蠃ノ巻:魚身鳥翼、涙ヲ湖ニ沈ム
壱:雨をくぐりて、啼き聲ひとつ、碧に染む
泉は翡翠を思わせるほどに澄み、岩のあいだを静かに流れていた。朝の陽射しが水面に差し込み、きらきらと光が揺れて、まるで誰かが碧の盃に銀砂をひとつまみ落としたかのようだった。
目の前の光景を見た瞬間、彼の静寂は完全に崩れ去った。
「……お前、自分のこと『姫』とか言ってなかったか?そのわりに、恥ってもんを知らんのか。」
声は冷ややかで、まるでぬるま湯に冷水をぶっかけられたかのようなトーンだった。
振り返ることもなく、ひらりとひとこと飛んでくる。
「千年も生きてる妖怪が、いまさら何を純情ぶってんのよ。」
顔には涼やかな表情すら浮かべ、どこか山里の娘のような、清々しい仕草だった。
「ところで、あんた、猫になれる?」
「はぁ?」
「猫よ、猫。ふわふわで、ぴょこんとしっぽが一本、目が二つ。めっちゃ可愛いやつ。知らない?」
「……はぁ?」
それを見た
「けっこうです!わしは千年の妖。なぜその『
「『
「そうだ。で、わしが何ゆえ、あんなふわふわの小動物に化けねばならんのだ!?」
「でもさ、三本の尾に、ひとつ目……どう見ても
「……はぁ?」
「昨日、言ってたよね?酒の作り方、教えてくれるって!」
「……はぁ?」
「こっちはさ、こっそり宮から抜け出してきたんだよ?当然、お金なんて持ってない。だからちょっと考えて、服を売って資金にして、小さなお店でも買って――それで、酒屋さんを始めようと思ってるの!」
「一夜の縁かと思えば、逃亡劇に巻き込まれ……気づけば、町に店構えて、夢まで語りおるとは……展開が早すぎんか、人間よ……」
「当然でしょ?せっかく宮廷を抜け出したんだもん!好きなように――人生を謳歌しちゃおう!」
西山のふもとにある、小さな町だった。
坂をのぼりきった先に、曲がりくねった小路がのびていて、道の端には古びた軒先がぽつぽつと並んでいる。閉じられたままの店も多く、軒下の壺には雨水が溜まり、乾ききらない空気が重く漂っていた。
「ふむ……酒を売るには、ちと湿気がすぎるな。」
「でも、こういう場所こそ、温かいお酒が沁みるのよ!」
——夢は、大きく。
けれど現実は、あまりにも塩っ辛かった。
「……なんで、これっぽっち?」
店の軒先で、
宮中仕立ての織物に、金糸入りの刺繍。正直、自分でもちょっと惜しいと思ったくらいの一着だった。
それが——たったこれだけ?
「えっ、これ……正装用の外衣なんですけど?」
「うん、見りゃわかるけどな。けど最近、雨続きで祭も宴もないし、誰も買わんさ。」
交易屋の男は椅子にふんぞり返ったまま、爪の間の汚れをほじりながら、気だるげに答える。
「それに……こんな場所でそんな服、誰が着るんだ?正直、布地に染みでもついてたら、ほら、布としても使いにくくてさ……」
「……っ!」
蘅音は口を開きかけたが、ぐっと飲み込んだ。
さすがに「これは皇太后から贈られたやつです!」なんて言うわけにもいかない。
言ったら最後、どこかに連れ戻されるか、売り飛ばされるか、それとも口を封じられるか。
「……ありがと。もらってくわ。」
笑顔だけは残して、背筋を伸ばしてその場を離れた。
外に出た瞬間、空気はむわっと湿っていた。空はどんより、地面の石はじめじめ。道端の花もぐったりと項垂れている。
「……ふん、見る目ないにもほどがあるわね!」
人目のないところまで来た瞬間、
後ろからのっそりついてきた
「……まだ言うか。わしが『展開が早い』と言った意味、少しはわかったか?」
「わかるもんですかっ。だいたい、私の服があんなに安いなんて……っ」
雨がぽつ、ぽつと降り始めた。
「……ま、いいわ。屋根があって、水があって、麹さえ手に入れば、なんとかなるんだから!」
そう言って、彼女はその銅貨の袋を握りしめて、坂の下の貸家屋を目指して歩きだした。
そして数刻後、借りられたのは——壁に苔、床にひび、屋根はほぼ空と接しているという、想像以上の「古びた味わい」だった。
「……こ、これは……!」
「言ったであろう!」
「なにが?」
「展開が早い、とな!」
「……ほんっと、
そう言いながらも、
今の
……いや、猫にしては耳がちょっと大きすぎて、顔立ちもどこか犬っぽく、尻尾はふわっと太くて狐みたい。
結果として「猫と犬と狐の三つ巴」といった風情で、しかも体格がひとまわり小さくなっているから、不思議と違和感はなかった。
全身は銀白の毛に覆われ、遠目には町の子どもが飛びつきそうなほど、ふわふわで愛らしい。
——ただし。
額のど真ん中に、どっしり鎮座している第三の目さえなければ、の話だ。
「なにゆえ、この『
「いや、隠してよ!それがあるから、妖怪バレしちゃうの!」
「これは誇り高き『
「えっ……じゃあ、さっき私の顔をじーっと見てたときも……」
「当然、この目で見ておったが?」
「ぎゃーっ!超失礼なんですけどっ!?この視線、なんか心の奥まで突き刺さるってば!!」
屋根の補修がどうにか終わり、ふたりはようやく眠りにつこうとしていた。
その矢先——ぽつ、ぽつ、と。本当に、雨が降り始めた。
「……やっと寝ようと思ったのに。」
天井の隅からは、まだ直せていなかったひとところから、ぽとん、ぽとんと水が落ちていた。
「ちょっとだけ……あったかいほうが、寝やすいし……」
何も言わず、讙はもそりと尾を伸ばし、大きなふわふわの一枚を、蘅音の身体にふんわりかけた。
——それは、銀白の尾だった。
しばらくして。
雨の音と、屋根から伝う滴の音のあいだで——
ひときわ鋭い「啼き声」が聞こえた。
鳥のような、でも泣き声のような、そんな不思議な声。
「……なに、今の……?」
世界は、すべて「青」になっていた。
それは空でも海でもなく、まるでこの世の始まりに在った「水の記憶」だった。
光も音も、すべてが澄んでいて、遠くの泡までもが琴線に触れるように、ゆるやかに昇っていく。
泡の中には、まるで花のような鱗片が舞っていた。
それらは銀の風に撫でられながら、ひとつ、またひとつと、遥かな蒼穹へと消えてゆく。
やがて、泡の流れの彼方に、ひとつの影が見えた。
それは——魚の身に、鳥の翼を持つもの。
ひらいた翼は、水晶の羽のように透きとおり、
身体には青と銀の鱗が幾重にも重なり、
額には、涙のような模様が淡く光っていた。
目は、閉じていた。
まるで、夢のなかで眠る者のように。
その存在は、言葉にならぬ哀しみを湛えながら、
水の底で、静かに肩を震わせていた。
世界は青く、深く、そして美しかった。
その深さゆえに、触れられぬ哀しみが、そこにはあった。
泡の中、指先にすら届かぬほどの距離に。
けれど確かに、そこに「誰か」が、泣いていた。
——あの、ひとつ目と三つ尾の妖とはまるで違う、
けれどどこか、同じ孤独を背負ったものの気配だった。
「……あなた、誰……?」
その声は、泡の粒に溶けて、
どこまでも、ゆったりと消えていった。
ーーーーーーーーーー
①「猫=九命の妖」とする設定は、山海経の記述に基づくものではなく、筆者の創作によるものです。この発想には、以下の二つの文化的背景が影響しています:
・英語圏に伝わることわざ:
“A cat has nine lives. For three he plays, for three he strays, and for the last three he stays.”
訳:猫には九つの命がある。三つは遊び、三つはさまよい、最後の三つで落ち着く。
・中国でも「猫には九つの命がある」という伝承があり、「猫有九命,系通、灵、静、正、覺、光、精、气、神。」という記述も伝えられています。
訳:猫には九つの命があり、それぞれ通・霊・静・正・覚・光・精・気・神に通じるとされる。
②
『山海経・中山経』に曰く:邽山,蒙水出焉,南流注於洋水,其中多黃貝;蠃魚,魚身而鳥翼,音如鴛鴦,見則其邑大水。
——すなわち、蠃魚とは「魚の身体に鳥の翼を持ち、鳴き声は鴛鴦のよう」とされる幻獣であり、現れると洪水の前兆とされていました。
イメージはこちら:
https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818622177414865560
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