晴れと月

アオノソラ

第一章:始まりの夢


2050年の東京の朝は、AIが最適化した光と音で始まった。ハルの自室、祝晴高校の敷地内にある最先端の学生寮の一室も例外ではない。壁一面に広がるスマートウィンドウが緩やかに輝度を上げ、外の喧騒を遮断していた防音機能が徐々に解除されていく。窓の外には、まるで意思を持っているかのように整然と空を往来するエアカーの群れが、朝日にきらめいていた。彼のスマートスピーカーからは、AIが選定した穏やかなアンビエントミュージックが流れ、今日一日のスケジュールが簡潔に読み上げられる。


「おはよう、ハル。午前7時00分。今日の天気は晴れ、最高気温は28度。祝晴高校の午前中の授業は、8時30分からAI量子物理学です。交通状況は良好。最適な登校ルートを提示します。」


ハルは、ベッドの上でゆっくりと身を起こした。彼の髪は寝癖一つなく整っているように見えるが、それは彼が枕元に置いた小型のAIヘアスタイリングデバイスを起動させたからだ。顔を洗い、スマートミラーが自動で肌の状態を解析し、最適なスキンケアを提案する。全てが効率的で、無駄がない。それが、祝晴高校の、そしてこの社会の「完璧」な日常だった。


ハルが身につける制服は、体温や湿度に合わせて自動で調整される高機能素材でできていた。校章は左胸にホログラムで投影され、時間帯や場所によって自動的に認証情報へと切り替わる。彼は一切の無駄なく身支度を整えると、リュックを肩にかけた。中身は最低限のデバイスと、読みかけのペーパーブック一冊。ほとんどの教材はスマートタブレットに集約されているため、物理的な教科書を持つ生徒はむしろ珍しい。ハルがペーパーブックを好むのは、彼なりの「自由」の表現だった。


寮のロビーに出ると、すでに多くの生徒たちがそれぞれの朝を過ごしていた。最新のVRデバイスで仮想空間のニュースをチェックする者、ブレックファストをAIカフェに注文して談笑する者、ホログラムの教材を空中に投影して最終確認をする者。誰もが優秀で、未来を見据えているように見えた。祝晴高校は、単なる進学校ではない。それは、このAIが支配する社会をリードする「人材」を育成するための、言わばエリート養成機関だった。ここにいる生徒たちは皆、将来の「選択」をすでに委ねられ、その道をまっすぐに進んでいるように見えた。彼らが手にしているスマートデバイスには、各自の進路に合わせた最適化された学習プランが日々更新され、常に最高の効率で知識を吸収できるよう設計されている。ハルは、そのシステムの中にいながらも、常に一歩引いた場所から物事を観察する癖があった。彼にとって、完璧すぎるシステムは、時に退屈で、窮屈に感じられることもあったのだ。


ハルは、そんな喧騒を冷静な瞳で見つめながら、自身のスマートグラスを装着した。視界に一瞬、授業で使うであろう数式がちらつき、即座に彼の脳内マップと同期する。彼のルーティンは常に一定だ。効率を最大限に高め、余計な思考は排除する。それが、彼がこの学校で「トップ」であり続けるための流儀だった。


しかし、その日だけは違った。彼の心には、朝からずっと、あるイメージがこびりついていた。それは、過去の、そして今も続く、彼とルナの間の、言葉にならない“何か”だった。



「……ルナ?」


ハルは、眩しい光の中で、か細い声で呟いた。視界いっぱいに広がるのは、ひだまりのような温かさ。まだ背丈も小さかった自分と、それよりも少しだけ高い位置で、無邪気に笑う少女の姿があった。


場所は、見慣れたはずなのに、どこか懐かしさを感じる古びた公園。色褪せたブランコが、ゆらり、ゆらりと音を立てている。ルナは、ハルの差し出した手のひらに、摘んだばかりのタンポポの綿毛をそっと乗せた。


「ハル、これ、遠くまで飛んでいくんだよ。ルナの願い事も、届けてくれるかな?」


少女の澄んだ声が、耳の奥でこだまする。ハルは、綿毛が風に舞い上がっていくのを、ぼんやりと見上げていた。その小さな白い塊が、青い空に溶けていくように消え去った時、ルナの笑顔が、ふっと影を帯びた。


「でもね、ハル。届かない願い事もあるんだよ……」


ルナの声が遠ざかる。ひだまりの公園の景色が、ぐにゃりと歪み始めた。ブランコが軋む音が耳障りになり、鮮やかだった色彩が灰色に変わっていく。ルナの顔が、恐怖に怯えるような、悲しみに満ちた表情に変わる。ハルは手を伸ばすが、彼女の姿は霧のように消え失せ、残されたのは冷たい静寂だけだった。


