第17話「停電シミュレーション」

 八月二十二日、放課後。

 風が湿っていて、空は少しずつ秋の気配を孕みながらも、まだ蝉の声が止まない。

 桜峰中の裏手にある旧管理棟──数十年前に建てられた平屋のプレハブ小屋に、結衣と聖美は入った。

「……ちょっと、暑いね。窓、開ける?」

 聖美が声をかけると、結衣は首を振った。

「電気系統を見るときは、念のため閉めておいたほうが安全。虫も入るし」

「そっか」

 二人は、懐中電灯を点けた。午後五時だというのに、旧棟の中は驚くほど薄暗い。窓ガラスは曇っていて、天井の蛍光灯は頼りない明るさでちらついている。

「ここにあるブレーカー、これが園内全体の電力を配分してるはず。だけど──」

 結衣が手元のノートをめくる。

 そこには、彼女が以前にまとめた配線図が書かれていた。蘭と一緒に調査したときに描いたものだ。

「照明、音響、売店冷蔵庫……こっちはジェットコースターの昇降レールと制御盤……」

 聖美がその図を覗き込んで言った。

「つまり、ブレーカーごとに役割が決まってるんだよね。でも非常用のバックアップは?」

 結衣は首を振った。

「それが問題。非常灯がつながってる予備系統、容量が足りないの」

「じゃあ……停電になったら?」

「バックアップ点灯までの数秒、真っ暗。非常口誘導灯も、明滅しながらつく程度」

「……危ないね」

 聖美の声がわずかに沈んだ。

「イベント当日は、日が暮れてからの時間が勝負になるのに」

 それでも結衣は、冷静な口調のまま答えた。

「だから、今から対策を考える」

 彼女は懐中電灯の光で、ブレーカー脇の配電盤を照らす。

「仮にジェットコースターが稼働中に停電が起きた場合、最優先すべきは停止処理。これは予備電源で対応できるって、笹原さんから保証もらってる」

「じゃあ、問題は園内の避難誘導」

「うん。夜間に安全に誘導できるだけの照度……それが足りてない」

 聖美はしばらく沈黙したのち、小さく手を叩いた。

「だったら、テープでルートを作ろうよ」

「テープ?」

「夜間誘導用の蓄光テープってあるでしょ? 階段の段差に貼るやつ。あれを通路の縁に沿って貼っていけば、たとえ真っ暗でも足元が分かる」

「なるほど……」

 結衣は頷く。

「それなら非常灯が一瞬消えても、移動ルートが消えない」

 「うん。それに、私、ボランティアの子たちに事前レクチャーしておく」

 聖美は、すぐにノートを開き、下書きの図を描き始めた。

「メインステージから東側出口まで、サブ出口と物販通路を経由して……ここは段差があるから多めにテープを……」

「誘導係には合図ライトを配布。点滅モード付きのやつ。非常時でもパニックを防げるように」

 二人の手は止まらなかった。

 淡々と、緻密に、でも間違いなく“誰かの安全”を守るために動いている。

 やがて、外が夕焼けに染まり始めた。

 それに気づいた聖美が、ふと窓の外を見て言った。

「……綺麗だね、今日の夕日」

 結衣は手を止めずに答えた。

「この夕日も、イベント当日には見えないかも。天気予報、曇りのち雨だったから」

 その声に、聖美はふふっと小さく笑った。

「大丈夫。晴れでも雨でも、私たちが準備した分だけ、ちゃんと届くから」

「うん。誰かの手を、迷わず引けるように」

 二人は、再び図面に向き直った。

 真夜中の園内を照らすのは、誰のスポットライトでもない。

 ひとつひとつ貼られた蓄光テープと──

 誰かの“見えない努力”だった。




 夜八時。

 遊園地のメインゲートを閉めたあと、スタッフ用通路に明かりが灯された。

 そこにいたのは、誘導班のボランティア十名。

 制服の上に反射ベストを羽織り、手には蓄光テープと作業用ハサミ、そして懐中電灯を持っている。

「みんな、来てくれてありがとう」

 先頭に立つ聖美が、少し緊張した声で挨拶した。

「今日は、もし当日停電になった時のために、安全な誘導ルートを作ります。危険箇所には、テープを多めに。コースは私が先導するので、後ろから貼っていってください」

 「はい!」と、返ってきた声。

 中には小学生の弟妹を連れて来た生徒もいた。

 「子どもも来るなら、なおさらだよね」と聖美は微笑む。

 作業は静かに、しかし確実に進められた。

 東ゲートまでの第一ルート、物販横の第二ルート、そしてメリーゴーラウンド裏の非常通路。

 段差のある箇所には蛍光ステッカーを追加し、急カーブには光反射ポールが仮設で立てられた。

 一方、旧管理棟では、結衣がひとりパソコンの前で作業を続けていた。

 ブレーカーの回路図をもとに、容量配分を再設計する作業。

 「照明・音響・売店電源……回路1へ」

 「メインステージ・昇降機系統……回路2へ」

 それぞれの系統を分類し直し、非常時に“優先されるべき回路”へと集中させていく。

 「うまくいけば、停電しても30秒以内に再通電が可能……」

 彼女の顔には、わずかに疲労の影があった。

 けれど、指先は迷わなかった。

 そのとき、ドアがノックされた。

 「結衣、缶コーヒーいる?」

 声の主は洋輔だった。

 「ありがと。今ちょうど、ひと区切りついたところ」

 彼は机の隅に缶を置いて、モニターを覗き込んだ。

 「それ、マジで全部やったの?」

 「うん。仮想停電シナリオも、五パターンは想定済み」

 「さすが結衣先生……っていうか、君がいなかったらイベントじゃなくて、崩壊だったな」

 その言葉に、結衣は少しだけ口角を上げた。

 「でも、全部はできないよ。聖美が誘導案つくってくれたから、回路整理に集中できた」

 「みんな、ちゃんと噛み合ってるね」

 洋輔は感心したように言った。

 「でも……一つだけ心配がある」

 「何?」

 「この園内に、幽霊とか出ないよね?」

 「は?」

 「いや、夜の遊園地って、ちょっと雰囲気あるじゃん。ほら、急にブレーカー落ちて、ミラーの中から『……遊んで?』みたいな──」

 「その妄想、明日にして」

 「ごめんなさい」

 二人の声が交差する。

 そしてふたりとも、ふっと肩の力を抜いて笑った。

 夜風がわずかに吹き込み、カーテンが揺れた。

 その向こう、誘導テープがうっすらと淡く光っている。

 きっと当日は、誰にも気づかれないかもしれない。

 でも、この“光の道”は、迷った誰かの足元を、確かに照らすだろう。

 【第17話 了】

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