扉を開けば、すぐそこ。

黒瀬智哉(くろせともや)

ぼくらの秘密基地!天道研究所

 テレビの画面に、けたたましい警告音が響き渡った。その直後、緊急速報の真っ赤なテロップが躍る。『速報!巨大隕石、地球に急速接近中!』ニュースキャスターは、貼り付けたような笑顔の下で、明らかに顔色を失っていた。窓の外は、まだ昼間だというのに、どこか不穏な空気が漂っている気がした。


 埃っぽい匂いが鼻腔をくすぐる。薄暗い研究室の窓から差し込む夕日は、空気中に舞う無数の埃の粒をきらきらと光らせていた。その光の筋の先に、大空翔は釘付けになった。


 部屋の真ん中に鎮座する、奇妙な機械。いくつもの太い配線が蛇のように絡み合い、むき出しの金属パーツからは意味不明な光が青白く点滅している。まるで、巨大な生き物が息をしているかのような、不気味で、しかしとてつもなく魅力的な存在感を放っていた。


「博士、これ、すっげぇ!いったい何なんだよ、これ!?」


 翔の声は、興奮で少し上ずっていた。振り返った白衣の男、天道源三郎博士は、その言葉に得意げに鼻を鳴らした。ツルツルに禿げ上がった頭のてっぺんから、大きな鼻の先に光る汗。眼鏡の奥の瞳は、まるで悪戯を企む子供のようにキラキラと輝いている。


「ふむ、これはな、時間圧縮変換機とでも言っておこうか」


 博士は、長く伸ばした顎髭を、指でクルクルと撫でた。その指先が、わずかに油の匂いを漂わせた。


「じかんあっしゅくへんかんき?」


 翔は、その長くて舌を噛みそうな名前に、思わず眉をひそめた。頭の中で何度も繰り返すが、意味は全くわからない。


「それ、一体何の役に立つんだよ、博士?どうせまた、ぶっ壊れるだけだろ!」


 翔の言葉に、博士はフンと鼻を鳴らした。


「黙って見とれ!これこそが、未来を切り開く、わし渾身の発明品なのだから!」


 そう言い放つと、博士は装置の大きなレバーを勢いよく下げた。


ゴオォォォォォ……!


 低く唸るような機械音が、研究室全体を震わせる。床の板が微かに軋み、棚に並んだガラス製のフラスコがチリンと音を立てた。配線に流れる青白い光は激しさを増し、機械の表面からはジジジと小さな火花が散り始めた。そして次の瞬間――


ドォオオオォン!


 耳をつんざくような爆発音と、強烈な熱波が研究室を襲った。視界を遮るほどの白い煙がもうもうと立ち込め、肺の奥がツンとする焦げ臭い匂いが充満する。まるで、雷が研究室に落ちたかのようだった。


 翔は、思わず腕で顔を覆い、何度も咳き込んだ。目を開けると、煙の向こうに、真っ黒な影が立っている。煙が少し晴れると、そこにいた博士の姿を見て、翔は腹を抱えて笑い出した。


「あーっははは!博士、顔!顔真っ黒!アフロみたいになってるー!」


 博士の顔は煤で真っ黒に焦げ、普段は寂しげな数本の髪の毛が、まるで爆発した花火のようにボサボサに膨れ上がっていた。博士は、むせた咳を一つすると、呆れたように吐き出した。


「うむ……どうやら、まだ調整が必要なようだな。うぇっほん!」


 そう言って、鼻の頭についた煤を指で拭った。翔は笑いが止まらない。こんな失敗ばかりの博士の研究室だが、なぜか翔にとっては、この場所が最高の秘密基地だった。予測不能な出来事が、いつも彼の好奇心を強くくすぐるのだ。


