第3話 交差点の真ん中で詩が揺れる

 萌夢もゆむは、文化祭の後、展示室の片付けを手伝っていた。


「本当に、ありがとう。君のおかげで、焼きまんじゅうも完売だったし」


 宮沢先輩が笑うたびに、胸の奥がくすぐったくなる。


「いえ、先輩たちの展示が素敵だったからです」


 控えめに答えると、先輩は「君も、こっち側の人間だと思うよ」と言った。


 “こっち側”──それは、文学を言葉で掘り下げ、詩や古文に想いを込める人たちのことだろうか。


 でも、萌夢は思った。あの一言、「ノスタルジーって感じしますね」と言った春樹も、たしかにその交差点に立っていた。


 ──「詩村さん、来週の会報に、文化祭の感想を書いてくれないかな」


「えっ、わたしが……?」


「うん。感じたことを、素直に。あの展示、どうだったか」


 宮沢先輩に頼まれて、萌夢はうなずいた。ノートを広げたとき、自然に春樹の顔が浮かんだ。まさか、こんな形でまた彼のことを考えるなんて。


 だけど、ペンを走らせようとすると、胸がちくりと痛んだ。

 だって、彼はきっと──萌夢のこと……ポエちゃんの名前すら覚えていない。


   ***


 ……あれから数日が経った。

 文化祭の余韻もようやく静まり、学校は再び日常のリズムを取り戻していた。


 数日後、萌夢は何時ものように古典研究会へ出かけて行った。

 私の隣に座ったのは、同じクラスの佐野さんだった。彼女は、髪を肩で切り揃えた落ち着いた雰囲気の子で、文芸部に所属していた中学時代から、どこか似たものを感じていた。


 最初のうちはお互いに距離を測るような会話ばかりだったけれど、古文研究会の活動が始まってからは、展示の準備や放課後の雑談を通じて、自然と言葉が増えていった。


「詩村さんって、詩とか書いてたんでしょ? 万葉中まんばちゅうの子が話してたよ」


 ある日、佐野さんがそう切り出してきた。


「うん……まあ、ちょっとだけね」


 私は照れ隠しに曖昧に笑ったが、心の中はざわめいていた。まさか中学の噂が、ここまで伝わっていたなんて。


「“ポエちゃん”って、呼ばれてたって。あだ名?」


「うわ、それ……恥ずかしいな……」


 思わずうつむいた私に、佐野さんはくすっと笑った。


「でも、なんか似合ってるかも。響きも可愛いし」


 その日からだった。古文研究会では、冗談まじりに私のことを「ポエちゃん」と呼ぶ人が増えたのは。


 もちろん、私自身は「私」としてのままでいたけれど、あだ名で呼ばれるたびに、少しずつ、心の中の距離が縮まっていくような気がした。


   ***


 ある日の放課後。研究会の小さな部室には、秋の夕陽が傾いて差し込んでいた。


 机の上には、和歌の資料や写本、筆記用具が散らばっている。その中で、私は佐野さんと一緒に、新しいテーマ展示の構成について話し合っていた。


「“別れ”をテーマにした和歌って、やっぱり多いよね」


「うん。特に“もののあはれ”を感じさせる歌は、季節の移ろいと一緒に読むと深くなる気がする」


 そう言いながら佐野さんが開いた資料の中に、かつて私が心を奪われた一首があった。


──「人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける」


 私はその歌を目にした瞬間、ふと春樹の横顔を思い出していた。文化祭のあの日、何気なく放った彼のひとこと──


「なんかこれ……ノスタルジーって感じしますね」


 ……きっと、彼は意味なんて深く考えていなかったのだろう。けれど、言葉は不思議だ。あの言葉だけが、今も胸のどこかにひっかかっていた。


「……ポエちゃん?」


「えっ?」


 不意に佐野さんの声で我に返る。


「ごめん、ちょっと……ぼーっとしてた」


「ふふっ。もしかして“好きな人”のことでも思い出してた?」


 その冗談に、私はごまかすように笑った。

 でも、心の中ではもう、笑ってはいられなかった。


 ──“好きな人”って、なんだろう。


 過去に置いてきたはずの感情が、言葉一つで揺らぎ始めている。

 それは、ちょうどこの研究会で向き合っている古い和歌たちのように、何度読み返しても、その意味が変わる気がする。


   ***


 放課後の図書室脇の一角。

 古文研究会の活動日ではなかったが、私はふらりと、静かな机を求めてここへ来ていた。窓の外には、秋風が揺らす銀杏の葉が舞っている。


「……ねえ、詩村さん」


 不意に名前を呼ばれ、顔を上げると、隣の席に佐野さんが座っていた。

 彼女は、そっとノートを閉じ、少し頬を赤らめながら言葉を探しているようだった。


「この前の文化祭でさ……宮沢先輩と、けっこう話してたでしょ?」


「え? ……ああ、うん。展示のことで少し」


 私はとっさにそう答えたけれど、心臓が小さく跳ねるのを感じた。


「……詩村さんって、もしかして、先輩のこと……気になってたり、する?」


