回し、チョークスリーパーを仕掛けていた。
周囲のパニックは続いているが、みゆきの周りだけは、異様な静寂が支配していた。他の強盗たちも、仲間の異変に気づき、こちらに近づこうとしている。
みゆきは、自分が仕掛けている技が、どれほど危険なものかを理解していた。頸動脈を正確に圧迫すれば、相手は数秒で意識を失い、さらに続けると命に関わる。マットの上で、何度も練習した技術。
しかし、今、相手は練習相手ではない。自分や、店内にいる人々を脅かす、本物の強盗だ。
「離せってんだろ!このババア!」
床に組み伏せられた強盗が、苦し紛れに叫ぶ。しかし、首に回された腕は、びくともしない。柔術の技術は、力ではなく、正確な構造に基づいている。相手が抵抗すればするほど、無駄な力が入り、より早く効いてしまうこともある。
みゆきは、男の抵抗を感じながら、腕に込める力を調整していた。失神させるつもりはない。ただ、この場を切り抜けるために、相手の動きを止めたい。しかし、恐怖と怒りが入り混じり、必要以上に力が入っているような気もした。
その時、遠くから、店長の悲鳴のような声が響いた。
「神原さん! それ以上やると(笑)しんじゃうから(笑)!!」
店長の言葉は、半分パニック、半分切実な警告だった。「笑い」が入っているのは、あまりに現実離れした光景と、みゆきがまさかそんな危険な技を使っていることへの、一種の動揺の表れだろう。しかし、その内容は明確だ。これ以上続けたら、相手を殺してしまうかもしれない。
みゆきは、店長のその言葉を聞いて、ハッと我に返った。相手を制圧することに集中しすぎて、力の加減が少しずつ強くなっていたことに気づいたのだ。
(…死んじゃう?)
殺人犯になる? そこまでのつもりはなかった。ただ、この男の動きを止め、自分や周りの人を守りたかっただけだ。
しかし、同時に、あの日の不快な感触が蘇る。腰に這った、ねっとりとした手。あの、底知れない不気味さを含んだ視線。この男が、本当にあの時の犯人だとしたら? あるいは、この男と繋がっている、あの視線の主が、どこかでこの光景を見ているとしたら? 自分が、この男を、そして自分を狙う闇を、ここで終わらせてしまってもいいのではないか?
そんな、危険な衝動が一瞬、頭をよぎる。しかし、すぐに打ち消した。自分は殺人犯になれない。そして、何より、娘や夫に、そんな姿を見せるわけにはいかない。
みゆきは、腕に込める力を、僅かに緩めた。完全に解放するのではなく、相手が簡単に動けない程度の圧迫に留める。
「うぐっ…」
男が、苦しいながらも、再び声を出せるようになった。完全に意識を失う寸前だったのだろう。
他の強盗たちが、みゆきと組み伏せられた仲間の方に近づいてくる。彼らは、まさか自分たちの仲間が、こんな場所で、こんな形で制圧されるとは思っていなかったのだろう。その顔には、怒りというより、驚きと戸惑いの色が濃かった。
「おい! 何やってんだテツ!」
「離せ! そこの女!」
強盗たちが叫びながら、みゆきに迫る。みゆきは、組み伏せている男から視線を離さず、しかし周囲の気配も感じ取っていた。次に、複数人が同時に襲いかかってくるだろう。
(どうする…)
柔術の技術は、一対一であれば非常に有効だ。しかし、複数人相手では厳しい。特に、相手は凶器を持っている。
みゆきは、組み伏せている男の首に腕を回したまま、素早く状況を判断した。この男を盾にするか? それとも、この男を放棄して、逃げるか?
しかし、逃げることは、他の客や従業員を見捨てることになる。そして、逃げたところで、あの視線の主からは逃れられない。
その時、新たな声が響いた。
「警察だ! 手を上げろ!」
店の外から、パトカーのサイレンが近づいてくる音が聞こえたかと思うと、制服警官たちが突入してきたのだ。どうやら、客や従業員が、パニックの中、機転を利かせて警察に通報していたらしい。
強盗たちは、警察の登場に色めき立った。彼らは金銭を奪う前に、逃走を図ろうとする。
みゆきは、組み伏せている男のチョークを完全に解き放ち、素早く立ち上がった。男は、解放された途端、咳き込みながら転がるように逃げようとするが、すぐに駆けつけた警官に取り押さえられた。
他の強盗たちも、警察と対峙することになる。彼らは凶器を構え、抵抗しようとするが、警察はすでに十分な人数を確保していた。
スーパーの強盗事件は、みゆきの予期せぬ介入と、迅速な警察の到着によって、あっという間に収束に向かった。
みゆきは、床に座り込み、荒い息を整えていた。全身が震えている。恐怖と、そして自分が命の境界線に触れかけたことへの後遺症だ。
店長が駆け寄ってくる。その顔は、安堵と、そしてやはり「あぶねー」という感情が入り混じっている。
「神原さん! 大丈夫ですか!? 今度は…今度は本当に…!」
店長は、言葉にならない様子だった。みゆきが、マニュアル破りどころか、強盗犯相手に柔術で制圧しようとしたのだ。
みゆきは、震える手で顔を覆った。自分が何をしたのか、そして、何をしようとしていたのか。あの瞬間、殺意のようなものが、一瞬だけ自分の中に芽生えたことを、彼女は知っていた。
そして、警察や店長の動きを見ながら、みゆきの視線は、再び、店の隅々へと向けられた。混乱は収束したが、あの、ねっとりとした視線は? それは、まだ自分を見ているのだろうか? 自分が、強盗を柔術で制圧する様子を、どこかから観察していたのだろうか?