 その翌日、小学校の教室。退屈な算数の授業中、隣の席の田中が肘で翔を小突いた。


「なあ、大空、またあの変なじいさんのとこ行ってるのか?」


「ああ。変なじいさんじゃなくて、天道博士だよ。…ま、何やってるか全然わかんないんだけど、なんか面白いんだよ、そこ。」


 翔は、ニヤリと笑って答えた。昨日の爆発を思い出し、口元が緩む。


「こらー!大空翔!さっきの先生の話はちゃんと聞いていたかー!」


 先生の甲高い声に、翔はビクリと肩を震わせた。背中に冷たい汗が流れ落ちる。


「え?あ、はい!聞いてましたよ!えーっと、確か…」


 翔は慌てて教科書を広げるが、どこを読んだらいいのかすら分からない。教室に、クスクスという笑い声が広がる。


「先生、さっきの話って、結局何が言いたかったんですか?」


 翔のその言葉に、先生は一瞬言葉を失い、それから大きく息を吐いた。


「お前なー!人の話を全然聞いてなかっただろー!」


 先生の呆れた声に、翔はバツが悪そうに頭を掻いた。教室中が、ドッと笑いに包まれた。翔は、顔が熱くなるのを感じた。


 その喧騒の中、クラスの隅の席で、星野ひかりが静かに翔の方を見ていた。その澄んだ瞳には、いつもと変わらない冷静な光と、しかし微かな好奇心が宿っているように見えた。 彼女は、いつもは誰ともあまり話さず、休み時間も本を読んでいることが多い。クラス委員長だが、目立つタイプではなかった。


 その日の放課後、翔は委員会当番で少し遅れて校舎を出た。昇降口へ向かう廊下の向こうに、一人で立ち尽くす星野ひかりの姿が見えた。いつも真っ先に帰る彼女が珍しい。


「あれ、星野さん?」


 声をかけると、ひかりは少し驚いたように、しかし落ち着いた仕草で翔の方に視線を向けた。その瞳が、一瞬だけ揺れたように見えたのは、翔の気のせいだろうか。


「あ、えっと……」


 彼女は珍しく言葉に詰まっている。いつもは滑らかに、理路整然と話す彼女が。


「ねえ、大空くん」


 ひかりは、少しだけ俯いた。白いシャツの襟元が、わずかに開いている。


「あなた、あの天道博士のところにいつも行ってるのでしょう?」


 そのストレートな問いに、翔は少し戸惑った。彼女が自分のことに興味を持つなど、考えたこともなかったからだ。


「んー、まあな。何やってるかよくわかんないんだけど、面白そうなんだよ、そこ。」


「気になるの?」


 翔が素直に尋ねると、ひかりは、わずかに頬を染めた。 その表情は、彼女の普段の冷静な印象からは意外なほど、幼く見えた。


「うん。あなたが、あの天道博士と、一体何をしているのか、少しだけ、興味があるの。」


 そう言って、彼女はまた視線を逸らした。翔は、その仕草に、普段のひかりからは見慣れない、わずかな戸惑いと、秘めたる熱のようなものを感じ取った。


「じゃあ、今から一緒に行ってみる?」


 翔が思いつきで言ってみると、ひかりの顔に、一瞬だけ明るい光が灯った。


「うん!」


 その声は、普段の冷静な彼女からは想像できないほど、弾むようだった。ひかりは普段大人しいが、実は誰よりも科学が好きだったことを、翔はまだ知らない。この時までは。


 学校からの帰り道、翔とひかりは並んで歩いた。夏の始まりを告げる強い日差しがアスファルトに照りつけ、陽炎が揺れる。頭上からは、蝉の声がシャワシャワと降り注ぎ、町中の音が普段よりも大きく聞こえた。


「ねえ、翔くん。隕石が近づいてるらしいね」


 ひかりが静かに口を開いた。その声は、蝉の声に負けないように少しだけ高かった。


「んー、そうみたいだな。テレビでやってたな。」


 翔は曖昧に答える。正直なところ、遠い宇宙の話より、今日の給食のメニューや放課後の遊びの方がよっぽど現実的だった。


 やがて二人は、町の外れにある古びた屋敷の前に到着した。鬱蒼と茂る庭木に囲まれた、蔦の絡まる大きな家。昼間でもどこか薄暗く、まるで時間が止まったかのような雰囲気を漂わせている。重々しい木製の扉には、細かな彫刻が施されている。


