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 天宮さんの足取りは、まるで暇潰しのお散歩のようにのんびりとしていた。

革靴をわざと擦らせるように歩くせいで、コツコツと間延びした音がアーケードに響く。ポケットに手を突っ込んだまま背筋はゆるく丸まり、時折きょろきょろと周囲の看板や通行人を眺めては、面白そうに独り笑いしている。

どう見ても仕事中の営業マンというより、休日にふらりと散歩に出た中年男性である。わたしが小走りで後ろを追いかけなければ、いつまでもこの人は交差点の真ん中で信号が変わるのを眺めているのではないか――そんな錯覚すら覚えるほどだった。

「あの…天宮さん。田所さんのお家はどちらなのですか?」

「鳥越神社の近く」

鳥越神社?……おかしい。

「方向、間違ってませんか?」

今わたし達は中央通りを北東へと進んでいる。この先にあるのは上野駅だ。鳥越神社といえば工場から見て南東方面。どう考えても逆方向である。

だが、それは取り越し苦労であった。彼曰く、田所家への訪問は二件目であり、今は別の場所へ向かっているらしい。

上野公園手前で中央通りを抜け、細い路地を曲がる。アメヤ横丁を横断し、線路下を潜ったところで――

「どこに行くんですか?」不安を覚え、思わず訊ねる。

「ここ」

天宮さんが指差した建物を見て、わたしは思わず唖然とした。

「じゃあ、ここで待ってて。二時間くらいで戻るから!じゃ」

軽やかにそう言い残し、彼は建物の中へと吸い込まれていった。

「ちょっ……」

止めようと伸ばした手は空を切り、ぶらんと力なく下がった。

止めようと伸ばした手は空を切り、ぶらんと力なく下がった。

残されたわたしの掌には、彼の背中を引き止め損ねた虚しさだけが残る。喉元まで"

ふざけないで下さい!"と怒鳴り声が込み上げていたが、喧騒にかき消され、ただ唇を噛みしめるしかなかった。

――どうやら彼には、本当に指導が必要らしい。

女性を繁華街に置き去りにするなんてありえないし、なにより今は仕事中だ。今日こそはガツンと言ってやろう!

そう心に固く誓った。

台東区・上野ストリート通りパチンコ屋前での出来事であった。


優雅に紫煙を燻らせ、玉を弾く彼の背中に猛然と近づき、首根っこを掴んだ。

「なっ――!」

驚きの声を上げ、首を回そうとする天宮さんの動きを、わたしは力を込めて押さえつける。身体だけ弾けるように回った拍子に、左手の煙草から灰が飛び散り、隣の男の肩口に落ちた。

「おい!」と不平の声が上がったが、わたしは敢えてそちらを見なかった。謝ってしまえば、その瞬間に勢いが止まるとわかっていたからだ。

強引に立たせ、出口だけを見据えて大股で突き進む。女性らしさなど捨て置け。怒りに身を任せ、一歩ごとに床を鳴らす。

「わっ!」

不意に彼の力が抜けた。互いに引き合って保っていた均衡が崩れ、わたしは前のめりに倒れ込む。

――ヤバい!

