【第一部完結】百妖百酒、ただひとり酌むは音なり

栗パン

讙ノ巻:一目三尾、聲ヲ百ニ裂ク

壱:聲を喰む妖、いま目覚める

 春の水が、わずかに溢れはじめる頃。

 宮の一角、桃花モモノハナはまだ散りきっていなかった。


 ひとりの姿が、宙に浮かんだまま——上にも行けず、下にも降りられずにいた。


「……今回は、本当に降りられなくなっちゃった。」


 蘅音コウインは、ふさふさ房のついた小さな絹巾ケンキンを握りしめ、ノキの端に情けなくへばりついていた。片方の繍鞋シュウカはもう滑り落ちて、木の枝でぷらぷら揺れている。まるで別れを告げるように。


 その下は、冷たく硬い御苑ギョエン青磚セイガン。落ちたら、軽ければ擦り傷、重ければ「宮に戻ってお叱り」だ。


 彼女は、明るい黄色の襦裙ジュクンを身につけていた。裾には春のツバメと青き蓮の刺繍が施され、歩くたび水面が揺れるようだった。上は薄い桜色の薄衣ウスギヌ。襟元には紅纓草コウエイソウと舞う花蝶カチョウの模様が丁寧に縫い込まれていた。

 袖口は軽く絞られ、白い腕を引き立てるが、指先はほんのり赤い。カベ登りで擦ったのだろう。


 腰には青梅色の柔らかな綃帯ショウタイを巻き、そこに半開きの香囊コウノウが結ばれていた。中には彼女がこっそり調合した柚子皮ユズカワと干した梅。宮中の規則にはそぐわないが——彼女のお気に入りの香りだった。


 絶世の美女とは言えないが、見ていてつい笑みがこぼれるような顔立ち。杏花キョウカのようにほころぶ瞳、紅い唇と白い歯。ふと笑えば、頬に淡いエクボが花のように咲く。


 だが今、その瞳にはカベへの文句しかなかった。


「まったく……お前ら壁ってやつはさ……」彼女はぼそりと呟いた。「外ではカゼが泣いてるのに、まだ私を閉じ込めるつもり?」


 彼女の耳に届いていたのは、カゼでもトリでもなかった。それはずれた声の啼声ナキゴエ。誰かが耳元で泣いているようでもあり、古井フルイの底でケモノが唸っているようでもあった。


「……みんなには、聞こえないんだろうね……」独りごちた。

 その背後では、侍女ジジョの呼ぶ声が次第に近づいていた。


 彼女は小さくため息をつき、そっと呟く。「仕方ないよね。こういう声って、『時を間違えて生まれた人』にしか、聞こえないから。」


 ふいに、足を踏み外した。

 蘅音コウインの身体はふわりと宙に浮かび、そのまま軽やかに飛んでいった。


 耳元で風の音が一気に強まり、裾がひるがえる。「助けて」と叫ぶ間もなく——

 「ドスン!」


 彼女は、鬱蒼とした潅木カンボクの茂みへ真っ逆さまに落ちた。松の針が頬を刺し、花の枝が耳をかすめる。髪はぐちゃぐちゃ、繍鞋シュウカもどこかへ飛んでいった。骨という骨が、バラバラになった気分だった。


 「……うぅ……」

 よろよろと膝をさすりながら、蘅音コウインは身を起こした。


 ——ここ、御花園ギョカエンじゃない。ましてやどこかの妃の庭とも思えない。あまりにも静かすぎる。鳥の声もせず、木々は異様に背が高い。霧が糸のように漂い、ぼんやりと奇妙なマツの枝ぶりが浮かんでいた。ねじれた枝は、まるで骨のようだった。


 「……わたし、どこまで登ってたの……?」


 外れかけたカンザシを拾い、ふと後ろを振り向く。そこには高い城壁ジョウヘキがそびえており、屋根飾りの欠片が斜めに突き刺さっていて、風が吹くたびにカラカラと音を立てた。


