第32話 戻れない過ち


「やめろ、零禍……!!」


朧の声は低く、張りつめていた。

彼の背中越しに見えるその姿は、

澪の目にも明らかに戦いの前触れを告げていた。


けれど零禍――いや、優李の身体を

乗っ取った“それ”は、

まるで舞を踊るように一歩踏み出す。


「怖い顔しないでよ、朧。僕はただ、澪を迎えに来ただけ。……ねえ、澪。君はもう、俺じゃなくてもいいの?」


その問いはまるで、

優李自身が口にしたかのようで――

けれど、その声に宿る温もりは、

どこまでも冷たかった。


「優李は……そんなこと、言わない……!」


澪が震える声で叫ぶ。涙がこぼれ落ちる。


「……ああ。そうだったね、?」


零禍はにやりと唇を歪めた。


「優李は、君を想いすぎて壊れかけてたんだ。あの日、僕を封じた君を、赦したいのに赦せなかった。僕を忘れて、彼ばかり見ている君を、どうしても手放せなかったんだ。」


彼の足元に、

黒い影がじわじわと広がっていく。

まるで床が染まるように

――不気味な“何か”が満ちていく。


「優李の隙間に、僕は入り込んだ。彼の後悔と痛みに共鳴して、溶け合った。だから僕はもう、彼であり、彼じゃない。僕は――“君を愛した優李の形をした、恨みそのもの”なんだよ?」


「ふざけるなっ!!!」


朧が一歩踏み込む。

その足元に風が巻き起こり、

空気が一瞬、淡く震えた。


「優李の弱さにつけ込んだだけだ。お前はただの影だ……!」


「……影? 朧、お前にだけは言われたくないな。」


零禍が静かに呟く。


「思い出さないのか?君が“彼”を守れなかった夜のことを。君が“澪を守る”と誓って、僕を封じた日のことを――」


その瞬間、澪の視界が揺れた。

どくん、という音とともに、

また“あの光景”が脳裏をよぎる。


──血の匂い。

──叫ぶ声。

──誰かの手を振り払って、涙を流す自分。


「……ぅあ”……見せないで……っ!!」


膝が崩れ、澪は頭を両手で抑えるようにしてその場にしゃがみこんだ。


「澪!」


朧が駆け寄ろうとした瞬間、

零禍が指を鳴らした。

重力がねじれたように空間が歪み、

黒い縄のような影が朧を絡めとる。


「行かせないよ、朧。彼女と僕の時間は、もう君には割り込ませない。」


「……貴様……っ!」


朧が力を込め、封じの術式を展開する。

空気が鳴る。障子が一枚、

破裂するように吹き飛んだ。


だが零禍は一歩も退かない。


「君も“見ていた”だろう? 優李の苦しみを。彼の孤独を。それでも手を伸ばさず、澪の隣に居座っていた。……それが、どれだけ残酷だったか、分かるか?」


「俺が――澪を守ると決めたからだ!」


「だから、優李は壊れた。……君と澪に挟まれて、想いを殺し続けて。」


零禍の目が鋭く細められた。


「……彼の心を壊したのは、君だよ、朧?」


その言葉は、鋭利な刃のように刺さった。

朧の手がわずかに震える。


「……っ!!」


(違う……そんなはずない。でも――)


その隙をついて、零禍が手を翳した。



「“記憶”を、返してあげるよ――澪」


澪の意識が、ふっと暗闇に沈み始めた。

目の前が白く光り、過去の断片が流れ込む。


──泣いていた。

──叫んでいた。

──「零禍を止めて」と叫ぶ声。

── 剣のようなものを構える自分。

──封印の印を空に描く指。

──朧が、零禍を押さえつける姿。

──そして、優李が遠くから泣き叫ぶ声――


「あ”あ”ぁぁっ……!!」


澪が頭を強く抑えて、その場で強く叫びと

ともに、視界が白く弾けた。


次の瞬間――

部屋の中の空気が、一変した。

風が止み、音が消えた。

零禍がゆっくりと顔を上げる。


「……ふふ、思い出した?」


その声は、どこか優しさを帯びていた。

だがそれが、

さらに不気味さを際立たせていた。


「さあ、澪。今度は、君が償う番だよ?」


朧が封じを破って動き出す。


「澪を巻き込むな――今度こそ、俺が……!!」


黒と白がぶつかる直前、澪は微かに、

過去の自分の声を聞いた気がした。


──封じる事しか出来ない。ごめん、零禍。──


その罪が、今、すべてを壊そうとしていた。


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