第20話《Case11》追い出されることを希望する妻の誇りと決別


 春の雨が静かに街の石畳を濡らしていた。


 《ヴィランズ・レディ》の応接間に現れたその女性は、上品でありながら、どこか疲れの滲む面差しをしていた。名はクラリッサ=セレスト。結婚して三年目の若き侯爵夫人だった。


「……お願いです。私を、あの家から“追い出して”ください」


 はじめての言葉から、その決意はにじんでいた。


 シャルロットは静かに目を細める。隣には、すでにルミエリナとサビーネが控えている。


「――理由を、伺ってもよろしいかしら?」


 問いかけに、クラリッサ夫人は息を呑むようにして頷いた。


「夫・ランバートは……悪い人ではありません。ただ……母上である“前侯爵夫人”の干渉が強くて。元々、婚家に入ってからというもの、着る服、食事、付き合う相手に至るまで、何ひとつ私の意思では決められませんでした」


 手元で握られたレースのハンカチが、かすかに震えている。


「三年経っても、子どもが授からないことを……責められ続けて。『家に相応しくない女を迎えたから』と、毎日言葉と冷たい目と行動でそう示されて……

 まともな食事が出されない日もあれば、急に“精のつく料理”ばかりが出されたり……

 急な変化を胃が受け付けず残すと、『母の好意を受け入れない嫁』として叱責が始まります」


「“子がないことは妻の責”……などと、いまだに信じている家もあるのでしょうね」


 サビーネが憤りを滲ませながらも、冷静に記録を取っている。


「……実家も裕福な家ではなく、戻る場所もありません。けれど、このままあの家で心を削られて生きていくより、追い出されてでも“終わらせたい”のです」


 その声には、張り詰めたものと、覚悟が共に宿っていた。


「だから……どうか、“悪役令嬢”として、私の夫を誘惑して。彼の目に、私が“要らない妻”に映るように仕向けてください」


 シャルロットは、しばし無言で彼女を見つめた。


 彼女が望んでいるのは、“逃げる”ことではない。“耐える”ことをやめるための、最後の橋を焼き払う方法だった。


 そして彼女が語らぬ本音――“夫の中に、微かな情すら残っていれば気づいてほしい”という、矛盾した祈りも。


 シャルロットはゆっくりと椅子から立ち上がり、微笑んだ。


「分かりました。そのご依頼、お受けいたします」


 依頼記録の帳面が静かに閉じられたとき、外では雨がやみ、空がわずかに明るさを取り戻していた。


* * *

 そして数日後。


 王宮に続く石畳を、雨上がりの風が涼やかに吹き抜けていた。

 ランバート=セレスト侯爵は、王命による公務を終えたばかりで、ほっと息をつくように中庭へと向かっていた。


 そのとき、目に入ったのは、ベンチに腰をかけ、顔を伏せているひとりの令嬢だった。

 シンプルな紺色のワンピースが清楚な印象を与えながらも、肩にかかる髪にはゆるやかに巻かれたカールと、ふんわりと漂う柔らかな香り――ほんのわずかに媚薬の効果を含ませた、淡く甘い香水が仕込まれていた。


 その姿に、ランバートは足を止めた。


「具合でも……悪いのですか?」


 声をかけられた令嬢――“エリザベート=ヴァロア”は、顔をあげて儚げに微笑んだ。

 シャルロットが変化した姿とは、到底思えぬほど、傷つきやすく、守られることを当然とする“お嬢様”の仮面を完璧にまとっていた。


「……ありがとうございます。すみません、急にめまいがして……

 もし差し支えなければ、少しだけ……肩をお借りできませんか?」


 ためらうように言う甘く美しい声、物憂げな表情。そして目を伏せた時の睫毛の影。

 控えめに見えるその所作すべてが、どこか絶妙に男心をくすぐる。


 ランバートは逡巡しながらも、手を差し出した。


「……わかりました。どうぞ、無理はなさらず」


 そっと肩を貸すと、彼女の体温がぴたりと寄り添ってくる。

 かすかな吐息とともに触れる重さが、不自然なほど自然で――そして、心に妙なざわめきを残した。


「すみません……初対面の方にこんなお願いをするなんて、はしたないですよね」


 小さな声でつぶやく“エリザベート”に、ランバートは思わず口元をゆるめた。


「いえ。困っている人を放っておけないだけです」


 数分の沈黙と、そのあとに少しの間の身の上話。

 名前の交換、そして「またどこかでお会いできたら」という言葉を残して、彼女はランバートから借りたハンカチを握りしめて何度もお礼を言いつつ、心残りがある顔をして去って行った。