「……ルナッ!」


ハルは、息を弾ませて飛び起きた。同時に、その声が、静まり返った教室に響き渡る。


目の前に広がるのは、磨き上げられた光沢のある机と、整然と並ぶ最新式のホログラムディスプレイ。周囲には、数十人の生徒たちが一斉にペンを走らせる音と、時折AI講師が発する無機質な声だけが響くはずだった。だが今、すべての生徒の視線が、一斉にハルに突き刺さっていた。その視線は、好奇、困惑、そしてかすかな呆れが混じり合っていた。


ここは、祝晴高校の、授業中の教室。ハルは、いつの間にか眠りに落ちていたらしい。窓側の列の、前から4番目の席。いつもの特等席だ。彼がここを定位置にしているのは、授業中に誰にも邪魔されず、静かに考え事をしたり、時には居眠りをしたりするのに最適だからだった。AI講師の授業は効率的だが、ハルにとっては時に退屈だった。彼の思考は、いつもその先の、誰もたどり着けない場所へと飛躍している。


教室の最前列で授業を受けていたルナが、ゆっくりと振り返った。彼女の瞳は、いつも通りの澄んだ光を宿している。一瞬、ハルの視線と交錯したが、ルナはすぐに表情を悟られないように伏せ、AI講師のホログラムへと向き直った。その完璧なまでに整った横顔からは、彼が叫んだことへの動揺は微塵も感じられない。しかし、ハルには分かっていた。彼女の指先が、わずかに教科書の端を強く握りしめていることに。その仕草は、彼女が心を乱している時の、唯一の兆候だった。周りの生徒がそれに気づくことはない。彼らにとって、生徒会長・瑠㮈は、常に冷静で完璧な存在だったからだ。


ハルはゆっくりと顔を上げ、窓の外に目を向けた。高層ビル群の隙間を縫うように、無数のエアカーが規則正しく行き交う。2050年の東京の空は、今日もどこまでも青かった。夢の余韻が胸の奥に微かに残るが、彼の表情は相変わらずクールなままだ。


「――次のアルゴリズム解析。ハル、キミの意見を聞かせてくれ」


AI講師の声が、ピンポイントでハルの耳に届く。教室中の視線は依然として彼に集まっているが、ハルは動じることなく、スマートグラスを指でなぞった。ディスプレイに即座に表示された複雑な数式を一瞥し、涼しい声で答える。


「問題ありません。最適な解法はA、効率は98.7%。ただし、一部のパラメーターに微細なバグが確認できます。推奨される改善策は、量子ゲートの再最適化と、それに伴うデータ構造の見直しです」


その言葉に、AI講師のホログラムがわずかに揺れた。それは、AI講師ですら即座には認識できなかった深層のバグを指摘されたことへの、プログラム上の微細な動揺だろう。教室のあちこちから、小さなざわめきが起こる。ハルは、いつも通りだった。この祝晴高校で、成績トップの彼が、授業中に居眠りをしていようが、大声を出そうが、教師が咎めることはない。彼には、それだけの「自由」が許されていた。その自由は、彼がクラスメートから「クールでありながら頼りやすい」と認識される一因でもあった。騒ぎが落ち着き、生徒たちは再びペンを走らせ始めた。まるで何事もなかったかのように、静寂が教室を支配する。


ルナは、ハルの答えを聞きながら、ほんのわずかだけ、その指先の力が緩んだのを感じた。彼女は生徒会長として、模範的でなければならない。些細な動揺さえ見せてはならない。しかし、ハルが叫んだ時、胸の奥で確かに何かが揺さぶられたのを感じた。そして、彼が完璧な解答を導き出した時、まるで自分の中の張り詰めた糸が、少しだけ緩んだような気がした。ハルは、いつだってそうだ。どんな時でも、予想外の行動で周囲を驚かせ、そして、なぜか全てを解決してしまう。彼の存在は、ルナにとって、いつも秩序だった日常に現れる、予測不能な「晴れ」のようだった。


昼休み。喧騒が教室に溢れる。静寂に包まれていた授業中とは打って変わり、生徒たちはVRゴーグルを装着して仮想空間で遊んだり、AIカフェで注文したスイーツを片手に談笑したりと、それぞれ思い思いに過ごしている。校内のAIカフェテリアからは、焼きたてのパンとコーヒーの香りが漂い、自動配膳ロボットが忙しくテーブルを回っている。祝晴高校の広大な敷地内には、最新鋭の研究施設が点在しているが、彼らの興味は今は目の前の「自由」にあるようだった。生徒たちは各々のスマートデバイスに没頭し、情報が波のように押し寄せる現代社会の中で、自分の居場所を見つけることに必死だった。その光景は、一見自由に見えて、しかし皆が同じ方向を向いているようにも見えた。


