エピソード5「心を通わせる料理」


 ディナータイムが始まって間もなく、例の常連客がやってきた。60代後半くらいの男性で、落ち着いた雰囲気だが、どことなく厳格な印象を受けた。


「いらっしゃいませ」


 香織が丁寧に迎える。男性は一人でテーブルに着くと、いつものようにワインを注文した。


 厨房では、桐山シェフが通常のメニューを作りながらも、時々冷蔵庫の方を気にしている。休憩時間中に作った特別な料理のことを考えているのだろう。


 しばらくして、前菜が運ばれた。俺が皿を置くと、男性は軽く頷いた。


「今日は、シェフからの特別なお料理もご用意しております」


 香織がそう伝えると、男性は少し興味深そうな表情を見せた。


「特別な料理?」


「はい。昨日のご意見を受けて、シェフが心を込めて作らせていただきました」


 男性は何も言わずに前菜を口に運んだ。その表情を見ているだけで、料理を厳しく評価していることがわかる。


 メインディッシュが運ばれ、そしてついに桐山シェフの特別な料理の番がやってきた。


 俺が厨房を覗くと、桐山シェフが最後の仕上げをしていた。その手つきは休憩時間中よりもさらに丁寧で、まるで祈りを込めているかのようだった。


 ミカも厨房の端で、じっとその様子を見守っている。


「……今度こそ、心が届く」


 ミカが小さく呟いた。


 桐山シェフが完成した料理を俺に渡した。皿の上には、見た目はシンプルだが、言いようのない美しさを持った一品が載っている。


 俺がその皿を男性のテーブルに運ぶと、男性は最初少し驚いたような表情を見せた。


「これは……」


 料理から立ち上る香りに、男性の表情が変わった。


 男性は慎重にフォークを取り、一口食べた。


 その瞬間、男性の目が見開かれた。


 そして、もう一口、また一口と、丁寧に味わいながら食べ続けた。


 やがて男性は皿を置き、深く息をついた。そして、静かに手を挙げて俺を呼んだ。


「シェフにお伝えください」


 男性の声は、昨日とは全く違っていた。


「これは……今まで食べた中で最高の料理です」


 俺は急いで厨房に戻り、香織を通じてそれを桐山シェフに伝えた。


 桐山シェフの顔に、安堵と喜びの表情が浮かんだ。


 男性はその後、桐山シェフに直接会いたいと申し出た。


 桐山シェフが客席に出ると、男性は立ち上がって深く頭を下げた。


「昨日は失礼なことを申しました」


 男性は真剣な表情で続けた。


「この料理を食べて、わかりました。あなたの料理には、確かに魂が込められている」


 香織が手話で通訳すると、桐山シェフも深く頭を下げた。


「料理とは技術だけではない。心が大切だということを、改めて教えていただきました」


 男性は桐山シェフの手を握った。


「これからも、このような素晴らしい料理を作り続けてください」


 桐山シェフは涙を浮かべながら頷いた。


 男性が帰った後、俺たちは最後の営業を続けた。桐山シェフの表情は完全に変わっていた。自信を取り戻し、料理への情熱を新たにしているのがわかる。


 夜10時、ついに営業が終了した。最後のお客様を見送ると、俺たちは三日間のバイトを終えることになった。


「本当にお疲れ様でした」


 香織が俺たちに頭を下げた。


「こちらこそ、良い経験をさせていただきました」


 桐山シェフも出てきて、手話で感謝の気持ちを伝えてくれた。


「とても勉強になりました、とおっしゃっています」


 そして、桐山シェフはミカの前に立って、深く頭を下げた。


「ミカさんには特別に感謝していますとおっしゃっています」


 ミカは軽く頷いた。


「……料理には言葉はいらない。心があれば十分」


 桐山シェフはその言葉を聞いて(聞こえないはずなのに理解して)、深く頷いた。


 最後の片付けを終えて、俺たちは制服を脱いだ。


「あの時のお話の件なんですが……」


 香織が俺に声をかけてきた。カフェでの告白の続きのことだった。


「実は、今日のことを見ていて思ったんです」


 香織は少し照れたような表情を見せた。


「土田さんとミカさんの関係って、とても素敵ですね」


「関係って?」


「お互いを理解し合ってる。言葉にしなくても、相手のことがわかってる」


 香織は微笑んだ。


「私が求めていたのは、恋愛というより、そういう深い繋がりだったのかもしれません」


 俺は少し驚いた。


「でも、私にはまだその準備ができてないみたいです」


 香織は少し寂しそうに、でも清々しい表情で続けた。


「もう少し、自分自身と向き合ってから、また誰かと深い関係を築きたいと思います」


「そうですか……」


「でも、もしまた機会があれば、お友達として、お食事でもしませんか?」


「ええ、ぜひ」


 俺は素直にそう答えた。香織は魅力的な女性だが、確かに俺が求めているのは恋愛関係ではないのかもしれない。


 店を出て、俺たちは夜の街を歩いた。


「お前の提案で、桐山シェフが救われたな」


「……あの人は最初から答えを持っていた。少し背中を押しただけ」


「そういうもんか?」


「……人は皆、自分の中に答えを持っている。それを信じることができれば、道は開ける」


 またミカの哲学的な発言だ。でも、今回は妙に説得力があった。


「お前って時々、妙に人生について深いことを言うよな」


「……そうか?」


 ミカは首をかしげた。


「記憶がないはずなのに、なんでそんなことがわかるんだ?」


「……わからない。でも、心の奥から湧いてくる」


 不思議な奴だ。記憶喪失なのに、人の心の機微については異常に敏感だ。


 家に着くと、俺は改めて3日間を振り返った。


「充実した3日間だったな」


「……そうだ」


「次はどんなバイトにしようか?」


「……何でもいい」


 ミカの答えは相変わらず素っ気なかったが、どことなく満足そうに見えた。


 ベッドに入ってから、俺は香織のことを考えた。結局、恋愛関係にはならなかったが、それで良かったのかもしれない。


 そして、桐山シェフとミカの不思議な交流のことも考えた。言葉を超えたコミュニケーション。料理を通じた心の交流。


 俺とミカの関係も、それに似ているのかもしれない。言葉では説明できない、でも確かに存在する繋がり。


「お前がいると、確かに楽しいな」


 俺が呟くと、隣の部屋からミカの声が聞こえた。


「……私もそう思う」


 短い答えだったが、それで十分だった。


 明日からまた、新しいバイトを探そう。ミカと一緒に、また新しい体験をしよう。


 そんなことを考えながら、俺は深い眠りについた。


 「ル・シルク」での3日間は終わったが、その体験は俺たちの中に深く刻まれていた。料理を通じて人の心に触れること、言葉を超えたコミュニケーションの大切さ、そして、互いを理解し合うことの意味。


 短期バイトとは思えないほど、濃密な時間だった。

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