【第一部完結】百妖百酒、ただひとり酌むは音なり
栗パン
讙ノ巻:一目三尾、聲ヲ百ニ裂ク
壱:聲を喰む妖、いま目覚める
春の水が、わずかに溢れはじめる頃。
宮の一角、
ひとりの姿が、宙に浮かんだまま——上にも行けず、下にも降りられずにいた。
「……今回は、本当に降りられなくなっちゃった。」
その下は、冷たく硬い
彼女は、明るい黄色の
袖口は軽く絞られ、白い腕を引き立てるが、指先はほんのり赤い。
腰には青梅色の柔らかな
絶世の美女とは言えないが、見ていてつい笑みがこぼれるような顔立ち。
だが今、その瞳には
「まったく……お前ら壁ってやつはさ……」彼女はぼそりと呟いた。「外では
彼女の耳に届いていたのは、
「……みんなには、聞こえないんだろうね……」独りごちた。
その背後では、
彼女は小さくため息をつき、そっと呟く。「仕方ないよね。こういう声って、『時を間違えて生まれた人』にしか、聞こえないから。」
ふいに、足を踏み外した。
耳元で風の音が一気に強まり、裾がひるがえる。「助けて」と叫ぶ間もなく——
「ドスン!」
彼女は、鬱蒼とした
「……うぅ……」
よろよろと膝をさすりながら、
——ここ、
「……わたし、どこまで登ってたの……?」
外れかけた
落ちてきた場所は——
「死者は骨に還り、神と妖の境が溶ける」と伝えられる、宮城西側の封じられた地。
「……おわったわ……ほんとにおわった……」
そのとき——空から、軽やかな笑い声が響いた。
「クスクス……クス、クスクス……」
子どものようでもあり、鳥のさえずりのようでもあった。見上げれば、そこにはふわふわと浮かぶ小さな白い塊たち。指先ほどの大きさで、霧のなかをふわふわと漂っている。尻尾のように細い糸を引き、
中には跳ねたり、逆さに飛んだり、彼女の周りをくるくる回る者もいた。どれも楽しげに「クスクス」と笑っていて、まるで彼女の「落下」がよほど可笑しかったかのようだった。
「あなたたち……何者なの?」
「ぽんっ」と音を立てて弾け、細やかな光の輪となり、すぐまた空中に再び集まった。まるで実体などなく、音だけの精霊のようだった。
見たこともない
なのに、なぜだろう——怖くなかった。
むしろその時、彼女の心は、宮中のどんなときよりも静かだった。
「……案内してくれてるの?」
そうつぶやいた彼女が顔を上げると、霧の向こう、林の奥に音がした。
百の獣がうねるような、遠くの響き。風が流れ、白い
柔らかな土を踏みしめながら、彼女はゆっくりと、笑い声をたどって、深い霧の中へと歩き出した。
林の中は、霧がさらに濃くなっていた。まるで音のない水が、草や木の根元を浸し、すべてを銀白に染めてゆくかのようだった。
「ここって……もしかして、あのあやかしが封じられてる場所……?」
そう呟いた瞬間、前方から、低く唸るような音が響いた。
鳥でもない。風でもない。
百の獣が一斉に声を上げるような……あるいは、誰かが夢の中で、ひとり歌っているような——
「この声……」
それは、生き物の声ではなかった。骨の奥に沈んで、声の殻に封じられた、記憶のような音。
彼女は棘のある蔓をかき分けた。
すると、林の奥がふいに開けて、小さな空き地が現れた。その中央には、巨大な岩がひとつ。
岩の表面には、古びた呪文と朱砂の痕が複雑に刻まれていた。
呪文の隙間に、細い裂け目。そこから微かな光が滲み出している。
「……ここが、声の出どころ?」
そっと近づくと、その音は急に輪郭を帯びてくる。虎の咆哮のようでもあり、赤子の泣き声のようでもあり、いくつもの音が重なり合っていた。
「おまえは……森の番人ではないな。」
霧の奥から、低く響く声が届いた。
岩の背後から、奇妙な
