弐:その『御』に、正義はあるか

 翌朝の光は、いつもより白く感じられた。

 街の喧騒もどこか遠く、ただ風に舞う葉が石畳を撫でるように擦れ、「さら、さら」と控えめな音を立てていた。


 蘅音コウインは、かろうじて形を残した壺の一部を両手に抱え、楚湛言ソタンゲンのもとへ足を急がせた。隣には、ぴたりと寄り添うカンの姿。左の前脚には応急の布が巻かれていたが、足取りはしっかりしている。不満げな目つきは、「あれくらいで本気を出すまでもない」と言いたげだった。


「ねえ楚湛言ソタンゲン……昨日のあれ、やっぱりおかしかったよ。」


 楚湛言ソタンゲンは街角の屋根の修復を手伝っていたが、蘅音コウインの姿を見るや否や、無言で近づいてきた。


「それ……まさか、昨夜の?」


 蘅音コウインは黙って頷き、壺の破片の内側を見せる。そこには、うっすらと銀色の咒線の痕跡が浮かび、淡い光を放っていた。


「それに、あの妖の目。焦点がなかった。動きにも意志が感じられなかった……ただ、命令されてるみたいに、突っ込んできて。」

 彼女の声は冷静だったが、その瞳にははっきりとした疑問と不安が宿っていた。

「……楚湛言ソタンゲン、これって……そういう術、あるの?」


 楚湛言ソタンゲンは、その場で硬直した。瞳の奥で何かが砕けるように、微かな光が揺れる。

「まさか……いや……それは……」

 彼の口が何かを否定しようと動いたが、言葉にならない。


 ——そして。


楚湛言ソタンゲンッ!」


 突如、街の通りの向こうから、鋭く響く怒声が空気を裂いた。

 蘅音コウインが振り返ると、そこには一団の人影が迫ってきていた。

 銀の装束を纏った影が、通りの奥から続々と姿を現した。

 そのどれもが一様に、剣を佩き、靴音を揃え、威圧感に満ちた気配を漂わせている。


 ……御妖師、かな。


 蘅音コウインがそう思った瞬間、楚湛言ソタンゲンは反射的に体勢を変え、彼女の前へと出た。その隣では、カンが尾を逆立て、足を踏ん張りながら低く唸っている。


 ——まるで、ただならぬ敵意を本能で察知しているかのように。


 先頭に立つ男の一歩は重く、鋭く、まるで大地を断ち切るようだった。彼の目が楚湛言ソタンゲンを捉えたその瞬間、声が鋭く響く。


「何をモタモタしてる!カンを連れて帰る命令は、とっくに出ているだろう!」


 楚湛言ソタンゲンの肩が、ビクリと震えた。


 その声音といい、口調といい、否応なく彼の記憶を引き戻す。

「……師叔ししゅく。」

 彼は呟くように、そう呼んだ。その男は、楚湛言によく似た目をしていた。ただし、その目には一切の迷いも、優しさもなかった。


 蘅音コウインは思わず一歩、カンの前に立ちふさがった。驚きと戸惑い、そして信じたくない気持ちが入り混じった目で、楚湛言ソタンゲンを見上げる。


 ……讙を、渡したくない。


 人の群れの後方で、一体の白い影が月の記憶をなぞるように、堂々と現れた。だがその歩みには、意志も感情もなく、ただ命令をなぞるかのような空虚さがあった。


 人なのに……白銀の髪が風に揺れて、背中には黒い剣。

 獣じゃないはずなのに、その瞳は——どうして、あんなにも獣みたい……

 ……ううん、違う。

 ハクだ、あれは——


 そして。


 ——剣を、抜いた。


「……っ!?」


 驚きに息を呑む蘅音コウインの前で、ハクは無言のまま、楚湛言へと刃を向けた。


 次の瞬間、街の空気が張り詰める。

 緊張は、一触即発。


 楚湛言ソタンゲンは、剣先が自分を指すのを見ても、一歩も動かなかった。その奥で、蘅音コウインカンが身構えているのが分かる。けれど、彼の視線はただ、前に立つハクに向けられていた。