「おい、ハル! 朝からぶっ飛ばしてんな、お前」


窓際でスマートグラスをいじっていたハルの肩を、後ろから叩く者がいた。振り返ると、そこにはアキトがいた。ハルとは小学校からの幼馴染で、彼のクールさとは正反対の、熱血漢だ。黒髪を短く刈り上げ、瞳はいつも真っ直ぐだ。制服のネクタイを少し緩め、いかにも活発そうな印象を与える。アキトの隣には、ルナの生徒会活動を支える副会長のユイと、ハルと同じ共通の趣味を持つクラスメイトのソウタが、それぞれ呆れたような、けれどどこか楽しそうな表情で立っている。ユイは長い黒髪を一つにまとめ、知的な印象を与える一方で、どこか物事を斜めに見る癖があった。彼女のスマートグラスには、常に最新の経済ニュースがスクロールしている。ソウタは少し背が高く、細身だが、その目に宿る熱意はアキトに劣らない。彼は手にしたタブレットで、何やら複雑なデータ解析を行っている最中だった。


「いやぁ、まさかあのハルが、授業中に叫ぶとはな。しかも、ルナって。まさか夢の中で告白でもしてたのか?」


ソウタがニヤニヤしながらからかう。ハルは特に反応せず、無言でスマートグラスを外した。アキトが代わりに口を開く。


「ソウタ、やめとけって。ハルが何か言うわけねーだろ。なあ、ハル? 寝ぼけてただけか?」


「……ただの夢だ」


ハルは短く答えた。彼が夢の内容を詳しく語ることはない。それは幼馴染のアキトでさえ知っている、ハルの不変のルールだった。しかし、彼の視線が、教室の隅で生徒会の資料に目を通しているルナに一瞬だけ向けられたのを、アキトは確かに見逃さなかった。ルナの周囲には常に数人の生徒が集まっており、彼女が異性から人気があることを改めて思い知らされる。彼女の完璧な笑顔で、周囲からの質問に完璧に答えている。その完璧さは、遠目からでも眩しいほどだった。しかし、ハルにはその完璧さの裏にある、微かな疲労の色が見て取れた。彼女がどれほどの期待を背負い、どれほどの重圧に耐えているか、ハルは誰よりも理解していた。


「夢ねぇ。でも、あんなに焦ってるお前、初めて見たかもな」


ユイが冷めた声で呟いた。彼女はルナの親友だが、ハルのこともよく理解している。その言葉に、ハルのクールな表情が、ごくわずかだが揺らいだように見えた。夢の中のルナの怯えた顔が、彼の脳裏に焼き付いている。


「ま、いいけどよ。それより、今日の放課後どうする? 新しいARゲーム、試すんだろ? ソウタも解析手伝ってくれるって言ってたし」アキトが話題を変える。彼はハルの繊細な感情の動きには気づいていたが、深く詮索するよりも、いつもの日常に戻ることを選んだ。それが、彼らの友情の形でもあった。


「もちろん! ハルのデータ、いつも参考にさせてもらってるからな。この間解析してたアルゴリズム、あれでゲームの挙動がどう変わるか、楽しみだ」ソウタは目を輝かせた。ソウタはハルに匹敵するほどの知性と探求心を持っているが、どこか不器用な部分があり、ハルを常に目標としていた。彼の開発するAIプログラムは、ソウタにとって常に刺激的だった。二人の間には、学問的な探究と、純粋なゲームへの熱意が混じり合った、独特の絆があった。


ハルは小さく頷いた。「時間通り、屋上集合で」


午後の授業が始まった。ハルは再び、窓の外の空を見上げた。青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。夢の中のタンポポの綿毛が、あの雲のように遠くまで飛んでいけば、ルナの「届かない願い事」も、いつか届くのだろうか。彼の心は、アルゴリズム解析や量子物理学の複雑な数式とは全く異なる、感情の渦の中にいた。