銀灰の毛並みに、地を引きずる三本の尾。額には、ひとつだけ閉じられた目が静かに垂れている。
大きな体はわずかに屈み、蔓が半ば朽ちたまま巻きついていた——まるで千年の眠りからまだ覚めぬように。
「……あなたは誰?」
次の瞬間——空気がかすかに震え、奇妙な「響き」がその体から放たれた。
それは口から出た声ではなかった。
胸の奥、骨の髄、身体のすべてから、直接世界に放たれた「心の音」。
百の獣が駆け、遥かな昔の歌が断片のまま蘇る——けれど途切れ、つかえている。
「……聞こえるのか。」
「……なんだか、泣きたい音だった。」
その言葉に、
「……その歌は、子どものころに習ったものだ。
わたしは、ある人間の
『おまえの声は、心を清める』って言ってくれて、村のはずれで歌わせてくれた。病の人を慰めるために、ってね。
その歌も、彼が教えてくれた。ずっとそれを歌ってれば、誰にも怖がられないって……」
「でも……戦が始まって、傷だらけで彷徨って……声も、狂っていった。
『妖の百声が集えば、妖軍の兆』『災いを招く獣だ』って言われて、
——歌っている最中に、封じられたんだ。」
静かに語ったあと、彼は額の一つ目を、そっと閉じた。
「長く……歌いすぎた。もう、詞も忘れてしまったし、音も出せなくなった。」
「これ……祖父の形見なんです。」
手にしたのは、小さな酒壺だった。
「お酒、飲めないんですけど……子どもの頃泣くたびに、祖父がこう言ってたんです。『悲しい時は、ひとりでいいから、一杯だけ、心と仲直りするために飲みなさい。』って。」
彼女は壺の栓を外した。古い香りが、やさしく漂う。
「……あなたも、ひとくちどうですか?悲しみを消せるかわからないけど、
でも——もしよければ、その歌……最後まで、聞かせてくれませんか?」
「……おまえ、わたしが目一つなの、怖くないのか?」
「だって、わたしも——あなたの歌が聞こえる耳、一つしかないんです。」
彼女は酒壺を差し出した。
次の瞬間——風が、止まった。
閉じていた金の瞳が、ゆっくりと開く。まるで夜空に、満月が昇るように。
彼の体から——胸から、尾の先から、封じられた旋律が一気に放たれた。
それは音ではなかった。
世界そのものが、返事をしたような響きだった。
木の葉がふるえ、鳥たちがさえずり、霧がやさしく舞い上がる。
空に、旋律のような紋が描かれ、世界が……少しだけ、泣いて、微笑んだ。
——それは、未完の歌だった。
ようやく、最後まで歌い終えた。
人か、妖か——その境など、どこにあるというのだろう。
善と悪も、正と誤も、もとより一念の揺らぎにすぎぬ。
かつて友だったものが、ある日敵となり、
手を取り合った者が、時に刃を交える。
封じられたのは、力ではない。
あまりに優しかった心、そのものだ。
ゆえにその歌は、今日まで誰にも届かなかった。
ずっと、誰かが聴いてくれるのを、待っていた。
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後書き:
これは、『
「西水行百里,至於翼望之山,無草木,多金玉。有獸焉,其狀如狸,一目而三尾,名曰讙,其音如百聲,是可以御凶,服之已癘。」
この巻に登場した妖——その正体が、この「
「聲を喰む妖、いま目覚める」
この「聲を喰む」という表現は、「百の聲を内に宿しながらも、それを放てずにいた存在」を示す比喩です。
声を持ちながら、声を失った者。
癒しのために生まれた歌が、時に怖れられることもある。
けれど、誰かひとりにでも届いたとき——その聲は、ようやく世界に還る。
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