歴史雑記
月桑庵曲斎
その他の茶の歴史
歴史小説を書いていく中で、庶民が日常的に飲んでいたものはなんだろうか?というと、水なのですが、そこから抹茶というのはかなり隔絶していて、誰でも飲めるものではありませんでした。
では、その間のものとはなにか?というと、現代ではほうじ茶や番茶、茎茶、棒茶というものがあります。
そこでちょっとそれぞれ調べてみました。
焙じ茶は1920年代(昭和初期)に生まれたものなので、緑茶の存在していた江戸時代にもない……ということになります。
比較的新しいものだったのですね。
これに対し、番茶は奈良時代に遡るそうですが、現在番茶として売られているものと製法が若干異なり、十五世紀(1600年代)より歴史に登場します。その頃は「晩茶」でした。
この「晩茶」というのは、一番摘みではない「おそ摘み」の意味です。 おそ摘みというのは初夏の摘み時を過ぎた秋摘みの硬くなった茶葉のことで、抹茶にすると苦すぎるため、蒸して乾燥させ、湯に入れて煮出します。 穀物粉で固めた物を団茶・磚茶・餅茶というのに対して「散茶」といいます。
大陸の散茶は、煎茶碗(磁器の汲出)で、蓋で葉を止めて出すため、葉が大きいままでしたが、日本では煮出すため細かいものや茎が入ったもの、砕けた葉なども使われるようになりました。 後に茎茶、棒茶、番茶と区分されていくようになりますが、それは昭和に入ってからのことらしいです。
日本では、江戸時代に煎茶が流行したことから、急須で飲むような習慣が生まれます。
大陸では煮出した茶を入れておくためのものが急須で、煎茶碗に注ぐための道具であり、日本のように急須で淹れるというのはあまり行われなかったようです。それよりは、茶盌に茶葉を入れて、湯を急須で注ぐという手法であったようです。
日本はそれに対して急須にお湯を注いで茶葉を濾すという手法が発達していきます。
こうした茶に対する入れ方の違いは「水」の性質の違いにもあります。
日本の水は自然濾過された軟水であるのに対し、大陸の水は硬水であるため、煎茶のような茶が生まれにくかったようです。
抹茶が大陸で廃れたのも、軟水の入手が難しかったからではないでしょうか。
やはり抹茶は贅沢なものだったのでしょうね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます