蠃ノ巻:魚身鳥翼、涙ヲ湖ニ沈ム

壱:雨をくぐりて、啼き聲ひとつ、碧に染む

 泉は翡翠を思わせるほどに澄み、岩のあいだを静かに流れていた。朝の陽射しが水面に差し込み、きらきらと光が揺れて、まるで誰かが碧の盃に銀砂をひとつまみ落としたかのようだった。


 カンは岸辺の岩に腰を下ろし、三本の尾をゆるやかに揺らしながら、片目を細めて日向ぼっこを楽しんでいた――そのはずだったのだが。


 目の前の光景を見た瞬間、彼の静寂は完全に崩れ去った。


「……お前、自分のこと『姫』とか言ってなかったか?そのわりに、恥ってもんを知らんのか。」


 声は冷ややかで、まるでぬるま湯に冷水をぶっかけられたかのようなトーンだった。


 蘅音コウインはというと、飾りのついた外衣だけをひょいと脱ぎ、白布のひとえ姿のまま水際にしゃがみこむと、しゃばしゃばと手際よく裾を洗いはじめた。

 振り返ることもなく、ひらりとひとこと飛んでくる。


「千年も生きてる妖怪が、いまさら何を純情ぶってんのよ。」


 顔には涼やかな表情すら浮かべ、どこか山里の娘のような、清々しい仕草だった。


「ところで、あんた、猫になれる?」


「はぁ?」


 カンの耳がぴくりと動き、尾が一瞬ピタリと止まる。


「猫よ、猫。ふわふわで、ぴょこんとしっぽが一本、目が二つ。めっちゃ可愛いやつ。知らない?」


「……はぁ?」


 蘅音コウインは地面に落ちていた枝を拾い上げて、しゃがみ込んだかと思うと、丸い顔にちょんちょんと耳、ぴょこんと短いしっぽを描きはじめた。しかも、わざわざ「目」って文字まで書き添えている。


 それを見たカンの三本の尾が、ぞわっと総毛立った。まるでひげを引っ張られた猫のように。


「けっこうです!わしは千年の妖。なぜその『九命キュウメイ』ごときに化けねばならん!」


「『九命キュウメイ』って猫のことなの?えっ、猫って妖怪だったの!?」


「そうだ。で、わしが何ゆえ、あんなふわふわの小動物に化けねばならんのだ!?」


 蘅音コウインはふっと笑って、カンのそばに寄り、ひょいっと尾の一本に手を伸ばしたが――ぴしゃりと叩かれて撃退された。


「でもさ、三本の尾に、ひとつ目……どう見てもヨウじゃん。このまま町に入ったら、大騒ぎになるでしょ?」


「……はぁ?」


「昨日、言ってたよね?酒の作り方、教えてくれるって!」


「……はぁ?」


「こっちはさ、こっそり宮から抜け出してきたんだよ?当然、お金なんて持ってない。だからちょっと考えて、服を売って資金にして、小さなお店でも買って――それで、酒屋さんを始めようと思ってるの!」


 蘅音コウインは洗い終わった服を一枚ずつ持ち上げて、石の上に広げながら、次々と陽の当たる場所に並べていく。朝の光を浴びたその横顔は、まるでこれからの未来までも照らしているかのようだった。


 カンはその様子を、しばらく無言で見つめていた。三本の尾も、いつの間にかぴたりと動きを止めていた。


「一夜の縁かと思えば、逃亡劇に巻き込まれ……気づけば、町に店構えて、夢まで語りおるとは……展開が早すぎんか、人間よ……」


 蘅音コウインは髪を耳にかけ、にこっと笑って振り向いた。


「当然でしょ?せっかく宮廷を抜け出したんだもん!好きなように――人生を謳歌しちゃおう!」


 西山のふもとにある、小さな町だった。

 坂をのぼりきった先に、曲がりくねった小路がのびていて、道の端には古びた軒先がぽつぽつと並んでいる。閉じられたままの店も多く、軒下の壺には雨水が溜まり、乾ききらない空気が重く漂っていた。


