l'été

𝚊𝚒𝚗𝚊

un

 海を背に坂道を上っていくと、白い小さな建物がある。海が見渡せるであろう二階は居住スペース。横に長い、はめ殺し窓がある一階はギャラリーになっていた。たまに展示会のフライヤーが貼られ、白いリネンが取り払われて店内の様子が見える。

 足を止めて、猫が描かれた油彩画のフライヤーを眺めた。ガラスの扉は横に開くようになっている。少し重たいドアを開けて、初めて中に入った。

「こんにちは」

 女の人が、個展のステートメントを手渡してくれる。ギャラリーの壁には額装していない小さな作品が、いくつも飾られていた。メインビジュアルの猫の絵も、目立つ場所に掛かっている。

「何かを見て、来られたんですか?」

「いえ。通りすがりに見かけて」

「そうでしたか。今日は作家が在廊しているので、ゆっくりご覧になっていってください」

 女の人は笑顔でそう言った。平日の午後。ギャラリーの中に、ほかの客はいない。猫の絵の下には、壁に丸いシールが貼られていた。すでに売れているのだろう。小型犬を描いたもの。室内を描いたもの。花。果物。パステルカラーを基調にした絵の具を厚めに塗りつけた感じが、ぬいぐるみのようで愛らしい。

 水色の作品に目を止める。

「これは、朝の海をモチーフにしました」

 三十代前半くらいの女の人が話しかけてきた。

「きれいな色ですね」

 ワンカールボブと明るい髪の色が似合う、かわいい人だった。油彩画はライトで照らされているうえに、窓からの陽射しも明るい。ギャラリーの中は、自然光と影が対比しているように見えた。

「お住まいは、この辺りですか?」

「はい」

「朝の海には行かれますか? まだ陽が山の向こうにある頃の海は静かで、本来の色をしているように見えます」

 朝のくっきりした海も、陽が傾いてきた眩しい海も、曇りや雨の鈍い海も、全部好きだった。

「写真を撮ってもいいですか?」

 スタッフの女の人に訊かれる。

「お好きな絵の前へ、どうぞ」

 朝の海の絵を挟んで、作家と一緒に写真を撮った。

「なんだか姉妹のようですね。雰囲気が似ている」

 海の絵も売約済みだった。もしも、この絵が売れていなかったとしても、手が届かなかっただろう。私は気に入った絵を、スマートフォンで撮らせてもらった。


 ギャラリーを出て海を目指した。坂道を下っていくと、遠くの木々の隙間にぎらぎら光る海が見えた。西に開けた海は、陽を反射して凶暴なくらいに輝いている。私は本物の海を前にして、ぼんやりとした水色の絵を思い出していた。朝早くに、来なければ。また、あの水色には出会えない。

 明日、いつもより早く起きて、陽が射す前の海を見に来よう。やっと寝つけたと思っても細切れにしか眠れない私は、朝までに何度も目が覚める。明日の朝の天気は、晴れの予報だった。

 家の部屋に戻り、ギャラリーのSNSをフォローする。撮ってもらった写真が、ストーリーに上がっていた。DMして写真を送ってもらう。買ってから数ページしか読んでいない文庫本を取り出して、バッグに入れた。




 少しだけ巻き上がる波が、エメラルドグリーンに透けるのを見つめる。水色を湛えていた海は、一瞬で青色を取り戻した。まだ沈む前の月が、淡い光を纏って浮かんでいる。私は乾いた砂浜に座って、文庫本を取り出した。散歩する犬と人が、何人か波打ち際を通り過ぎる。

 朝から気温が高い。私は、国道沿いのコーヒースタンドに向かった。出発時間まで、まだ一時間以上ある。コーヒースタンドは早朝から営業していて、犬を連れた人がテイクアウトしていた。

 早朝から昼まで営業しているという、コーヒースタンドに入ったのは初めてだった。

「サーティーンコーヒーのかたですか?」

 コールドブリューをオーダーすると、店の人に訊かれた。同年代くらいの男の人だった。

「はい」

「サーティーンコーヒーさん、本当においしいですよね。たまにですけれど寄らせてもらっています」

「ありがとうございます。気づかなくてすみません」

「大勢の中のひとりですし、覚えてもらっているなんて思わなかったですよ」

 男の人はコールドブリューを用意しながら、笑顔で話しかけてくる。私が働いている、隣の市の 13 COFFEE ROASTERY に何度か来てくれているらしい。

 壁際のベンチシートに座り、グラスを口に運ぶ。浅煎りでフルーティーな味わいだった。ベンチシートの前に小さな木のテーブルが二つだけの、小ぢんまりとした店内。手が空いた男の人が、作業台の向こうから話しかけてくる。

「今日は、お休みですか?」

「いえ、これから出勤です」

「お仕事ですか。では少しでもゆっくりしていってくださいね」

 文庫本を取り出すのと同時に、客が入ってきた。ハンドドリップをテイクアウトでオーダーした女の人は、トイプードルと一緒にベンチシートに腰掛ける。

「今日も暑くなりそうですね」

 女の人に話しかけた男の人が、私にも視線を寄越した。

「梅雨はどこに行ったんですかね」

 女の人が言う。私は男の人に笑顔で応えた。今年は梅雨入りしたといっても最初の二日間降っただけで、それからは晴天の真夏日が続いていた。雨傘ではなく、日傘を持ち歩かなければならない。

 女の人はハンドドリップコーヒーを受け取ると、トイプードルと一緒に店を出ていった。変わるがわる客は訪れ、店の男の人はそれぞれの人に話しかけている。次に隣のテーブルに座った女の人は、よく来るようで長い間話していた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る