「……やめろ。」

 小さく、けれど確かに、そう呟いた。

「やめろ、ハク。」

 だが、その声は届かない。ハクの瞳には、何も映っていない。ただ命令をなぞる光が、そこにあるだけだった。


「やめろ?……今さら妖と話が通じるとでも思っているのか?」

 師叔ししゅくの声は、冷笑と共に叩きつけられた。

「退かないのなら、斬れ。剣を持ってるんだろう、楚湛言。お前に教えてきたはずだ、ためらいは刃より危うい……何を迷っている?」


 楚湛言ソタンゲンの拳が震える。

「……こんなのが、『御』かよ……?」


 その場に立ち尽くしたまま、彼は唇を噛みしめた。

「師匠は昔……言ってた。妖にも、良いのと悪いのがいる。讙は——あいつは、宮を出てから一度も人を傷つけてない。火の中で、人を助けたんだ!」


 言葉の端が、怒りと悔しさで震えていた。

「そんな奴まで『連れ戻す』のが、正しいっていうのか?」


「正しい、だと?お前が『正しさ』を語るのか?」

 師叔ししゅくは、せせら笑うように鼻で笑い、それから——声を張り上げるように高らかに笑った。

「自分の師匠を、俺の兄弟子を、この手で斬り伏せたのは誰だった?他でもない……お前だろう、楚湛言ソタンゲン!」


 楚湛言ソタンゲンの肩が僅かに揺れる。


「お前と兄弟子は、いつも『情』に縛られていた。だからこそ、ああいう末路を迎えたのだ。」

 その声音には、微塵の同情もなかった。ただ冷たく、乾いた断言が続く。

「人と妖は共に生きられない。だからこそ、『御する』のだ。」


 銀衣がひるがえり、彼の目には、得意と傲慢が滲んでいた。他人など最初から視界にないかのように。

「『御』とは、従わせること。『妖』を、縛り、制し、支配すること——それが、我ら御妖師の本懐だと、何度教えた?」


「違う、違う……師匠は言ってた。『御っていう字はな、支配の意味もあるけど——本来は敬うって意味もあるんだ。妖と人は、互いに尊重し合えるはずだ』って!」


 かつて、楚湛言ソタンゲンは、忠実な御妖師だった。

 言われるままに妖を封じ、命じられるままに術を使う——それが正しさだと、疑ったこともなかった。


 だが、あの夜——

 果てしなく広がる血の海と、師匠が倒れた時の悔恨の涙は、今もなお脳裏を離れない。


 もしあのとき、妖を少しでも理解しようとしていたら。

 もし、ほんの少しでも、尊重しようという気持ちがあったなら。

 すべては、違った結末を迎えていたのではないか。


 人に善悪があるように、妖にも善悪がある。

 それは、ごく当たり前のはずなのに——

 なぜ、御妖師たちはそれを見ようともしないのか。


 妖の感情を理解できる方法があれば。

 同じ酒を酌み交わし、心を通わせる手段があれば。

 きっと、あの優しい師匠も、兄弟子も、無為に命を落とすことはなかった。

 きっと、その家族たちも、あんな絶望に沈むことはなかったはずだ……


師叔ししゅく……昔は、妖を理解する術がなかった。でも、今は……もう違うんです……」


 楚湛言ソタンゲンの言葉は、途中で途切れた。

 言えなかった。いや、言わなかった。言いたくなかった。

 視線が、つい隣の蘅音コウインに向いてしまう。

 だが、それに気づいた瞬間、慌てて目を逸らした。


 ——言葉にしたら、きっと彼女を巻き込んでしまう。

 たった一言でも、いや、一瞬の視線さえも、彼女に災いを呼びかねない。


 万が一、師叔ししゅく蘅音コウインに何かを——

 その想像だけで、喉が詰まるほど苦しかった。



「ああ、またそんな無駄で無意味で、甘っちょろい理屈を語ってるのか。だから俺は兄弟子に言ったんだ、お前にそんなこと教えるべきじゃなかったってな。楚湛言ソタンゲン、お前も——ハクみたいに、最初から操られてればよかったんだよ。」


「意志を奪われて、ただ命令をなぞるだけの……あれは、ただの兵器だろう!」

 楚湛言ソタンゲンは、堪えきれずに叫んだ。

「そんなやり方で妖を『御』するっていうのか!?それが……それが、私たちの『正義』なのかよ!」


 沈黙。

 街の空気が、冷たく張り詰める。

 その言葉に、一同が凍りついた。


 師叔ししゅくが、楚湛言ソタンゲンを見据える。その目には、怒りも、戸惑いもなかった。


「正義?——お前が勝ってから、語れ。」

 声音は刃のようだった。情も迷いもそこにはなく、ただ命令と結果だけを重んじる者の声だった。


 その瞬間。


 ——ズンッ!


 大地が鳴った。風が止み、誰もが息を呑む。


 ハクが一歩、踏み込む。ただの一歩。それだけで、石畳がひび割れる。


 次の瞬間、白銀の身体が風を裂く。

 剣が横一文字に振り抜かれる。容赦など、一切ない。


「——っ!?」


 楚湛言ソタンゲンがとっさに飛び退く、その眼前を、黒い刃が閃光のように掠めた。


 空気が裂ける音。風圧が建物の簷をめくり、砂埃が舞う。


 ——ハクは、もはや「ただの妖」ではなかった。

 刹那、剣が閃き、戦いが幕を開けた。


 ーーーーーーーーー

 今回は、ハクの人間の姿と楚湛言ソタンゲンとの戦いを描いたイラストを制作しました。ぜひご覧いただけたら嬉しいです!

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792436361389373

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