「ふむ……酒を売るには、ちと湿気がすぎるな。」


 カンがぽつりと呟くと、蘅音コウインは抱えていた包みをぎゅっと持ち直し、元気に返した。


「でも、こういう場所こそ、温かいお酒が沁みるのよ!」


 ——夢は、大きく。

 けれど現実は、あまりにも塩っ辛かった。


「……なんで、これっぽっち?」


 店の軒先で、蘅音コウインは袋の口を覗き込み、銅貨が数枚カランと鳴る音に、絶句していた。


 宮中仕立ての織物に、金糸入りの刺繍。正直、自分でもちょっと惜しいと思ったくらいの一着だった。

 それが——たったこれだけ?


「えっ、これ……正装用の外衣なんですけど?」


「うん、見りゃわかるけどな。けど最近、雨続きで祭も宴もないし、誰も買わんさ。」

 交易屋の男は椅子にふんぞり返ったまま、爪の間の汚れをほじりながら、気だるげに答える。

「それに……こんな場所でそんな服、誰が着るんだ?正直、布地に染みでもついてたら、ほら、布としても使いにくくてさ……」


「……っ!」

 蘅音は口を開きかけたが、ぐっと飲み込んだ。

 さすがに「これは皇太后から贈られたやつです!」なんて言うわけにもいかない。


 言ったら最後、どこかに連れ戻されるか、売り飛ばされるか、それとも口を封じられるか。


「……ありがと。もらってくわ。」


 笑顔だけは残して、背筋を伸ばしてその場を離れた。


 外に出た瞬間、空気はむわっと湿っていた。空はどんより、地面の石はじめじめ。道端の花もぐったりと項垂れている。


「……ふん、見る目ないにもほどがあるわね!」


 人目のないところまで来た瞬間、蘅音コウインはぷんと頬をふくらませ、袋をブンブン振ってみせた。


 後ろからのっそりついてきたカンが、ため息まじりにぽつり。


「……まだ言うか。わしが『展開が早い』と言った意味、少しはわかったか?」


「わかるもんですかっ。だいたい、私の服があんなに安いなんて……っ」


 雨がぽつ、ぽつと降り始めた。


「……ま、いいわ。屋根があって、水があって、麹さえ手に入れば、なんとかなるんだから!」


 そう言って、彼女はその銅貨の袋を握りしめて、坂の下の貸家屋を目指して歩きだした。


 そして数刻後、借りられたのは——壁に苔、床にひび、屋根はほぼ空と接しているという、想像以上の「古びた味わい」だった。


「……こ、これは……!」

「言ったであろう!」


「なにが?」

「展開が早い、とな!」


「……ほんっと、カンは、ぜんっぜん可愛くないんだ!」

 そう言いながらも、蘅音コウインは思わず目を細めてしまう。


 今のカンは、人間の目をごまかすため、「猫」を模した姿に化けていた。

 ……いや、猫にしては耳がちょっと大きすぎて、顔立ちもどこか犬っぽく、尻尾はふわっと太くて狐みたい。

 結果として「猫と犬と狐の三つ巴」といった風情で、しかも体格がひとまわり小さくなっているから、不思議と違和感はなかった。

 全身は銀白の毛に覆われ、遠目には町の子どもが飛びつきそうなほど、ふわふわで愛らしい。

 ——ただし。

 額のど真ん中に、どっしり鎮座している第三の目さえなければ、の話だ。


「なにゆえ、この『識眼シキガン』まで隠せと申す……!」

「いや、隠してよ!それがあるから、妖怪バレしちゃうの!」


「これは誇り高き『識眼シキガン』ぞ!魂を識り、偽りを見抜く目なれば!実際、物を見るのもこれひとつじゃ!」

「えっ……じゃあ、さっき私の顔をじーっと見てたときも……」


「当然、この目で見ておったが?」

「ぎゃーっ!超失礼なんですけどっ!?この視線、なんか心の奥まで突き刺さるってば!!」


 屋根の補修がどうにか終わり、ふたりはようやく眠りにつこうとしていた。

 その矢先——ぽつ、ぽつ、と。本当に、雨が降り始めた。


「……やっと寝ようと思ったのに。」

