エピソード5「次元の修復」
赤い扉を開けた有樹の目の前に広がっていたのは、もはや「部屋」と呼べるようなものではなかった。
そこは広大な空間。床も天井も壁もなく、ただ色とりどりの光が流れるような空間が無限に続いていた。遠くには歪んだ建物の断片や、木々の一部、海の切れ端のようなものが宙に浮かんでいる。まるで現実の欠片を集めたコラージュのようだった。
そして、その中心に立っていたのはミカだった。
「ミカ!」
有樹は呼びかけたが、声が届いているのかさえ分からない。彼の足元には床らしきものがあるが、一歩踏み出すたびに、それは水面のように波紋を描いた。
慎重に歩を進め、ようやくミカに近づくことができた。
「ミカ、無事か?」
ミカは振り返った。その表情は普段と変わらない無表情に見えたが、有樹にはかすかな緊張が伝わってきた。
「……ここは不安定」
「萩原から聞いた。この場所は次元の裂け目なんだってな」
ミカは小さく頷いた。
「倉田さんはどこだ?」
ミカは右手を上げ、空間の一角を指さした。有樹が目を凝らすと、遠くに小さな人影が見えた。倉田らしき姿が、半透明の泡のような空間の中に閉じ込められている。
「助けられるのか?」
「……修復すれば」
その時、空間に新たな波動が走った。赤い扉の方から、萩原が入ってきたのだ。老人の手には、これまで見た奇妙なコレクションのいくつかが抱えられていた。
「間に合いましたか」萩原は息を切らしながら近づいてきた。「裂け目はもう限界です。今すぐ安定化させないと」
「どうすればいい?」有樹は尋ねた。
「私のコレクションは全て、この裂け目から漏れ出した現実の欠片です」萩原は説明した。「これらを特定の配置で置くことで、裂け目を縫い合わせることができます。しかし、それだけでは足りない。触媒が必要なのです」
そして彼はミカを見つめた。
「あなたの存在が、次元の狭間を安定させる力を持っています。どうか、力を貸してください」
ミカは静かに萩原を見つめ、そして有樹の方を向いた。問いかけるような眼差し。
「頼む、ミカ」有樹は言った。「倉田さんを助けるためにも」
ミカは無言で頷き、空間の中心へと歩き始めた。萩原も有樹も彼の後に続いた。
「まず、これらのアイテムを特定の位置に配置します」
萩原の指示に従い、三人はコレクションの品々を空間内の特定の場所に置いていった。生きた蝶の標本、未知の文字で書かれた本、常に変化する硬貨…それらは置かれるやいなや宙に浮かび、光を放ち始めた。
「次に、私がこの装置を作動させます」
萩原は小さな機械を取り出し、中央に置いた。装置から放たれる光がコレクションの品々を結び、網目状の光のパターンを形成していく。
「最後に…」萩原はミカに向き直った。「あなたの力が必要です」
ミカは静かに装置に手を伸ばした。その瞬間、彼の周囲から白い光が放たれ、空間全体を包み込み始めた。
「ミカ!」
有樹は思わず叫んだ。ミカの体が光に溶け込んでいくように見えたからだ。
しかし、それは錯覚ではなかった。ミカの存在そのものが、次元の修復に使われている。彼の輪郭がぼやけ、光の粒子となって空間に広がっていく。
「待ってくれ!」有樹は萩原に詰め寄った。「ミカはどうなる!?」
「心配いりません」萩原は落ち着いた声で言った。「彼は消えるわけではありません。むしろ、彼の本質が一時的に拡散し、裂け目を修復しているのです」
有樹は不安を抱えながらも、光に包まれていくミカを見守るしかなかった。空間内の振動が強まり、浮かんでいた現実の欠片たちが光の糸で繋がれていく。
そして突然、まばゆい閃光が空間を満たした。
「目を閉じて!」
萩原の声が聞こえた瞬間、有樹は目を閉じた。それでも、まぶたの裏に光が焼き付くほどの明るさだった。
時間の感覚が失われたような気がした。どれくらい経ったのだろう。数秒?数分?
