煮込みうどんと光の格闘
**黒瀬智哉(くろせともや)**は、新居の二階、書斎と定めた部屋で、薄く汗をかいていた。
午前六時。奈良県生駒市の穏やかな朝日に、彼の背後の窓ガラスがぼんやりと光っている。大阪の喧騒を離れ、この静かな一戸建てに引っ越してきたのは、小説家という新たな「キャリア」に集中するためだ。しかし、その第一歩は、小説の執筆ではなく、たった一本の光ケーブルとの格闘から始まった。
「フム……」
昨日、ようやく光回線の開通工事が完了した。メインのデスクトップPC、GALLERIA(ガレリア)の背面には、回線事業者からレンタルされた黒い箱――光信号をデジタル信号に変換するONU(光回線終端装置)――が直接LANケーブルで繋がれている。
インターネットへの接続は可能になった。だが、これで全てが解決したわけではない。
智哉は元天才SEだ。彼にとって、この「モデム直結」の状態は、高速道路のど真ん中に自転車で乗り出すような、不安定で不完全な状態に他ならなかった。
第一に、Wi-Fiがないため、妻帯者ではないにせよ、スマートフォンやノートPCといった他の端末がネットに繋がらない。
第二に、そしてこれが最も重要な問題だが、現在の光回線の主流は、従来の**PPPoE(ピーピーピーオーイー)方式よりも混雑に強いIPv6 IPoE(アイピーブイシックス・アイピーオーイー)**という最新の接続方式に移行しつつある。ルーターを介さずONU単体で接続した場合、IPv6に対応した一部のウェブサイトへのアクセスが途切れがちになり、まるで砂地を歩いているような不安定な通信環境になるのだ。
新しいプロバイダー、So-netからレンタルされる予定のWi-Fiルーターは、まだこの家には届いていない。
「待つ、か」
智哉は溜息をついた。小説家を目指す身とはいえ、元SEの血が騒ぐ。「待てば海路の日和あり」という言葉は、彼にとっては「待つ間に問題を解決できる」と同義だ。
彼の視線は、部屋の隅に置かれた段ボール箱に向けられた。その中に、旧プロバイダー、eo光からレンタルしていたWi-Fiルーターが鎮座している。
『So-netのルーターが届くまで、このeo光のルーターを流用することはできないか?』
今回の「IT実験」のテーマである。本来、これは特殊な設定が必要な「裏技」であり、普通はやらない。だが、それができるかできないか――その探求こそが、彼の喜びだった。
「さて、腹ごしらえだ」
時刻は午前九時。智哉は立ち上がり、実験を一時中断した。一階のリビングへ降りると、昨日の鍋の残りの出汁が、鰹と醤油の香りを立たせながら煮立っている。その出汁で煮込んだうどんを、智哉は熱いまま啜り込んだ。
(よし、エネルギー充填完了だ)
胃袋が満たされると、頭の中のパズルも整理される。彼は再び二階へ戻り、作業を再開した。
まずPC側、Windows11の設定を確認。ネットワーク設定は自動取得になっている。問題ない。
次に、接続だ。物理的なケーブル配線を整える。
『外部光回線 → ONU → ルーター → GALLERIA』
智哉は、ONUとルーター、そしてPCの電源をすべて落とした。この三者を正しい順番で立ち上げるのは、ネットワーク機器を安定させるための、SEにとっては儀式のような作業だ。
1.まず、ONUだけコンセントに差す。
2.数分、じっと待つ。光回線の信号を捉え、ランプが緑に点灯するのを待つ。
3.次に、ルーターのコンセントを差す。
4.さらに数分待機。ルーターのWANポート(広域ネットワーク接続口)に、ONUから伸びたケーブルを差し込む。
5.最後に、GALLERIAの電源を入れる。
物理的な配線は完璧だ。ルーターの裏側、**WAN(広域網)**と印字されたポートに光回線が、LAN4(宅内ネットワーク)と印字された高速ポートにPCが繋がっている。
この時点で、Wi-Fiルーターの無線電波は飛んでいる。しかし、それはインターネットという大海に繋がっていない、ただのプライベートな水たまりだ。
(最終工程だ)
智哉は竹串を手に取った。eo光のルーターの背面にある、工場出荷状態に戻すための小さなリセットボタンを、竹串の先で五秒から十秒、押し込む。
カチッ。
ルーターのランプが一斉に緑に点滅した後、アラームのように激しく赤く点滅を始めた。これは、ルーターが初期設定を待つ状態になったことを示している。
「これで下準備は整った」
智哉は、GALLERIAのブラウザを立ち上げた。この後、ルーターの初期設定画面にアクセスし、新プロバイダーであるSo-netの接続IDとパスワードを入力すれば、一時的にネット接続が確立するはずだった。
ところが、作業を再開した瞬間、予想外のトラブルが氷山のように浮上し始めた。
「まったく――。次々と新たな問題が浮上していく」
智哉は、元天才SEとしての探求心と、現状への焦燥感が混ざり合った、複雑な感情を味わっていた。一つ一つ原因を究明して問題を突き止めるこの作業は、かつてのプログラミングのデバッグ作業に似ており、どこか楽しかったりもする。
結論から言えば、旧プロバイダー(eo光)のレンタルWi-Fiルーターで、新プロバイダー(So-net)の光回線に接続することはできなかった。
本来は可能なはずだ。市販のルーターと同じように、設定を書き換えればいい。だが、できなかった。
智哉の額に、最初の疑問符が浮かび上がる。
「何故だ?」
彼はPCの設定を精査した。コマンドプロンプトでipconfigを叩く。その瞬間、かつての記憶が、凍った水面を破るように脳裏に蘇った。
(そうか! これだ!)