* * *


 その数日後――


 ランバートの執務室に、見慣れぬ包みとともに一枚のカードが届いた。


「あの日のご親切に感謝を込めて。お気に召すと良いのですが。

 もしよろしければ、ささやかなお礼をさせていただけないでしょうか――エリザベート=ヴァロア」


 添えられていたのは、手刺繍が施された真新しいハンカチ。

 そのハンカチは丁寧すぎるほどに折りたたまれ、繊細なカードの筆跡が、彼女の慎ましい品位を想起させた。


 それだけなのに――

 ふと、心が揺れた。


(……あのときの、香り……声……手の温もり……)


 どこか後ろめたく、けれど引き寄せられる感覚に、ランバートは喉を鳴らしていた。


* * *


 “エリザベート”との夕食の席。


 高級すぎず、だが品のある隠れ家のようなレストランに現れた彼女は、あの日よりもほんの少しだけ艶のある仕草を身にまとっていた。


「ランバート様、少し……お疲れなのではなくて?」


 まるで見透かしたような一言。

 そして、そっと添えられた細い手。冷たく柔らかな指先が、袖越しに彼の腕へと触れる。


「……気づかれてしまいましたか……最近、家の中が落ち着かなくてですな」


「そうだったのですね。……私なんかに、何かお手伝いできることがあればおっしゃって下さいね……」


 濡れたような瞳で見つめられ、言葉の端に込められた優しさに、ランバートはつい目を細める。


 触れそうで触れない距離。

 口に出さぬ好意。

 あくまでも節度を保ちながら、だが確実に“熱”を滲ませる仕草の数々が、

 彼の理性をじわじわと削っていく。


 そして――


 「……優しい言葉を……ありがとう」


 そう呟いた彼の手が、ついに彼女の手の上に重ねられた。


* * *


 その一週間後――


 姑である前侯爵夫人の手に、“密会の記録画像”が複数枚届けられた。


「ランバート、あなた、お付き合いしているお嬢さんはどこの誰なの?

 若そうだけれど、子供が産めそうな健康な方なのかしら……」


「な、なんだそれは! そんな覚えは……いや、いや、違う……」


「いいのよ。そうよね。あなたも若くて子供が望める女性がいいわよね。

 家のことを考えてくれたんでしょう?

 クラリッサには離縁を伝えましょう。あの女を追い出して、“家を守る”ことに専念しなさい!」


 計画通りだった。


 義母の独善的な判断と、夫の心の迷い。どちらも“エリザベート”によって煽られた結果、クラリッサに「追い出される理由」が与えられた。


* * *


 数日後、静かな別れのひと時を過ごすことになった。


「申し訳ございませんでした、至らぬ妻で……」


 最後まで頭を下げていたクラリッサに、夫は気になっていた言葉を投げかけてみた。


「お前は離婚でいいと思っているのか」


 思わずクラリッサは顔をあげた。


「お前は俺を愛していたのではなかったのか」


 重ねて問うランバートに、言葉を選びながらクラリッサが答える。


「……貴方に愛情は確かにありました。疑われるのは理不尽ですわ。

 けれど……夫婦の愛情は、片側だけでなく両方が努力して育てていくものだと、私は思います……。

 貴方はお母様に対して言いなりで、妻を守ろうとはなさらなかった。

 ――愛情は持ち続けられなかった至らぬ妻で申し訳ありませんでした」


 返事のないランバートに背を向け、この三年の荷物を乗せた馬車に向かった。


「……すまない……」


 そんな一言が聞こえたような気もしたが、クラリッサは振り返らずに馬車に乗った。


 しかし、馬車に乗った彼女の顔は晴れやかだった。


 涙は流れなかった。けれど、彼女の中の“呪縛”は、ようやく解けたのだった。


* * *


 そして《ヴィランズ・レディ》の事務所にて。


「……その後、クラリッサ様は?」


「元の実家に戻り、兄夫婦が営む商会を手伝いながら、少しずつ新しい生活を始めているようです」


 ルミエリナの報告に、シャルロットはふっと微笑んだ。


「“追い出される”という願いは、ほんとうは“自分の手で出ていく勇気”を欲していたのかもしれないわね」


 季節はいつの間にか移ろっていて、窓外には初夏の光が穏やかに差し込んでいた。

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