徐々に光が弱まり、有樹は恐る恐る目を開けた。
そこはごく普通のマンションの一室だった。天井、壁、床。家具も通常の配置で並んでいる。異次元の空間は消え、彼らは現実世界に戻ってきたようだった。
「成功しました」
萩原の声が聞こえた。老人は疲れた様子だったが、安堵の表情を浮かべていた。
「倉田さんは?ミカは?」
有樹が問うと、背後からくぐもった声が聞こえた。
「なんだか、ちょっとトイレで迷っちゃって…」
振り返ると、そこには倉田が立っていた。普通の様子で、特に怪我や混乱した様子はない。
「あ、ミカくんも戻ってきたのね」
倉田の言葉に、有樹は急いで周囲を見回した。そこにはミカが立っていた。以前と変わらぬ姿で。だが、有樹には何かが違うと感じられた。ミカの目に、これまで見たことのない深みがあった。
「……名もなき者」
ミカが有樹を見つめながら呟いた。いつもの呼び方だが、その声音には微かな温かみがあるように感じられた。
「無事で良かった」有樹は安堵のため息をついた。
萩原が二人に近づいてきた。
「お礼を言わせてください」彼は深々と頭を下げた。「あなた方のおかげで、裂け目は安定化し、私のコレクションも守られました」
「何が起きていたんですか?」倉田が不思議そうに尋ねた。「私、トイレに行ったきり、変な場所に迷い込んじゃって…」
「少し複雑な配管工事をしていて」萩原は柔らかく微笑んだ。「ご迷惑をおかけしました」
有樹は萩原と目を合わせた。彼らの間には、今日起きた本当の出来事についての暗黙の了解があった。倉田にその真実を知らせる必要はない。
「さて、そろそろ荷物の移動を完了させましょうか」萩原は話題を変えた。
不思議なことに、荷物の量は当初予定されていたものに戻っていた。無限に増えていた部屋や異次元のコレクションは、裂け目の修復とともに通常の量と姿に戻ったようだ。
三人は残りの作業を予定通りに終え、萩原の新居—こちらは完全に普通のマンション—への搬入も問題なく完了した。
「お疲れ様」
最後に萩原は三人に深々と頭を下げ、予定の3倍の報酬を手渡した。「特別な仕事でしたから」
「わぁ、ラッキー!」倉田は目を輝かせた。「じゃあ今日は打ち上げしましょう!私がおごります!」
彼女の明るい声に、有樹も思わず笑みを浮かべた。
「行くか、ミカ」
ミカはわずかに頷いた。
倉田が先に立って歩き出す中、萩原は有樹とミカに近づき、小声で言った。
「彼は…特別な存在ですね」
有樹は何も答えなかった。
「私は長年、次元の裂け目を研究してきて、様々な現実の断片を見てきました。しかし、彼のような存在は初めてです」
「何が言いたい?」
「彼は、この世界の境界線に立つ者」萩原は静かに言った。「天使とでも呼ぶべき存在かもしれません」
有樹は黙ったまま、ミカの方を見た。ミカも無表情のまま萩原を見つめていた。
「また会える日を楽しみにしています」萩原は最後に言い、二人を見送った。
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「今日は変な一日だったね」
帰り道、居酒屋での打ち上げを終えた後、有樹とミカはマンションへの帰路についていた。倉田とは連絡先を交換し、「次回も一緒に働きましょう!」と約束してきた。
「お前、あの空間で何を感じた?」有樹はミカに尋ねた。
「……多くの世界の重なり」
「萩原の言ってた次元の裂け目か」
ミカは小さく頷いた。
「お前が…天使だってことを、あいつは知ってたのか?」
「……知っていた」
有樹は夜空を見上げた。星々が瞬いている。この世界の向こう側には、どんな現実が広がっているのだろう。そして、ミカはそこからやってきたのか。
「お前の記憶は戻った?」
ミカは首を振った。
「……断片だけ」
「そうか」
「……今日のことは、意味がある」
「どんな意味だ?」
「……わからない。でも、感じる」
有樹は苦笑した。相変わらず謎めいた話し方だ。だが、今日の経験を経て、彼はより一層ミカの存在の特異性を実感していた。
「とにかく、次からは普通のバイトにしよう」有樹は呟いた。「引っ越しなんて二度とごめんだ」
ミカはわずかに首を傾げた。
「……アイスが食べたい」
「はいはい」有樹は笑い、コンビニに向かって歩き始めた。天使だろうが何だろうが、ミカのアイス好きだけは変わらない。それがどこか安心感を与えた。
異次元の体験を経ても、彼らの日常は続いていく。そして、おそらくまた次の「奇妙なバイト」が二人を待っているのだろう。
有樹はそう思いながら、ミカと並んで夜の街を歩いた。
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