 落ちてきた場所は——西苑禁林セイエンキンリン

「死者は骨に還り、神と妖の境が溶ける」と伝えられる、宮城西側の封じられた地。


「……おわったわ……ほんとにおわった……」


 そのとき——空から、軽やかな笑い声が響いた。

「クスクス……クス、クスクス……」


 子どものようでもあり、鳥のさえずりのようでもあった。見上げれば、そこにはふわふわと浮かぶ小さな白い塊たち。指先ほどの大きさで、霧のなかをふわふわと漂っている。尻尾のように細い糸を引き、ハネか綿毛のように軽やかに舞っていた。


 中には跳ねたり、逆さに飛んだり、彼女の周りをくるくる回る者もいた。どれも楽しげに「クスクス」と笑っていて、まるで彼女の「落下」がよほど可笑しかったかのようだった。


「あなたたち……何者なの?」


 蘅音コウインは思わず手を伸ばした。そのうちのひとつに触れた瞬間——

「ぽんっ」と音を立てて弾け、細やかな光の輪となり、すぐまた空中に再び集まった。まるで実体などなく、音だけの精霊のようだった。


 見たこともないヨウ

 なのに、なぜだろう——怖くなかった。

 むしろその時、彼女の心は、宮中のどんなときよりも静かだった。


「……案内してくれてるの?」


 そうつぶやいた彼女が顔を上げると、霧の向こう、林の奥に音がした。

 百の獣がうねるような、遠くの響き。風が流れ、白い小妖ショウヨウたちもまた、一匹ずつその方へと導かれるように漂っていく。


 蘅音コウインカンザシを拾い上げ、乱れた髪をかき上げ、片足裸足のまま立ち上がった。

 香囊コウノウは草むらに落ちたままだが、もう拾おうとはしなかった。

 柔らかな土を踏みしめながら、彼女はゆっくりと、笑い声をたどって、深い霧の中へと歩き出した。


 林の中は、霧がさらに濃くなっていた。まるで音のない水が、草や木の根元を浸し、すべてを銀白に染めてゆくかのようだった。


「ここって……もしかして、あのあやかしが封じられてる場所……?」


 そう呟いた瞬間、前方から、低く唸るような音が響いた。

 鳥でもない。風でもない。

 百の獣が一斉に声を上げるような……あるいは、誰かが夢の中で、ひとり歌っているような——


 蘅音コウインは足を止め、耳をそっと傾けた。


「この声……」


 それは、生き物の声ではなかった。骨の奥に沈んで、声の殻に封じられた、記憶のような音。


 彼女は棘のある蔓をかき分けた。

 すると、林の奥がふいに開けて、小さな空き地が現れた。その中央には、巨大な岩がひとつ。

 岩の表面には、古びた呪文と朱砂の痕が複雑に刻まれていた。


 呪文の隙間に、細い裂け目。そこから微かな光が滲み出している。


「……ここが、声の出どころ?」


 そっと近づくと、その音は急に輪郭を帯びてくる。虎の咆哮のようでもあり、赤子の泣き声のようでもあり、いくつもの音が重なり合っていた。


「おまえは……森の番人ではないな。」

 霧の奥から、低く響く声が届いた。


 蘅音コウインは驚いて振り返った。


 岩の背後から、奇妙なヨウがゆっくりと姿を現した。


 銀灰の毛並みに、地を引きずる三本の尾。額には、ひとつだけ閉じられた目が静かに垂れている。

 大きな体はわずかに屈み、蔓が半ば朽ちたまま巻きついていた——まるで千年の眠りからまだ覚めぬように。


「……あなたは誰?」蘅音コウインは思わず口にした。


 ヨウは答えず、ただじっと彼女を見つめた。


 次の瞬間——空気がかすかに震え、奇妙な「響き」がその体から放たれた。


 それは口から出た声ではなかった。

 胸の奥、骨の髄、身体のすべてから、直接世界に放たれた「心の音」。


 百の獣が駆け、遥かな昔の歌が断片のまま蘇る——けれど途切れ、つかえている。


「……聞こえるのか。」

 ヨウは、風のような声でそう言った。


 蘅音コウインは、少し間を置いて、うなずいた。

「……なんだか、泣きたい音だった。」


