第26話 交錯する声と侵されゆく心


夜明け前。

空気は凪のように静かで、どこか不自然だった。それはまるで、“何か”が息を潜めているかのような。



澪は、優李の眠る離れの座敷にいた。

彼の顔は穏やかに見える。

けれど、それは“嵐の前の静けさ”だと、

澪は直感していた。


 


「……優李、?」


 


呼びかけると、

そのまぶたがかすかに動いた。


そして――


 


「……澪、か。」


 


低く、しかし確かに彼は口を開いた。

その声は、懐かしい“優李”の声だった。

澪の胸が安堵で緩む。


 


「よかった……意識、戻ったんだね…!」


 


「……うん。戻った……ように見える、かな。」


 


一瞬、澪は違和感を覚えた。

その“言い回し”

――どこか“優李らしくない”。


 


「優李……?」


 


彼は、ゆっくりと視線を澪に向けた。

右目はいつもの優しい光。

だが、

左目だけが深く沈んだ紫に染まっている。


 


「……どうしたの? 」


 


「……あなた、ほんとに“優李”……なの?」


 


優李は笑った。

けれど、それは優李の笑みではなかった。


 


「――どうだろうね。

“僕”が優李か、それとも零禍か。

もう君にも、わからないんじゃない?」


 


澪の心臓が、冷たく締めつけられる。

言葉は優李の口から出ている。

だがその口調、その“間の取り方”は、

零禍そのものだった。


 


「君は、どちらを見てるの?」


「“僕”という存在の、どちらを求めてる?」


 


「やめて……そんな言い方……!!」


 


「どうして? 僕はただ、君の“優しさ”が知りたいだけだよ、」


「僕を赦すのか、それとも“まだ、優李を選びたい”のか――」


 


澪が後ずさった瞬間、

襖が音を立てて開いた。

そこに立っていたのは、朧だった。


 


「――やめろ、零禍!」


 


朧の声は冷たいが、どこか切迫していた。

優李――いや、零禍はふっと視線を向ける。


 


「……やあ、朧。久しぶりだね。

こうして君と話すのは、何百年ぶりだろう?」


 


「貴様は……優李の身体を道具のように使って……。」


 


「道具じゃないさ。“彼”が望んだ。君たちに“想われたくて”」


「それを僕が拾ってあげただけだよ?」


 


朧は、瞳を細める。


「……その嘘混じりの言葉。懐かしいな。

昔のお前もそうだった――“誰より優しくて、誰より残酷”だ。」


 


「昔の僕、ね。……でも今の僕は、“君たちが作ったもの”さ。」


 


その言葉と同時に、朧の額が鋭く痛んだ。


 


「っ……!‪?」


 


朧が、頭を押さえて膝をつく。

視界がぐにゃりと歪み、

深い深い闇が脳内に流れ込んでくる。


 


(これは……精神干渉……!?)


 


零禍の視線だけで、

朧の精神に侵入してきている――。

彼の内にある“記憶”と“想い”を、

無造作に暴いてくる何か。


 


「やめ……ろ……!」


 


「怖いかい? 自分の中にある、君の“後悔”を見るのは、」


「君だって思ってたんだろう? 澪が僕を封じたのは正しかったって!」


「でも、本当は“止められなかった自分”を責めてたんじゃない?」


 


「君は澪を守るフリをして――結局、自分の罪を見ないようにしてただけ。」


 


朧の息が詰まる。

心が、冷たく崩れていく感覚。


 


「お前の目的はなんだ……澪に、優李に、何を求めている……?」


 


零禍は、わずかに笑った。


 


「答えはまだ言わないよ。でもね、朧――」


 


「君が一番、僕のことを赦してないんだよ。」


 


その瞬間、朧の身体が激しく揺れた。


彼の視界が真っ黒に染まり、

かつての零禍の“封印の瞬間”の断片が、

フラッシュバックのように脳裏に流れ込む。


 


澪の涙、優李の叫び、自分の無力。

すべてが、朧の胸を刺し貫く。


 


「朧っ!!」


 


澪が駆け寄り、彼の肩を抱いた。

零禍――いや、優李の姿をした彼は、

静かに立ち上がる。


 


「今度は、君たちの番だよ。

“誰を選ぶのか”――その答えを、僕に教えてね?」


 


そう言い残して、

彼はその場を離れていった。

その背に混じっていたのは、

確かに優李の足取りだった。


 


残された澪と、膝をついたまま苦しむ朧。

一つの身体に、二つの魂。

その“交錯”が、

確実に現実を侵しはじめていた。

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