エピソード3「境界の向こう側」
翌朝、俺は寝室からリビングに出ると、ミカがソファに座ったまま深く考え込んでいるのを見つけた。窓の外を見つめて、全く動かずにいる。
「おい、朝から何考えてるんだ?」
ミカがゆっくりと振り返る。いつもより表情が重い。
「……昨日から、記憶の断片が蘇り続けている」
「昨日の話が関係してるのか?」
「……境界を無理に開くことの危険性を、思い出しかけている」
ミカの声がいつもより重い。
「お前、昨日から変だぞ」俺はソファの隣に座った。「無理に思い出さなくてもいいんじゃないか?」
「……でも、止めなければならない」ミカが頭を抱えた。「……あの老人は、取り返しのつかないことをしようとしている」
その時、俺の携帯が鳴った。境谷老人からだった。
「もしもし」
「土田さん、おはようございます」境谷老人の声が興奮していた。「届きました。最後の仮面が」
俺はミカを見た。ミカの表情が強張っている。
「今日、試してみます。ぜひ、お二人にも立ち会っていただきたい」
「ちょっと待ってください」俺が言いかけた時、ミカが手を伸ばしてきた。
「……代わって」
俺は携帯をミカに渡した。
「……境谷さん」ミカの声が真剣だった。「……やめた方がいい」
電話の向こうで境谷老人の声が聞こえる。
「なぜです?危険だとおっしゃいましたが、具体的に何が起こるのですか?」
ミカが長い間黙っていた。
「……両方の世界が、壊れる」
「両方の世界?」
「……境界は、二つの世界のバランスを保っている。それを人為的に開けば、どちらの世界も安定を失う」
電話の向こうで境谷老人が息を呑む音が聞こえた。
「でも、美咲に会えるかもしれないんです」
「……美咲さんだけが来るとは限らない」ミカの声が警告めいていた。「……向こう側には、他の存在もいる」
「他の存在?」
「……今は説明できない。でも、危険なものもいる」
電話が一瞬沈黙した。それから、境谷老人の決意に満ちた声が聞こえてきた。
「それでも、やります。50年間待ったんです」
「……」
「午後2時に来てください。お二人にも見ていただきたい」
電話が切れた。ミカが携帯を俺に返す。
「……間に合わない」
「どうする?」
ミカが立ち上がった。
「……止めに行く」
---
車で境屋に向かう途中、ミカが詳しく説明してくれた。運転しながら聞いていると、だんだん状況の深刻さが分かってきた。
「……境界の向こう側は、別の次元だ」ミカが助手席で外を見つめながら話した。「……時間の流れも、物理法則も違う」
「それで、美咲さんはそこにいるのか?」
「……いるかもしれない。でも、そこに迷い込んだ人間は、通常は戻れなくなる」
「通常は?」
「……例外もある。私のように」ミカが振り返った。「……実は、私は元々境界の管理者だった」
俺は思わずハンドルを握る手に力を込めた。
「管理者?」
「……境界の安定を保つのが、私たちの役目だった。でも」ミカが頭を押さえた。「……何らかの理由で、こちら側に留まることになった」
「何があったんだ?」
「……まだ思い出せない。でも、重要な何かを忘れている」
信号で止まった時、俺はミカを見た。
「で、境界を開くとどうなるんだ?」
「……最初は小さな裂け目ができる。そこから向こう側の存在がこちらに来ることができる」ミカの声が暗くなった。「……でも、裂け目は次第に大きくなる。そして、制御できなくなる」
「制御できなくなったら?」
「……両方の世界が混ざり合う。物理法則が破綻し、時間も空間も不安定になる」
俺は背筋が寒くなった。
「それって、世界の終わりじゃないか?」
「……そうかもしれない」
信号が青になり、俺は再び車を走らせた。
「なあ、ミカ」
「……何?」
「お前がその管理者だったなら、境界を閉じることもできるのか?」
ミカが長い間黙っていた。
「……分からない。記憶が曖昧だ。でも、やってみるしかない」
境屋に到着すると、店の前に見慣れない箱が置いてあった。相当大きな箱で、海外からの航空便のラベルが貼ってある。
「南米からか」俺が呟くと、ミカが箱を見つめて身を震わせた。
「……強い力を感じる」