放課後。生徒たちが部活動や研究室、あるいは校外の活動へと散っていく中、ハルはアキト、ソウタと三人で、人気のない屋上へと向かった。祝晴高校の屋上は、生徒たちの秘密の場所だった。そこには、忘れ去られたように朽ちかけた旧式の太陽光パネルが並び、都市の喧騒から隔絶された静寂が広がっていた。風が、彼の髪を静かに揺らす。東京の中心部に位置する祝晴高校の屋上からは、2050年の大都会がまるで手のひらの上にあるかのように見渡せた。煌めくエアカーの光、そびえ立つ超高層ビル群。その全てが、彼の自由でクールな存在感を際立たせていた。


アキトとソウタは、屋上に到着するやいなや、リュックから最新のARゴーグルを取り出し、仮想空間でのゲームを始めた。彼らの目の前には、現実の景色に重ねるように、巨大な仮想敵が迫り、鮮やかなレーザー光線が飛び交う。ハルが最適化したアルゴリズムは、敵AIの動きを予測不能なまでに高度化させており、二人はその戦略に頭を悩ませながらも、夢中になってコントローラーを操作していた。AIが生成する敵の動きは、日を追うごとに巧妙になり、彼らの挑戦心を刺激していた。


ハルは、彼らの楽しそうな声を聞きながら、フェンスにもたれかかってスマートグラスを外した。冷たい金属の感触が、夢の余韻を少しだけ薄れさせる。


「届かない願い事……か」


ハルは、ポツリと呟いた。夢の中のルナの言葉が、耳の奥でこだましている。それはただの夢だったはずなのに、胸の奥に澱のように残る不安があった。そして、その不安の核には、いつも、幼馴染であるルナの存在があった。


彼とルナの関係は、周囲の誰よりも深く、そして複雑だった。小学校からずっと同じ時間を過ごしてきた。彼女が誰にも見せない本当の顔、その完璧な笑顔の裏に隠された、人には言えない秘密があること、そして彼女がどれほどの重圧を抱えているかを知っているのは、おそらく世界中で自分だけだ。ルナは常に「みんなの生徒会長」として振る舞い、その完璧さで周囲の期待に応えようとしていた。彼女が一度でも弱さを見せれば、その瞬間に重圧が彼女を押し潰してしまうのではないかという危機感を、ハルは常に抱いていた。


ルナの家は、祝晴高校を運営する財団の一角を担う、この国のAI技術開発を牽引する名家だった。幼い頃から、ルナは周囲の大人たちから「天才」「未来のリーダー」と称され、その期待の重さに押し潰されそうになっているのを、ハルは何度も見てきた。彼女の「人前に出るのが苦手」という弱さも、その過剰な期待から生まれたものだと、ハルは密かに考えていた。彼女が背負うものがあまりにも大きすぎて、彼にはどうすることもできないと感じる時があった。それが、彼がルナに対して抱く、届かないような、もどかしい感情の理由でもあった。


ハルは、無意識のうちに拳を握りしめた。あの夢は、一体何を意味しているのだろうか。そして、ルナが抱える「届かない願い事」とは、何なのだろうか。彼は知っていた。ルナの完璧な笑顔の裏には、人には言えない秘密が隠されていることを。そして、その秘密が、いつか彼女を、そして自分自身を、大きく変えてしまうのではないかと、漠然とした予感を抱いていた。それは、薄暗い影のように、彼の心に常に付きまとっていた。


屋上のフェンスの向こう、夕暮れに染まる空を背景に、祝晴高校の最高層棟がそびえ立っている。その最上階には、セキュリティで厳重に守られた「特別研究室」がある。生徒たちの間では都市伝説のように語られるその場所は、学校の「秘密」の象徴だった。ハルは、その場所を見上げながら、ルナの夢と、学校の秘密が、どこかで繋がっているのではないかという、根拠のない確信にも似た予感を抱いていた。あの夢でルナが見せた怯えの表情は、ただの幼い日の記憶では片付けられない、何か深い意味があるように思えてならなかった。


アキトとソウタの笑い声が風に乗って聞こえてくる。彼らは、まだ世界の裏側にある闇を知らない。ハルは、その無邪気な笑顔を守りたいと、強く願った。そして何よりも、ルナを。彼女の「届かない願い事」を、いつか「届く願い事」に変えてあげたいと。しかし、そのためには、彼女が抱える秘密、そしてこの祝晴高校が隠す真実に、向き合わなければならないだろう。


夕日が地平線に沈みかけ、空の色が橙から深い紫へと変わっていく。ハルは、静かにスマートグラスを装着し直し、ディスプレイに浮かび上がった複雑なデータ群を解析し始めた。その瞳の奥には、彼にしか見えない、未来の「真実」を追い求める光が宿っていた。今日の夢がただの偶然ではないことを、彼の直感が告げていた。それは、これから始まる物語の、静かな幕開けだった。

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