 天井の隅からは、まだ直せていなかったひとところから、ぽとん、ぽとんと水が落ちていた。


 カンは部屋の隅で丸くなっていたが、寒さに肩をすくめた蘅音コウインが、そろそろとその隣に近づいてくる。

「ちょっとだけ……あったかいほうが、寝やすいし……」


 何も言わず、讙はもそりと尾を伸ばし、大きなふわふわの一枚を、蘅音の身体にふんわりかけた。

 ——それは、銀白の尾だった。


 しばらくして。

 雨の音と、屋根から伝う滴の音のあいだで——

 ひときわ鋭い「啼き声」が聞こえた。


 鳥のような、でも泣き声のような、そんな不思議な声。


「……なに、今の……?」


 蘅音コウインがそっと目を開けたその瞬間——

 世界は、すべて「青」になっていた。


 それは空でも海でもなく、まるでこの世の始まりに在った「水の記憶」だった。

 光も音も、すべてが澄んでいて、遠くの泡までもが琴線に触れるように、ゆるやかに昇っていく。


 泡の中には、まるで花のような鱗片が舞っていた。

 それらは銀の風に撫でられながら、ひとつ、またひとつと、遥かな蒼穹へと消えてゆく。


 やがて、泡の流れの彼方に、ひとつの影が見えた。


 それは——魚の身に、鳥の翼を持つもの。


 ひらいた翼は、水晶の羽のように透きとおり、

 身体には青と銀の鱗が幾重にも重なり、

 額には、涙のような模様が淡く光っていた。


 目は、閉じていた。


 まるで、夢のなかで眠る者のように。


 その存在は、言葉にならぬ哀しみを湛えながら、

 水の底で、静かに肩を震わせていた。


 世界は青く、深く、そして美しかった。

 その深さゆえに、触れられぬ哀しみが、そこにはあった。


 蘅音コウインはただ、立ち尽くしていた。


 泡の中、指先にすら届かぬほどの距離に。

 けれど確かに、そこに「誰か」が、泣いていた。


 ——あの、ひとつ目と三つ尾の妖とはまるで違う、

 けれどどこか、同じ孤独を背負ったものの気配だった。


「……あなた、誰……?」


 その声は、泡の粒に溶けて、

 どこまでも、ゆったりと消えていった。


 ーーーーーーーーーー

 ①「猫=九命の妖」とする設定は、山海経の記述に基づくものではなく、筆者の創作によるものです。この発想には、以下の二つの文化的背景が影響しています:

 ・英語圏に伝わることわざ:

 “A cat has nine lives. For three he plays, for three he strays, and for the last three he stays.”

 訳:猫には九つの命がある。三つは遊び、三つはさまよい、最後の三つで落ち着く。

 ・中国でも「猫には九つの命がある」という伝承があり、「猫有九命,系通、灵、静、正、覺、光、精、气、神。」という記述も伝えられています。

 訳:猫には九つの命があり、それぞれ通・霊・静・正・覚・光・精・気・神に通じるとされる。


 ②蠃魚ラギョ(luǒ yú)について


『山海経・中山経』に曰く:邽山,蒙水出焉,南流注於洋水,其中多黃貝;蠃魚,魚身而鳥翼,音如鴛鴦,見則其邑大水。

 邽山ケイザン蒙水モウスイ出づ。南に流れて洋水に注ぐ。中に黄貝多し。蠃魚ラギョあり。魚の身にして鳥の翼あり。音は鴛鴦エンオウのごとし。これを見るとき、その邑に大水あり。


 ——すなわち、蠃魚とは「魚の身体に鳥の翼を持ち、鳴き声は鴛鴦のよう」とされる幻獣であり、現れると洪水の前兆とされていました。


 イメージはこちら:

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818622177414865560

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