強盗グループは捕まった。しかし、みゆきを個人的に狙う、あの闇の存在は? それは、まだそこにいるのだろうか?
みゆきの日常は、二度と戻らない。彼女は、自分の力で、そして危険な手段で、自分自身を守ることを選んだ。そして、その選択は、彼女を、さらに深い、そして制御不能な混沌へと引きずり込んでいくことになるのかもしれない。
第九話(続き):制御不能な主婦と、命の境界線
スーパーに押し入った強盗たちの手には、鈍く光る金属バットや、刃渡りの長いナイフが握られていた。そして、リーダー格らしき男は、隠し持っていたと思しき黒い拳銃を突きつけ、「動くな!騒いだら撃つぞ!」と威嚇している。
店内の人々は、その凶器の数々と、男たちの殺気に圧倒され、一瞬にして凍りついた。悲鳴や嗚咽が漏れるが、誰もが体を小さく丸め、凶器から少しでも遠ざかろうと必死だった。テレビのニュースでしか見たことのない光景が、今、目の前で現実として展開されている。誰もが、ナイフや拳銃の恐ろしさを知っていた。一突きで、一発で、命を奪われる可能性がある。その圧倒的な暴力の前に、人々はただ怯えることしかできなかった。
みゆきも、強盗たちが手にした凶器を、確かに目にした。金属の冷たい光。刃物の鋭利さ。そして、銃口の向けられた方向。それらは、人間の命をいとも簡単に奪い去る道具だ。
しかし、その時のみゆきの意識は、他の人々と少し違っていた。恐怖はもちろんあった。だが、日々の柔術と総合格闘技の練習で培われた感覚が、彼女の意識を別の方向に向けさせていたのだ。
(ナイフ…拳銃…)
彼女の目は、凶器そのものではなく、それを持っている相手の「手」を見ていた。腕の角度、体の構え、重心の位置。マットの上で、何度も練習相手と組み合った時に感じた、相手の体の動きを読む癖が、無意識のうちに出ていた。
(ナイフだろうが、拳銃だろうが…あれは、道具だ)
道具は、持っている人間が動かさなければ、何もできない。そして、道具を持っている人間も、結局は人間だ。息をし、動き、バランスを崩す。
柔術の練習では、相手がどう構えようと、どう抵抗しようと、相手の体勢や動きの隙を見つけ、そこに自分の技術をかけることに集中する。相手の力をいなし、テコの原理で操る。相手の動きを封じ込める。
(刃物を持ってても、組み付いてしまえば…)
もちろん、現実の強盗相手は、マット上の練習相手のように手加減などしない。組み付く前に切りつけられたり、撃たれたりする危険は十分にある。しかし、みゆきの頭の中には、「相手の体勢を崩し、コントロールすれば、凶器は無力化できる」という、柔術で学んだ知識と、それによって得られたかすかな自信があった。
そして何よりも、あの不快な視線と、腰に這ったあの感触への、根源的な怒りと嫌悪感。あの闇の存在が、またいつか自分を狙ってくるかもしれないという恐怖。そのためには、ここで怯えているわけにはいかない。この危険な状況を、自分自身の力で切り抜けなければならない。
だから、強盗の一人が、ナイフを握りしめたまま、みゆきのレジ脇を通り過ぎようとした、その刹那。
他の客や同僚が、その凶器に恐怖を感じ、身を竦ませる中。
みゆきは、怯まず、一歩も引かなかった。
彼女の体は、まるで練習で染み付いた反射のように動いた。恐怖はあった。心臓は激しく脈打っていた。だが、ナイフを持つ相手の腕や、体の重心、動きの癖に焦点を合わせる感覚は、恐怖を凌駕していた。
(このタイミング…!)
相手が完全に油断し、背中を向けた、その一瞬。
みゆきは、迷いなく、そして躊躇なく、相手の体に組み付いた。それは、ナイフを振り回す「危険な手」ではなく、柔術で相手を制圧するための「体の中心」を捉える動きだった。
「な、なんだお前!離せ!」
男が怒鳴りながら、ナイフを振り回そうとする。しかし、みゆきは男の腕や体にしっかりと張り付き、ナイフを持った手をコントロールしながら、柔術の技術で相手のバランスを崩すことに集中した。刃物は、相手の体の自由が利かなくなれば、単なる重い金属片にすぎない。
みゆきは、マットの上で培った知識と技術、そして自分を守るという強い意志によって、ナイフだろうが、拳銃だろうが、目の前の暴力にひるむことなく立ち向かったのだ。それは、もはや「普通」の主婦がする行動ではなかった。彼女は、恐怖を凌駕し、自らの安全を、そして自らの尊厳を、力によって守ることを選んだ。
そして、彼女のこの「ひるまなさ」と、柔術で培われた予測不能な動きが、強盗たちにとって、予想外の混乱を生むことになったのだ。
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