「ここが、博士の家だ」


 翔が指さすと、ひかりはゴクリと唾を飲み込んだ。その目は、探求心と、わずかな緊張で輝いている。


「さあ、入ろうぜ!」


 翔は元気よく笑い、錆びついた鉄の門を押し開けた。門がキーッと軋む音が、ひかりの耳に不気味に響いた。古い石畳の庭を進み、玄関の分厚い扉を叩く。


「こんにちはー!」


 翔の声が、玄関を抜けて屋敷の奥へと吸い込まれていく。しばらくして、奥からガタガタと何かが倒れるような音がし、続いて博士の声が聞こえた。


「おお、翔くんか。いらっしゃい。ちょうど新しい発明の真っ最中でな、うむむ…」


 博士はいつものように、白衣姿で現れた。その白衣には、また新たな焦げ跡や、得体の知れない染みがいくつも増えていた。顔には眼鏡の跡がくっきりとついている。


「博士、最近、隕石が落ちてくるって噂、知ってる?」


 翔が何気なく尋ねると、博士は鼻を鳴らして笑い飛ばした。


「隕石?そんなもの、ただの噂じゃよ。わしにはもっと重要な研究があるわい!さあ、入るがよい!」


 博士はそう言うと、興味なさそうにひらひらと手を振り、研究室へと戻っていった。その背中を追いかけるように、翔はひかりを促した。


「さあ、入ろうぜ!」


 博士の家に入ると、そこはまさに子供たちの想像力を掻き立てる「秘密基地」だった。埃まみれの実験装置が所狭しと並び、壁にはチョークやペンで複雑な数式や図面がびっしりと書き込まれている。天井からは謎のコードが垂れ下がり、足元には読みかけの科学雑誌や工具が散乱している。そこかしこから、微かに機械油と電気の匂いが混じったような、博士の研究室独特の香りがした。


「……すごい」


 ひかりの声が、小さく、しかしはっきりと漏れた。その澄んだ瞳は、部屋の隅々までを食い入るように見渡し、博士の発明品の数々に熱い光を灯していた。 いつも大人しい彼女からは想像もできないほど、その瞳は期待に輝いていた。


「これ、何だろう?」「あっちの装置も気になるわ!」


 ひかりは、まるで宝探しをする子供のように、研究室の中をあちこち見回し、装置の隙間から覗き込んだり、メモ書きを凝視したりしている。その指先が、僅かに震えているのが翔には分かった。彼女の科学に対する純粋な興奮が、ひしひしと伝わってきた。


「博士、今度は何作ってるんだ?」


 翔が尋ねると、博士は得意げに胸を張った。


「ふむ、これはな、物質移転装置とでも言っておこうか!」


「物質移転装置!?」


 ひかりの目が、いっそう大きく見開かれた。その声は、興奮でわずかに高揚している。


「そうだ。物質を別の場所へ瞬間移動させる装置だよ!今日は、君たちに特別なものを見せてあげよう。これから凄いことが起こるぞ!」


 博士は、その複雑な装置を指し示した。金属と配線が複雑に組み合わさり、中央にはガラス製の巨大な筒が鎮座している。博士はスイッチ類を確認し、レバーを操作し始めた。


「まだ実験段階だが、うまくいけば、宇宙旅行も可能になるかもしれん!」


 博士は、目を輝かせながら語った。その顔は、まるで子供のように無邪気だ。


 装置は激しく振動し、あちこちからシューシューと蒸気が噴き出した。配線がバチバチと火花を散らし、異様な光が研究室を照らす。翔はワクワクしながら、ひかりは固唾を飲んで見守った。


ドッカーン!