右手は後ろに伸ばしたまま、反応が遅れる。目の前に迫るクリーム色のタイル床。

だが、その寸前で身体がふっと浮いた。抱きとめられていた。

「あっ、ありがとうござい…」

思わず漏れたお礼を、慌ててかぶりを振って打ち消す。

そんな葛藤を知る由もない彼は、大真面目な顔で懇願した。

「わかったから!仕事するから!せめて精算だけでもさせて!」

その必死さに、日頃の金欠話が脳裏をよぎる。憐れみと同情が芽生え、気付けば首を縦に振っていた。

だが、彼が台を振り返った瞬間、固まった。視線の先――そこには別の男が腰掛けていた。

幅広の体格、スキンヘッド。半袖から露出した筋肉隆々の腕に、龍の刺青。

一目で察する。堅気ではない。

そして痛いほどの視線を感じた。

悔しそうに、悲しそうに、訴えるようにこちらを見る天宮さんからの。

わたしは大きくかぶりを振り、ただ一言。

「……ごめんなさい」

――いつの間にか、立場は逆転していた。



 二人並んで田所家へと向かって歩いていた。

さっきまでパチンコ台の前で駄々をこねていた天宮さんは、今やすっかり仏頂面だ。革靴をアスファルトに乱暴に打ちつけるたび、不満げな空気が横に伝わってくる。

「晴ちゃんが言わんとしてることはわかるよ。正しいよ。でもさぁ、だったら口で言ってくれれば良いじゃないか。それを強引にね。もう少し後先考えて行動して欲しいなぁ」

貴重な財産を溝に捨てた形となり、彼は露骨に機嫌を損ねていた。

「すみません…」

先ほどまでの勢いはどこへやら。わたしは頭を下げ、トボトボと彼の背中を追う。

愚痴愚痴と小言を浴びせられ、自業自得と怒っても良いはずなのに、まるで自分が失態を犯したかのような錯覚に陥っていく。これを俗に“マインドコントロール”と言うのだろうか。

「あの…そのうち返金しますので…」

「いや、それは良い!」

きっぱりと拒否され、意図が掴めずにわたしは小首を傾げる。

「えっ?でも大事なお金だったんでしょう?」

「いやいや、返されちゃったら俺の立場がなくなるでしょ」

――どういう理屈!?

わたしの頭の中では、ツッコミ役の自分が額に青筋を浮かべていた。

首を傾げるのも無理はなかった。さっきまでの不機嫌はどこへやら、彼の顔はケロリと晴れやかで、しまいには鼻歌まで口ずさみ始める。

二重人格か?と勘繰りたくなるほどの態度の持ち直しようで、理解不能であった。


そうこうしているうちに、わたし達は田所家に到着した。門構えからして重厚で、黒塗りの門扉には磨き抜かれた家紋が誇らしげに輝いている。敷地内には石畳の小道がまっすぐ伸び、両脇には手入れの行き届いた松や植え込みが並び、凛とした空気が漂っていた。門をくぐった瞬間、背筋が自然と伸びる。ここがまさに“大きなお屋敷”であった。

出迎えてくれたのは、わたしと同じ歳くらいの若い女性。凛とした佇まいで美しい方だ。のちに知ったことだが、この女性は、身体の不自由な田所様が専属で雇っている家政婦らしい。前の奥様とは死別しており、今は独り身だと聞いている。

女性に案内され、わたし達は和室の小部屋へと通された。畳の香りに背筋を伸ばし、正座して待っていると、襖が静かに開き、田所様が姿を現した。

わたしはすぐに立ち上がり、深々と腰を折った。

「あれっ、二宮さん?」

田所様は、わたしの勤務する店舗にもよく顔を出して下さる常連だ。当然、顔馴染みである。

「先日は失礼しました。わたしの不手際によって、大変お待たせさせてしまって…」

実際には専務の仕業だったが、お客様からすればそんな事情は関係ない。だから潔く、頭を下げる。

「いいっていいって、気にしてない」

田所様は顔の前で手を振り、笑って許して下さった。恰幅の良い七十代、白髪頭に皺の刻まれた穏やかな表情。まさに見た目通りの人柄で、知っている知識をひけらかすこともなく、こちらの失態にも眉根ひとつ上げない心優しい方だ。

「そんな固くならなくて良いって」

ここで横から口を挟んだのは天宮さんだった。

しかも彼は田所様が入ってきても立ち上がらず、座ったまま下から眺めている。なんて失礼な態度!しかもその発言は、田所様が仰るからこそ意味があるものだ。あなたの出る幕じゃない。

ムッとしたが、田所様が彼に同調してしまったことで、天宮さんの不躾な態度や発言は“正しいもの”として通ってしまった。これほど理不尽なことがあるだろうか。

田所様に勧められるがまま、わたしは畳に腰を下ろした。

「そういえば、お孫さん、小学校に上がられたんですって?」

世間話が始まった。

営業というものは、いきなり本題に入らないとどこかで聞いたことがある。その鉄則を守っているのだろうか、田所様も孫の話題になると上機嫌になり、会話は和やかに進んでいった。

感心したのは、田所様が一方的に話しているように見えて、主導権は常に天宮さんが握っていたことだ。絶妙な相槌と切り返しで相手を気持ちよく喋らせつつ、話題の流れは彼が誘導している。普段、店先で無駄口ばかり叩いている男だが、もしかすると営業は天職なのかもしれない――そんな思いが一瞬よぎった。わたしは邪魔にならぬよう、適度に相槌を打つだけに徹する。

