第十四章:ゴーストを消すこと (Erasing the Ghost)

サトシ・ナカモトという、デジタルのペルソナは死んだ。次は、その死体を、この世のどこからも発見されないように、完全に消し去る番だった。アリスターは、彼の最終段階、「物理的消去プロトコル」を開始した。

彼はまず、特殊なOSが書き込まれたCDからラップトップを起動した。画面には、GCHQで使われていたものと同種の、軍事レベルのデータ消去ツールが立ち上がった。彼は、ラップトップの内蔵ドライブ、そして彼が使ってきた全ての外付けハードディスクとUSBメモリに対して、「7回上書き」のコマンドを実行した。

画面のプログレスバーが、ゆっくりと進んでいく。それは、サトシ・ナカモトの記憶、思考、そして存在そのものが、意味のないランダムなノイズの海に沈んでいく、葬送の行列だった。

数時間後、全てのデータが、復元不可能なジャンクへと変わった。

だが、アリスターのパラノイアは、それだけでは満足しなかった。

彼は、ドライバーを手に取り、全てのデバイスを、手際良く分解し始めた。基盤を剥がし、ハードディスクのプラッター(磁気円盤)を、一枚一枚、ペンチで取り出していく。

そして、彼は、ベランダに置いた金属製のバケツの中に、それら全ての電子部品の残骸を投げ込んだ。

彼は、その上から、白い粉末を振りかけた。テルミット。GCHQの工作員が、敵地で機密書類を緊急焼却処分する際に使う、特殊な焼夷剤だ。

彼は、マグネシウムの着火剤に、ライターで火をつけた。

次の瞬間、バケツの中から、太陽のような、眩い閃光が放たれた。摂氏2000度を超える熱が、プラスチックを瞬時に蒸発させ、金属を溶かし、シリコンチップを歪んだガラスの塊へと変えていく。

それは、サトシ・ナカモトの、火葬だった。

アリスターは、その激しい光と熱を、何の感情も浮かべない、ガラスのような瞳で見つめていた。

煙が収まった時、バケツの中には、もはや何であったのかも判別不能な、黒い塊だけが残っていた。

彼は、部屋に戻ると、この数年間で着た服、読んだ本、使った食器、全てをゴミ袋に詰めていった。そして、それらをいくつかに分け、数日かけて、ロンドンの別々の地区の、公共のゴミ箱に、一つずつ捨てて回った。

アリスター・フィンチという男が、このアパートに存在した痕跡は、指紋一つ、髪の毛一本すら、残らない。

最後の夜。

彼は、シャワーを浴び、全く新しい服に着替えた。そして、偽造された、しかし完璧な品質の、新しい身分証明書と、わずかな現金を入れただけの、小さなリュックを背負った。

彼は、がらんどうになった部屋を見渡し、ドアの鍵を内側から閉めると、郵便受けにそっと落とした。

彼はアパートを出て、キングス・クロス駅へと向かった。

彼は、券売機で、最も遠い場所への、片道切符を買った。スコットランドの、北の果て。

夜行列車が、ゆっくりとロンドンの街を滑り出していく。

アリスターは、車窓の外の、流れていく街の灯りを眺めていた。だが、彼の目は、そこに映る自分自身の、ぼんやりとした影を見つめていた。

彼は、世界を変えた。そして、その世界から、自らを完全に消し去った。

彼は、自由になった。そして、永遠に、孤独になった。

ゴーストは、彼の最後の任務を、完璧に遂行したのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る