 大きな爆発音と共に、装置は完全に停止した。黒い煙が再びモクモクと立ち上り、研究室に焦げ臭い匂いが広がる。


 ひかりは、あっけにとられたように立ち尽くし、翔はまたもや腹を抱えて笑い転げた。


「また爆発!博士、やっぱ天才だな!」


「何が駄目なんだ!計算は合ってるはずなのだが…!」


 博士は悔しそうに頭を掻いた。その顔は、先ほどと同様、煤で真っ黒になっている。


 その時、ひかりは、物質移転装置の図面と、黒板に書かれた複雑な計算式を交互に見つめていた。その瞳は、まるで獲物を狙う鷹のように鋭い。


「ちょっと待って、これ…」


 彼女はチョークを手に取り、黒板に走り書きのように数式を書き始めた。カリカリと、チョークが黒板を擦る音が、静まり返った研究室に響く。


「この計算式、いくつか定数が間違ってるわ。 特に、シュヴェルツシルト半径の計算式が根本的に間違ってる!」


「シュヴェルツシルト半径?」


 翔が尋ねると、ひかりはチョークを持つ手を止めず、翔の方をちらりと見た。


「ええ、質量を持つ物体がブラックホールになる限界の半径のことよ。この計算が間違っていると、空間の歪みを正確に制御できないわ」


 彼女はさらに、流れるような手つきで数式を書き始める。


「ほら、見て!この式、ディラック方程式を応用してるけど、符号が逆になってるわ。 これじゃあ、反物質が生成されちゃう!」


「反物質!?」


 翔はますます興奮した。まるでSF映画の登場人物になった気分だ。


「ええ、通常の物質と逆の性質を持つ物質よ。もし生成されたら、装置内で対消滅が起こって、大爆発を引き起こす可能性もあるわ」


 星野ひかりは、黒板にびっしりと数式を書き連ね、チョークの粉で手が真っ白になっていた。彼女の額には、集中からくる微かな汗が浮かんでいる。


「ここも、ここも…、単位の換算ミスがあるわ。これじゃあ、必要なエネルギー量が足りなくなる」


 博士は、ひかりの指摘に圧倒され、ただただ頷くしかなかった。その顔には、驚きと、そして深い感嘆の色が浮かんでいた。彼の顔が、徐々に煤でなく、尊敬の色に染まっていく。


「君は、本当にすごいな…」


 博士は、感嘆のため息をついた。


「ありがとうございます。でも、これはただの計算ミスよ。誰でも気づくはずだわ」


 ひかりは謙遜したように答えたが、その瞳の奥には、確かな自信が宿っていた。


「いや、違う。君は、わしが見落としていた重要な点に気づいた。それは、並大抵の才能ではない」


 博士は、ひかりの才能を高く評価した。その言葉には、偽りがない。


「博士…」


 ひかりは、少し照れくさそうに微笑んだ。その頬が、わずかにピンク色に染まる。


「ひかりさん、君の力が必要だ。一緒に、この装置を完成させてくれないか?」


 博士は、真剣な眼差しでひかりに頼んだ。その表情は、先ほどのコミカルな博士とはまるで別人のようだった。


「はい、喜んで!」


 ひかりは、迷うことなく即答した。その顔は、期待と喜びに満ち溢れていた。翔は、目の前で繰り広げられる、まるでSF映画の一幕のような光景に、ただただ圧倒されていた。


 その時、博士はふと何かを思い出したように、大きく目を見開いた。その驚きように、翔とひかりも思わず身構える。


「いけない!今日は隕石特番のテレビ出演の約束があったんだった!こんなところで時間を食ってしまったわい!」


 博士は慌てて白衣を脱ぎ捨てると、クシャクシャになったジャケットを羽織り、玄関へと向かった。秒速で着替えるその姿に、翔は目を丸くする。


「翔くん、ひかりさん、また後で会おう!この続きは、また今度じゃ!」


 博士はそう言い残すと、嵐のように勢いよく飛び出していった。バタバタと遠ざかる足音が、屋敷に響く。


「博士、頑張ってねー!」


 翔は、見えなくなった博士の背中に向かって手を振った。ひかりも、満足そうに小さく頷いている。秘密基地に、子供たち二人きりが残された。その静けさの中で、ひかりは再び、壁に書き込まれた数式を食い入るように見つめ始めた。その瞳は、まるで宝石のように輝いていた。


―――

―――――

―――――――――


 数日後、大空翔はひかりの部屋に遊びに来ていた。ひかりの部屋は、まさに小さな研究室そのものだった。本棚には、まるで図書館のように分厚い科学書がびっしりと並び、机の上にはパソコン、謎の配線、ガラス製のビーカーや試験管が所狭しと置かれている。微かに薬品のような、インクのような匂いがした。


 ひかりは、パソコンに向かって何やら難しい数式を打ち込んでいた。画面には、記号と数字の羅列が埋め尽くされている。翔は、そんなひかりの姿を眺めながら、退屈そうに体をくねらせた。