 その言葉に、ヨウの肩が、わずかに震えた。


「……その歌は、子どものころに習ったものだ。

 わたしは、ある人間の妖獣ヨウジュウだった。あの人は、妖を斬らない御妖師ギョヨウシ

『おまえの声は、心を清める』って言ってくれて、村のはずれで歌わせてくれた。病の人を慰めるために、ってね。

 その歌も、彼が教えてくれた。ずっとそれを歌ってれば、誰にも怖がられないって……」


 ヨウは、ふっと笑った。けれどそれは、どこかため息に似ていた。


「でも……戦が始まって、傷だらけで彷徨って……声も、狂っていった。

『妖の百声が集えば、妖軍の兆』『災いを招く獣だ』って言われて、

 ——歌っている最中に、封じられたんだ。」


 静かに語ったあと、彼は額の一つ目を、そっと閉じた。


「長く……歌いすぎた。もう、詞も忘れてしまったし、音も出せなくなった。」


 蘅音コウインは黙って話を聞いていたが、ふと、腰のあたりを探った。


「これ……祖父の形見なんです。」


 手にしたのは、小さな酒壺だった。


「お酒、飲めないんですけど……子どもの頃泣くたびに、祖父がこう言ってたんです。『悲しい時は、ひとりでいいから、一杯だけ、心と仲直りするために飲みなさい。』って。」


 彼女は壺の栓を外した。古い香りが、やさしく漂う。


「……あなたも、ひとくちどうですか?悲しみを消せるかわからないけど、

 でも——もしよければ、その歌……最後まで、聞かせてくれませんか?」


 ヨウはしばらく彼女を見つめていたが、やがて、かすかに笑った。


「……おまえ、わたしが目一つなの、怖くないのか?」


「だって、わたしも——あなたの歌が聞こえる耳、一つしかないんです。」


 彼女は酒壺を差し出した。ヨウは一瞬ためらいながらも、静かに口をつけた。


 次の瞬間——風が、止まった。

 閉じていた金の瞳が、ゆっくりと開く。まるで夜空に、満月が昇るように。

 彼の体から——胸から、尾の先から、封じられた旋律が一気に放たれた。


 それは音ではなかった。

 世界そのものが、返事をしたような響きだった。


 木の葉がふるえ、鳥たちがさえずり、霧がやさしく舞い上がる。

 空に、旋律のような紋が描かれ、世界が……少しだけ、泣いて、微笑んだ。


 ——それは、未完の歌だった。

 ようやく、最後まで歌い終えた。


 人か、妖か——その境など、どこにあるというのだろう。

 善と悪も、正と誤も、もとより一念の揺らぎにすぎぬ。

 かつて友だったものが、ある日敵となり、

 手を取り合った者が、時に刃を交える。

 封じられたのは、力ではない。

 あまりに優しかった心、そのものだ。

 ゆえにその歌は、今日まで誰にも届かなかった。

 ずっと、誰かが聴いてくれるのを、待っていた。


 ーーーーーーーーーーーー

 後書き:

 これは、『山海経サンガイキョウ西山経セイザンキョウ』に記された、ある妖の物語。

「西水行百里,至於翼望之山,無草木,多金玉。有獸焉,其狀如狸,一目而三尾,名曰讙,其音如百聲,是可以御凶,服之已癘。」

 西水セイスイを百里ほど進むと、翼望山ヨクボウザンという山に至る。そこには草木がなく、金や玉が多くある。そこに棲む「カン」という妖獣は、タヌキに似て一つ目三尾。その声は百の獣のように響き、凶を祓い、疫病すら癒すと伝えられている。


 この巻に登場した妖——その正体が、この「カン」である。


 「聲を喰む妖、いま目覚める」

 この「聲を喰む」という表現は、「百の聲を内に宿しながらも、それを放てずにいた存在」を示す比喩です。


 声を持ちながら、声を失った者。

 癒しのために生まれた歌が、時に怖れられることもある。

 けれど、誰かひとりにでも届いたとき——その聲は、ようやく世界に還る。

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