第2話:書庫の囁き

 翌朝、屋敷にはいつも通りの静寂が戻っていた。朝日がステンドグラスの窓を透過し、色とりどりの光の粒となって、埃の舞うホールに降り注ぐ。昨夜の騒動が嘘のように、何事もなかったかのような穏やかな朝だった。


 リリーは、朝食の準備を終えると、書斎へと戻った。彼女にとって食事は、単なる栄養補給の儀式に過ぎない。味覚や嗅覚は千年の時を経て研ぎ澄まされているものの、特定の食べ物に執着することはない。それよりも、彼女の意識は既に、昨夜の出来事と、それに付随する謎へと向かっていた。


 揺り椅子に深く身を沈め、リリーは再び星図を広げた。男たちが「探し物」と呼んだものが何なのか。そして、その探し物が、なぜこの人里離れた屋敷にあると彼らは考えたのか。彼女の知識のデータベースを紐解いても、ぴたりと符合する情報は出てこない。


「全く、厄介なことになったわね」


 リリーは小さくため息をついた。彼女の長い隠遁生活は、文字通り「平穏」そのものだった。外界との接触を避け、書物と向き合う日々。それが彼女の望みであり、数百年にもわたる習慣だった。しかし、昨夜の闖入者は、その静寂を破る明確な警告のように感じられた。


 彼女は、星図から目を離し、書斎を見回した。天井まで続く本棚には、古今東西のあらゆる知識が収められている。失われた文明の記録、古代の魔術書、予言の書、果ては未来の技術を記した断片まで。この書斎こそが、彼女が千年の賢者たる所以だった。


「もしかしたら、私の記憶にもない、何かがあるのかもしれない」


 そう呟くと、リリーは椅子から降り、書斎の奥へと歩き出した。彼女が向かったのは、特に古く、ほとんど誰も開くことのない一角。そこには、忘れ去られた神話や、世界の始まりに関する曖昧な記述が収められた書物が並んでいる。埃を指先でなぞると、サラサラと音を立てて舞い上がった。


 彼女は、背伸びをして、一番上の棚に手を伸ばした。そこに置かれているのは、他の書物とは一線を画す、表紙のない無題の巻物。幾重にも厳重に封じられ、何かの力が込められているのがわかる。この巻物は、彼女がこの屋敷に来るはるか以前から存在していたもので、その内容はリリー自身も解読できていない、数少ない謎の一つだった。


 リリーは、巻物に触れると、指先に微かな熱を感じた。彼女がこの巻物に触れるのは、実に三百年ぶりのことだった。以前触れた時も、解読の糸口は見つけられなかった。しかし、今ならばどうだろう。昨夜の出来事と、「時の歪み」の揺らぎ。何かが、この屋敷の中で、そして世界のどこかで、動き始めている。


 彼女は、巻物を棚から引き抜いた。巻物は、想像以上に重く、ずっしりとその存在感を主張する。床に広げると、ひび割れた羊皮紙の表面に、見たこともない紋様が複雑に絡み合って描かれていた。それは、文字でもなく、絵でもない。ただの記号とも違う。しかし、リリーの賢者の目が、その紋様の中に、何らかの法則と意味が隠されていることを確信する。


「これは…時間と空間の、原初の言語?」


 リリーは、巻物に顔を近づけ、目を凝らした。微かに、古木の香りと、遠い過去の記憶のようなものが立ち上る。彼女は、指先で紋様をなぞり、ゆっくりと集中力を高めていった。周囲の空気の粒子が、彼女の意思に呼応するように、微かに震え始める。


 意識が、巻物の中へと吸い込まれていく。脳裏に、断片的な映像がフラッシュバックのように現れた。荒れ狂う嵐の中、巨大な建築物が崩れ落ちる光景。光を放つ奇妙な物体が、空を駆け抜ける姿。そして、それらを見守る、人の形をした影。その影は、しかし、どこか人間離れした、超越的な存在に見えた。


 キィン、と耳鳴りのような音が響き、リリーの意識が現実へと引き戻された。


 彼女は、ふと、巻物の端に刻まれた小さな図形に目を留めた。それは、二つの円が重なり合い、その中央に一本の線が引かれた、シンプルなマーク。どこかで見たような、しかし思い出せない。


 リリーは、記憶の海を深く潜っていった。千年の記憶は膨大だ。些細な手がかりが、大きな真実へと繋がることもある。


 しばらくして、彼女の表情に、微かな驚きの色が浮かんだ。その図形は、数百年前に彼女が偶然手にした、とある古地図の片隅に記されていたものと同じだったのだ。その古地図は、世界から忘れ去られたとされる、伝説の「始まりの地」を示していた。


「まさか…彼らが探していたのは、これのこと?」


 リリーは、巻物と記憶の中の古地図の図形を見比べた。あの男たちは、単なる財宝ではなく、もしかしたら、より根源的な、そして危険な何かを求めていたのではないか。


「時の歪み」が揺らぎ始めたこと。そして、この謎の巻物。それらが繋がり、彼女の中で新たな仮説が構築され始めた。もし、男たちが「始まりの地」に関連する何かを探していたのだとすれば、彼らはその場所が持つ力を利用しようとしていたのかもしれない。そして、その力が「時の歪み」に影響を与えている可能性も否定できない。


 リリーは、再び地球儀に目をやった。古地図に描かれた「始まりの地」は、今の世界地図には存在しない場所だ。それは、大陸の変動によって失われたのか、あるいは、次元の狭間に隠された場所なのか。


 彼女は、巻物を丁寧に巻き上げ、再び棚の奥へと戻した。まだ、解読には時間がかかるだろう。だが、少なくとも、昨夜の男たちが求めていたものが、単なる金銀財宝ではなかったことは明らかだ。彼らは、リリーの知る世界とは異なる、もっと深淵な、そして危険な真実に触れようとしていたのかもしれない。


「私は、この静寂を、いつまでも守らなければならない」


 リリーは、書斎の窓から、遠く広がる森の向こうの空を見上げた。青い空に、白い雲がゆっくりと流れていく。しかし、その穏やかな景色の中に、賢者だけが感じ取れる、微かな「嵐の予兆」が隠されているのを、彼女は知っていた。


 千年の知性が、静かに、しかし確実に動き出す。彼女の平穏な日常は、もう二度と、元には戻らないだろう。そして、リリーは、その変化を、静かに受け入れる覚悟を決めていた。この世界の均衡を守るため、彼女は再び、知の探求へと身を投じることになる。

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