「なあ、ひかり。なんか面白いことないの?ずっとパソコンばっかり見てて飽きないのか?」


 ひかりは、パソコンから目を離さずに、指を動かし続けた。


「ちょっと待ってて。今、大事な計算をしてるから。…もうすぐ終わるわ。」


「そんなことばっかりして、面白いのかよ?」


「面白いわよ。科学って、身の回りにある色々なことを解き明かしてくれるから。知らないことを知るって、すごくワクワクするでしょう?」


 ひかりは、ようやくキーボードを叩く手を止めて、翔の方を見た。その瞳は、科学を語る時だけ、普段よりも生き生きとしている。


「例えば?」


 翔は、素直に尋ねた。彼の目は、少しだけ興味を惹かれているようだった。


「例えば、空が青く見えるのは、太陽の光が大気中の分子に散乱されるからだって知ってた?」


「へえー、あれってそういうことだったんだ。ただ青いだけだと思ってた。」


 翔は、感心したように頷いた。


「他にも、虹ができるのは、太陽の光が空気中の水滴で屈折・反射されるからとかね。科学を知ると、世界がもっと面白く、新しい発見に満ちて見えるのよ。」


 ひかりの声は、どこか楽しげだった。


「そうなんだ。…あんまり考えたことなかったな。」


 翔は、少しだけ科学に興味を持ったようだった。ひかりの話は、博士の難しい話とは違い、身近で、どこかロマンを感じさせる。


「そんなことより大空くん。ちょっとそこに立ってみて」


 ひかりは、立ち上がって、翔を手招きした。その目は、すでに次の実験に移っている。


「え?何するの?」


 翔が戸惑っていると、ひかりは微笑んだ。


「ちょっと実験に付き合ってほしいの」


 ひかりは、翔の身体をあちこち触り始めた。腕や肩、腰に指先が触れる。その指先が触れるたびに、翔の背筋がゾクリとした。


「くすぐったいよ!」


 翔は、思わず身をよじって笑った。ひかりの手が、彼の脇腹を軽く押す。


「ちょっと我慢して。今、あなたの身体の重心を調べてるの」


 ひかりは、真剣な表情で翔の身体を揺らしたり、押したりしながら、何かをメモしていた。その目は、まるで精密機械を扱う研究者のようだ。


「重心?」


「そう。重心とは、物体の重さが一点に集中する点のことよ。重心を知ることで、物体の安定性や運動を理解することができるの。…ふむ、やっぱり。」


 ひかりは、翔の身体をあちこち触りながら、説明した。


「へえー、面白いね。」


 翔は、ひかりの実験に興味津々だった。彼女がどんなことをするのか、予測できないワクワク感があった。


 次の瞬間、ひかりは突然、翔に顔を思い切り近づけた。彼女の甘い息が、翔の頬にかかる。距離は、ほんの数センチ。彼女の大きな瞳が、すぐ目の前にある。


「え?ちょっとなに!?」


 翔は、ドキッとして顔を赤らめた。ひかりのことを地味な女の子だと思っていたが、こんなに近くで見ると、肌は透き通るように白く、瞳は吸い込まれそうなほど大きい。 普段隠れて見えにくい、その整った顔立ちに、翔は思わず息を飲んだ。