 佐野さんは茶化すような口ぶりではなかった。

 どこか、自分の気持ちを映して確かめるような、そんな声音だった。


「……うん。少し……ね」


 私は視線を落としながら、静かに答えた。

 それは誰にも話していなかった、今の「わたし」の秘密だった。


「そっか……でも、宮沢先輩、人気あるからなぁ」


 佐野さんは微笑んだ。

 その笑顔は、どこか寂しげでもあり、どこか応援してくれているようでもあった。


「“好きな人に、愛されたい”って思うのって、わがままなのかな」


 私がぽつりと漏らすと、佐野さんは少し驚いたように、そして、優しく首を振った。


「わがままじゃないよ。……むしろ、当たり前の気持ちじゃないかな」


 言葉が胸に滲みる。

 愛されたい、という願いは、どこか夢のようで、でも触れたくて仕方ない現実だった。


 ──“好きな人”って、なんだろう。

 過去に置いてきたはずの感情が、言葉一つで揺らぎ始めている。

 それは、ちょうどこの研究会で向き合っている古い和歌たちのように、何度読み返しても、その意味が変わる気がする。


   ***


 放課後の古典研究会。雨が窓を叩いていた。


 私は部室の隅にある机に向かいながら、ゆるく巻かれた自分の髪先を無意識に指先でなぞっていた。向かいに座る佐野さんが、そんな仕草を見逃すはずもなく、静かに口を開いた。


「詩村さんって、さ……恋してる?」


「え?」


 思わず筆を止めて顔を上げると、彼女は頬杖をついたまま、いたずらっぽく笑っていた。


「やっぱり。最近、ぼーっとしてるもん。なんか目の奥で考えてる感じっていうのかな」


「……してないよ、そんなの」


「嘘だ。じゃあ、“好きになった人に愛されたい”って思ったことはある?」


 その言葉に、思考がかすかに揺れた。


 ──あるよ。だって、私だって……


「……わからない。たぶん、ある。でも、その人が私のことを“好き”かどうかは、もっとわからない」


「それって、例の……先輩?」


 私は小さくうなずいた。


「宮沢先輩、かっこいいもんね。落ち着いてて、和歌とかめっちゃ詳しいし。ちょっとミステリアスで」


「うん……でも、それだけじゃなくて」


「うん?」


「──先輩の言葉が、時々、心の奥に触れてくるの。意味がわからないのに、涙が出そうになるくらい」


 佐野さんはしばらく黙っていたが、ふっと口角を上げて言った。


「やば、それって……もう“好き”だよ」


 私は、視線をノートに落とした。


 ──でも、きっと先輩は、私のことなんて“後輩の一人”くらいにしか思ってない。


 窓の向こう、雨が少しだけ弱まっていた。


   ***


 ──春。


 まだ肌寒さの残る朝、萌夢は新しいクラスの出席番号を確認しながら、ゆっくりと校舎を歩いていた。


 桜はすでに七分咲き。去年の今ごろは、ただこの場所に立つことすら苦しかったのに。今は、違う。


 少しずつでも、言葉に向き合えるようになった。

 ほんの少しずつでも。


 二年生の教室。新しい名簿の中に、見覚えのある名前を見つけて、萌夢は思わず息をのんだ。


 ──上村春樹うえむら はるき


 同じクラスだった。けれど、彼は何も変わっていないように見えた。


 天然というか、無頓着というか。朝のHRが終わっても、春樹はきょとんとした顔で窓の外を見ていた。まるで、そこに桜の精でもいるかのように。


「……あの人、本当に覚えてないのかな」


 そう呟いた声は、春の風にまぎれて、誰にも届かなかった。


 昼休み。古典研究会の仮部室に顔を出すと、宮沢先輩が深刻な顔をして座っていた。


「新入部員、今年も少なそうなんだよな……。去年の文化祭でちょっとは注目されたと思ったんだけど」


 机には何枚かのラフスケッチと和歌のメモが広がっている。


「だから、ポスターを作ろうと思ってるんだ」


 そう言って彼が見せてきた一枚には、美しい和歌と、なぜかぽっかりと空いた白いスペースがあった。


「この余白……?」


「ちょっとしたデザインさ。まあ、目を引くかどうか分かんないけどな」


 先輩は照れたように笑ったが、どこか不安げでもあった。


 数日後、そのポスターは校内に何枚も掲示された。

 和歌の柔らかい筆文字と余白が印象的な、不思議な雰囲気のポスターだった。


 ──そして、ある日の放課後。


 萌夢が階段の踊り場でふと足を止めると、掲示板の前に立つ生徒が一人。

 見慣れた後ろ姿。そう、春樹だった。


 彼は手にペンを持ち、ポスターの“余白”に何かを書き込んでいた。

 書き終えたあと、何もなかったように立ち去っていく。

 萌夢はそのポスターに近づき、思わず息をのんだ。


 ──そこには、誰の名前もなく、けれど確かに美しい歌がひとつ、記されていた。


   つづく




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