原因は、以前、彼はGALLERIAとレーザープリンターをローカル接続するために、ルーターではなくPC側のゲートウェイIPアドレスを手動で固定設定していたことだった。その設定が、ルーターを介した接続を全て拒否していたのだ。
智哉は即座にPCの設定を手動から自動に切り替え、ネットワークをリセットした。これで技術的な問題はクリアしたはずだ。
しかし、なぜそこまでしてネット接続を確立する必要があったのか?
それは、So-netのサービス開始には、光回線開通後の「支払い登録」が必須であり、その手続きが完了しない限り、肝心のSo-net用レンタルWi-Fiルーターが自宅に送られてこないからだ。
智哉は、ルーターなしの状態で、ONUとGALLERIAを直接接続し、支払い手続き(銀行の口座振替登録)を試みた。
ONU直結の光回線は、確かにSo-netのウェブサイトのような一般的なページにはアクセスできた。しかし、金融機関(銀行のウェブサイト)のようなセキュリティと安定した通信が求められるサイトには、頑としてアクセスできない。通信が途切れ、ページの読み込みがそこで停止する。
(やはり、IPv6 IPoEのような安定した接続がないと、こういうデリケートな手続きは無理なのか……)
このままでは、ルーターが届かず、永遠にネット環境が安定しないという「鶏と卵」のジレンマに陥る。
智哉は、再びeo光のルーターとの接続に挑んだ。PCの設定も直した。ケーブル接続、再起動、そしてルーターの工場出荷状態へのリセット。彼は持てる技術を総動員して、一つ一つ原因を潰していった。
LANケーブルの破損すら疑い、Windows11のネットワークリセットも試みた。ブラウザには「この画面」が表示される。これは、デスクトップPCからルーターへ信号が送られ、ルーターからの応答があることを意味する。
「つまり、LANケーブルは生きている」
残る可能性は一つ。デスクトップPCからルーターの初期設定画面にアクセスできないのは、ルーター自体の故障だ。引っ越し作業の衝撃か、それ以前から調子が悪かったのだろう。以前使えていたのは、単に設定が残っていたからに過ぎない。
そして、智哉は最も恐ろしい真実に気付く。
「……まてよ」
工場出荷状態に戻す作業は、今朝、自分で竹串でやったばかりだ。
初期設定が残っていたからこそ使えていたWi-Fiルーターを、彼は自らの手でリセットしてしまった。故障したルーターは、設定なしではただの箱だ。
「やっちまった……」
智哉は、思わず頭を抱えた。元天才SEにあるまじき、あまりにも単純で致命的なミス。自業自得の絶望が、冷たい水のように背筋を這い上がった。
もはや、ONU直結でしかインターネットは使えない。
本来の目的は、金融機関のウェブサイトで口座振替の登録を済ませること。
(そうだ、スマートフォンがある)
モバイル通信は、自宅のWi-Fiとは関係なく、安定しているはずだ。
しかし、生駒市のこの一戸建ては、電波の入りが極端に悪い。智哉はスマートフォン(Google Pixcel)を片手に、二階から一階、庭まで家中の電波の良い場所を探し回った。窓際の一点で、かろうじてアンテナが二本立つ。
彼はそこで、金融機関のウェブサイトへアクセスし、口座振替の登録を試みた。だが、手続きの最終確認画面で、通信が途絶えた。またも、砂地で歩みが止まる。
「くそっ……」
時間は既に昼過ぎ。智哉は最終手段を取ることを決断した。
彼は財布とスマホだけを手に取り、愛車をガレージから出す。エンジンの振動が、午前中のイライラを振り払うように体に響いた。
向かった先は、自宅から車で五分の場所にある、いつものマクドナルドだ。
智哉は、店内で最も電波の良さそうな席を選び、コーヒーだけを注文した。
周囲には学生や家族連れの話し声が響いている。その喧騒の中、彼はスマートフォンをフリーWi-Fiに接続し直した。
一瞬で回線が繋がり、金融機関のウェブサイトが表示される。
元天才SEが、最新の光回線と最新のプロトコルで挑んで敗北した**「口座振替登録」**というミッションが、マクドナルドのフリーWi-Fiという、誰でも使える公衆回線であっけなく完了した。
画面に「お手続きが完了しました」の文字が表示された瞬間、智哉は張りつめていた緊張の糸が切れるのを感じた。
「ふう……」
彼はコーヒーを一口飲み、小さく笑った。
一難去ってまた一難。
だが、これでようやくSo-netのルーターが送付される。光の格闘は、一時休戦だ。
智哉は、この一連の出来事こそ、小説の種になると確信した。彼はコーヒーを飲み干すと、満足した表情で、再び愛車のキーを握りしめた。
<了>
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