「ちょっと、瞳孔の開き具合を調べてるの」


 ひかりは、真剣な表情で言った。その声には、一切の感情の揺れがない。彼女は、ただ純粋に実験がしたいだけなのだ。


「そ、そうなんだ…」


 翔は、ドキドキしながら答えた。鼓動が、うるさいくらいに胸に響く。


「さて、次はこっちの実験よ」


 ひかりは、満足そうに頷くと、机の上のシートに目を移した。そこには、何やら金属製のプロテクターのようなものが置かれている。


「何?それ」


 翔が尋ねると、ひかりは得意げに胸を張った。


「見ての通り、パワースーツの試作機よ」


「パワースーツ!?すげー!」


 翔は目を輝かせた。その言葉だけで、彼の脳裏にはヒーローのような姿が浮かぶ。


「まだ試作段階だけど、完成すれば人間の能力を飛躍的に向上させることができるわ。例えば、このプロテクターを装着すれば、普段の何倍もの力を発揮できるの」


 ひかりは、装置の調整をしながら説明した。それは、翔の足と腕にぴったりとフィットするように作られていた。金属製のパーツは、見た目よりも軽く、肌触りも悪くない。


「ちょっと試してみない?」


 ひかりに言われ、翔はワクワクしながらプロテクターを装着した。ピッタリと体に吸い付くような感触がした。


「準備はいい?実験を始めるわよ」


 ひかりは、装置のスイッチを入れた。すると、プロテクターに微かな電流が流れ、翔の身体に温かい力がみなぎるのを感じた。まるで、全身の細胞が活性化していくようだ。


「すげー!なんか力が湧いてくる!」


 翔は、興奮して叫んだ。その場で軽くジャンプすると、いつもより高く跳べる気がした。


「次は、このボタンを押してみて」


 ひかりは、翔の手に小型のコントローラーを握らせた。親指ほどの大きさで、中央に赤いボタンがついている。


「これを押すと、物体を引き寄せる力が発生するわ」


 翔は、言われた通りにボタンを押した。すると、机の上に置いてあった消しゴムが、まるで生きているかのように、ふわりと浮き上がり、彼の手に吸い寄せられた。


「どうなってんだこれ!マジかよ!」


 翔は、驚きのあまり目を丸くした。コントローラーを握る手が、興奮で震えている。


「成功だわ!」


 ひかりは、静かに、しかし確かな喜びを噛み締めた。その表情には、達成感がにじみ出ている。


「これは、電磁場を利用して物体を引き寄せる技術を応用したものよ。コイルに電流を流して…」


 ひかりは、難しい原理を説明し始めたが、翔は全く聞いていなかった。彼の頭の中には、すでに超能力を手に入れたヒーローの姿が描かれていた。彼は、部屋の中を駆け回り、色々なものを引き寄せ始めた。ペン、本、ティッシュ箱……。


「うおー!すげー!何でも引き寄せられるぜ!」


 翔は、調子に乗って部屋中の物を手元に引き寄せた。そして、最後にひかりに狙いを定めた。悪戯っぽい笑顔が浮かぶ。


「ひかり、こっち来い!」


 翔がボタンを押すと、ひかりの身体がふわりと浮き上がり、彼の胸に吸い寄せられた。


「きゃっ!」


 ひかりは、突然の出来事に驚き、小さな悲鳴を上げた。次の瞬間には、彼女の柔らかな身体が翔の胸に密着していた。


 二人は、至近距離で密着した。ひかりは、翔の鼓動が聞こえるほど近くにいた。翔は、ひかりの柔らかな髪の香りに、ドキドキしていた。甘い花の香りが、彼の鼻腔をくすぐる。


「…大空くん、ちょっと近すぎるわ」


 ひかりは、恥ずかしそうに言った。その声は、普段の冷静なトーンとは異なり、少し震えていた。顔は耳まで真っ赤に染まっている。


 二人は、しばらくの間、そのままでいた。ひかりは、翔の胸に顔を埋め、彼の温もりを感じていた。彼女の心臓は、激しく鼓動し、顔はますます赤くなっていった。翔もまた、ひかりの柔らかな髪が頬に触れる感触に、心臓がバクバクと音を立てるのを感じていた。


「…大空くん、あの…」


 ひかりは、何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。二人の視線が絡み合い、沈黙が訪れた。部屋には、二人の鼓動だけが響いていた。


 その時、ひかりは、ハッとしたように翔から離れた。まるで、電気ショックを受けたかのように。


「と、とりあえず実験は成功のようね...」


 彼女は、平静を装って言った。しかし、その頬は、先ほどよりもさらに赤く染まっていた。視線は、ずっと宙を泳いでいた。


 ひかりの家でパワースーツの実験をして以来、翔とひかりの関係は少しだけ変わった。翔はまだその変化に気づいていなかったが、ひかりは彼のことを少しずつ意識し始めていた。彼の無邪気な笑顔や、時折見せる優しさに、彼女の心は知らず知らずのうちに惹かれていたのだ。