「それで、今日紹介してくれるのは、どんなのかな?」

田所様が切り出すと、待ってましたとばかりに天宮さんが声を弾ませた。

「今日は凄いですよ!」

鞄から取り出されたケースには、金色に輝くブレスレットが収められていた。ターラントと呼ばれる複雑なチェーンが立体的に組み合わされ、手首の中央には額縁のような飾り。その真ん中にエメラルドが嵌め込まれている。

「おぉっ!」

田所様の歓喜の声が上がる。

だがその瞬間、チラリとわたしに向けられた視線が、ほんのわずかに寂しげに見えた気がして、胸の奥がざわついた。

「ですが、ここだけの話…」

天宮さんが突然声を潜め、耳打ちでもするように身を寄せてきた。

「そのエメラルドに見えるもの、実は隅田川に落ちてた石ころなんです」

――な、何を言い出すの!?

血の気が引き、全身の毛が逆立つ。慌てて彼を睨み付けるが、当の本人は知らぬ顔だ。

「それにこれ、うちの職人が作ったんですがね。製作途中で何度も『あっ』『やべっ』なんて言いながら作ってて。まぁ、ターラントは高度な技術が要りますから、新人には無理だったんでしょう。仕上がりを見た社長が『まぁいいか、これは田所様に売りつけよう』って言ってたのが、まさにこれです」

――やめて!お願いだから黙って!

わたしは心臓が張り裂けそうになりながら、思わず彼の口を塞ごうと手を伸ばしかけた、その時――

「ガハハハハッ!」

田所様の豪快な笑声が部屋いっぱいに響いた。怒りを通り越して笑ってしまったのか?いや、表情には怒気どころか愉快さしか浮かんでいない。まるで冗談だと最初から承知していたかのように。

呆気に取られるわたしをよそに、天宮さんの滅茶苦茶な営業は、さらに勢いを増して続いていくのだった。

「しかも純金なんて謳ってますがね。真っ赤な嘘ですよ。鉄に金色で塗装しているだけですからね。汗で手首に着いちゃいますけど、気にしないで下さい」

「いやいや、またかね。気になるよ」

――何を言っているの!?

呆気に取られるとは、まさにこのことだった。目の前で繰り広げられているやり取りは、販売員と顧客のそれではない。悪友同士が酒の席で軽口を叩き合っているような光景であった。

勿論、目の前のブレスレットは正真正銘の純金製だ。つまり彼は堂々と虚言を吐いている。

「あと社長のバカ息子が、このチェーンの隙間を使ってシャボン玉を作ってましたよ。意外と上手くいくもんですね。一度やられてみたらどうです?」

「はっはっは!何を言い出すかと思えば!」

田所様が笑うたびに、わたしの背筋は冷える。怒るどころか、楽しそうに聞いているではないか。

「そうそう、ここにいる晴ちゃんにバカ息子が首ったけでしてね。そのブレスレットを彼女にプレゼントしたんですよ。でも欠陥品って唾掛けてましたね」

「そっ、そんなことしてません!」

気づけば、わたしまで彼のペースに巻き込まれ、慌てて否定していた。

結局、天宮さんは一度たりとも商品を褒めることなく、撤回することもなく、延々と欠陥品と罵り続けたのだった。それなのに――驚いたことに田所様は最終的に購入を決めたのだ。

「よ、良いんですか?」

思わず口を挟むと、田所様は笑ってこう言った。

「おっ、二宮さんも乗ってきたね」

なぜか勘違いされた。天宮さんと同類扱いされたようで、不愉快極まりない。

それでも玄関口まで見送りに来てくれた田所様の表情は、満足げで柔らかかった。

「また楽しい話を聞かせてくれ」

その言葉に、天宮さんは胸を張り、朗々と返事をするのだった。


 帰り道、堪らず訊ねた。

「いつもあんな調子なんですか?」

驚いたことに、彼は鼻で笑ってこう答えた。

「別に田所様が特別なわけじゃない。あれが俺の営業スタイルだ」

自慢げに言う彼を横目に、わたしはただただ呆れるしかなかった。

――よく皆、怒り出さないものだ。

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