店に入ると、境谷老人が興奮した様子で迎えてくれた。
「来てくださったんですね。ありがとうございます」
店内の様子が昨日と違っていた。仮面が何枚か壁から外され、奥の部屋に運ばれているようだった。
「準備はできているんですか?」俺が聞いた。
「はい。奥の部屋に祭壇を作りました」境谷老人が案内する。「ミカさんにも見ていただきたい」
奥の部屋に行くと、俺は息を呑んだ。
部屋の中央に、円形の祭壇が作られていた。古い石を組み合わせて作ったらしく、中央には昨日見た未完成の仮面が置かれている。そして、祭壇の周りには世界各国の仮面が等間隔で並べられていた。
「すげぇな」俺が感嘆すると、ミカが前に出た。
「……これは、50年前に美咲さんが消えた祭壇と同じ構造だ」
「そうです」境谷老人が誇らしげに答えた。「文献を参考に、できる限り忠実に再現しました」
ミカが祭壇の周りを歩きながら、仮面を一つ一つ確認している。
「……アフリカの精霊仮面、ヨーロッパの死者仮面、日本の境界仮面、そして」ミカが最後の箱を見つめた。「……南米の時間仮面」
「時間仮面?」俺が聞いた。
「……時の流れを操る仮面。これがあることで、境界の向こう側との時間的なずれを調整できる」
境谷老人が箱を開けた。中には、金色の複雑な文様が刻まれた石の仮面が入っていた。見ているだけで目眩がしそうになる。
「これで全て揃いました」境谷老人が仮面を祭壇に置いた。「50年間、これを集めるために生きてきました」
ミカが祭壇を見つめている。
「……まだ間に合う。やめてください」
「いえ」境谷老人が首を振った。「美咲に会えるかもしれないんです。これが最後のチャンスです」
境谷老人が祭壇の前に立ち、古い文献を開いた。
「儀式を始めます」
「待て」俺が声を上げた。「本当に大丈夫なのか?」
「……やめろ」ミカも強い口調で言った。「……取り返しのつかないことになる」
しかし、境谷老人は聞かなかった。文献を読み上げ始めた。
最初は何も起こらなかった。ただの古い呪文を読んでいるだけのように見えた。
しかし、途中から空気が変わった。
部屋の温度が急激に下がり始めた。そして、壁にかかっていた時計が逆回転を始めた。
「おい、これヤバくないか?」俺が言った時、祭壇の中央で何かが起こった。
空間に小さな「ひび」のようなものが現れた。
最初は髪の毛ほどの細い線だったが、だんだん大きくなっていく。
「……裂け目が開き始めた」ミカが呟いた。
ひびの向こう側から、白い霧のようなものが漏れ出してきた。そして、霧の向こうに人影が見えた。
「美咲?」境谷老人が震え声で呼んだ。
人影がゆっくりとこちらに近づいてくる。若い女性のシルエットだった。
「美咲、本当に美咲なのか?」
しかし、同時に異変が店全体に広がり始めた。置いてあった商品の仮面が勝手に宙に浮き始め、壁にかかっていた時計が全て違う時刻を指すようになった。
「……これ以上は危険だ」ミカが警告した。「……閉じなければならない」
「いえ、もう少しです」境谷老人が続ける。「美咲に会えるんです」
裂け目がさらに大きくなった。今度は人の頭ほどの大きさになっている。
そして、向こう側から美咲らしき女性の姿がはっきりと見えてきた。50年前の写真と同じ顔をしていた。年を取っていない。
「美咲!」境谷老人が手を伸ばした。
しかし、その時、ミカが急に身を震わせた。
「……まずい」
「何が?」俺が聞いた。
「……美咲さんの後ろに、何か別のものがいる」
俺も裂け目を見つめた。確かに、美咲の後ろに別の影がいるような気がする。
「……向こう側から来ようとしているのは、美咲さんだけではない」
その時、店の窓ガラスが全て割れた。
外から見ていた車のサイドミラーに映る景色が、現実とは違う風景になっていた。
「これ、本当にヤバくない?」俺が焦った。
裂け目はさらに広がり続けている。もう大人が通れるほどの大きさになっていた。
そして、向こう側から何かがこちらに向かって来ている。
美咲だけではない。
他の何かも。
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