 二学期の終業式を終え、明日から待ちに待った夏休みが始まる。小学校の教室は、子供たちの興奮と期待で溢れかえっていた。教室の窓からは、眩しいほどの夏の光が差し込んでいる。


「やったー!夏休みだー!」


 大空翔は、ランドセルを放り投げ、両手を挙げて叫んだ。その声は、教室中に響き渡る。


「翔くん、廊下は走っちゃダメよ」


 クラス委員長の星野ひかりは、いつもの冷静な声で注意した。しかし、その口元は、僅かに緩んでいるようにも見えた。


「へへ、つい嬉しくってさ!」


 翔は、照れ笑いを浮かべた。


「なあ、ひかり。夏休みになったら、また博士の家に行こうぜ!もっとすごい実験できるかも!」


「ええ、そうね。博士もきっと、新しい発明品を作ってるわ。それに、物質移転装置の計算、もっと詰めておきたいし。」


 ひかりは、目を輝かせた。彼女の瞳には、すでに未来の発明と、それに伴う知的な冒険が映っている。


「やったー!楽しみだなー!」


 翔は、嬉しそうに笑った。


「そういえば、ひかり。夏休みの予定って何かあるのか?」


 翔が何気なく尋ねると、ひかりは少し俯いた。


「特にないわ。いつも通り、家で本を読んだり、実験したり…」


 ひかりは、少し寂しそうに言った。夏休みの開放感とは裏腹に、彼女の言葉には、どこか影が差していた。


「そっか。よかったら、俺と遊びに行かないか?」


 翔は、思いつきでそう言った。彼の顔には、何の悪気もない。


「え!?い、いいの!?」


 ひかりは、目を丸くして驚いた。その顔が、みるみるうちに赤くなる。


「ああ、もちろん!どこに行きたいか、ひかりに任せるよ。面白いとこ、連れてってくれよな!」


「じゃあ…、図書館とか、科学博物館とか…」


 ひかりは、恥ずかしそうに、蚊の鳴くような声で言った。顔はもう真っ赤で、耳まで染まっている。


「いいね!じゃあ、明日、迎えに行くよ!」


 翔は、ひかりの返事に満足そうに頷いた。


「う、うん。ありがとう…」


 ひかりは、顔を赤らめて微笑んだ。その笑顔は、翔の目には、いつもよりずっと可愛らしく見えた。


「じゃあ、また明日な!」


 翔は、ひかりに手を振って教室を出て行った。その足取りは軽やかで、明日からの夏休みへの期待に満ちている。


 ひかりは、大空翔の後ろ姿を見つめながら、ドキドキしていた。胸の奥が、温かいもので満たされる感覚。


「あ、あの…」


 ひかりは、翔を呼び止めようとしたが、勇気が出なかった。口を開こうとして、言葉が喉に詰まる。


「…また明日」


 ひかりは、小さく呟いた。その声は、誰にも聞こえないほど、か細かった。


 教室の窓から、夕焼け空が見えた。茜色に染まる空には、入道雲が大きくそびえ立っている。明日から始まる夏休みは、きっと楽しいものになるだろう。ひかりは、そう思いながら、そっと微笑んだ。彼女の胸には、新しい期待と、まだ名付けられない温かい感情が渦巻いていた。


 その時、大空翔はひょいと教室に戻ってきた。


「そうだ、言い忘れてた」


 大空翔は、ひかりに近づき、ニヤニヤしながら言った。


「な、何?」


 ひかりは、ドキドキしながら尋ねた。


「ところで、ひかりって胸、結構大きいんだな」


 大空翔は、あの日の実験で二人が抱き合った時のことを思い出して言った。


「ま、まあ!」


 ひかりは、顔を真っ赤にして驚いた。


「きゃ!とか言って可愛かったなー」


 大空翔は、ひかりをからかい、教室を後にした。


「もう!大空くんの意地悪!」


 ひかりは、顔を真っ赤にして大空のあとを追って教室を駆け出した。


 こうして、大空翔と星野ひかりにとって、天道研究所は単なる秘密基地ではなく、子供たちが科学の奥深さに触れ、互いの友情を育む特別な学びの場となっていったのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る