エピソード2「クレーンの予感」

倉庫の奥へと歩いていく間、有樹はミカの様子が気になった。普段から表情の変化が少ないミカだが、クレーンを見た瞬間から、わずかに眉間にしわを寄せていた。「名もなき者」と呼ばれるのを嫌がる有樹だが、ミカが自分の名前を呼んだことはこれまで一度もなかった。そして先ほど、佐藤の質問に「有樹...ではない」と言いかけて黙ったのが気になっていた。


「おい、ミカ。さっき何て言おうとしたんだ?」


有樹は声を潜めて尋ねた。ミカは相変わらずクレーンを見つめたまま、小さく首を振った。


「...」


「まあいいや。とにかく、さっきも言ったけど、何か変なことしないでくれよ。普通のバイトってことを忘れるな」


山下が振り返った。「何か問題でも?」


「いえ、なんでもないです」


有樹は苦笑いで誤魔化した。彼らがクレーンの近くに到着すると、佐藤が操作パネルの前で待っていた。


「来てくれたんだね!ここの作業を手伝ってもらうよ。基本的には、クレーンで上の棚から荷物を降ろして、種類別に分けるだけだから簡単だよ」


佐藤は明るく説明した。クレーンは倉庫の天井近くまで伸びる巨大な機械で、上部には重い荷物を掴むための金属製のアームがついていた。


「このクレーン、ずいぶん古いですね」


有樹が言うと、山下は少し表情を曇らせた。


「ええ、十年以上使っているものです。新しいのを入れる予算がなくて...でも、まだ十分使えますよ」


山下はそう言いながらも、どこか不安そうな様子だった。佐藤は操作パネルを指差しながら有樹に説明を始めた。


「クレーンの操作は簡単だよ。このレバーで上下、こっちで左右に動かせるんだ。ちょっと古いから、反応が遅いけどね」


有樹は「わかった」と頷き、操作パネルに向かった。ミカは相変わらず無言で、クレーンを見上げている。佐藤がミカに近づいた。


「ミカさん、大丈夫?なんだか心配そうな顔してるよ」


「...異物が混入している」


「え?異物?」


佐藤が困惑していると、有樹が慌てて「機械が気になるみたいでな。昔から変わったやつなんだ」と言い訳した。


佐藤は「へー、機械に詳しいの?」と尋ねたが、ミカは答えず、クレーンの鎖を指差した。


「あそこが...弱い」


山下が顔を上げてクレーンを見た。「どこですか?」


「鎖の接続部分...」


ミカの言葉に、山下は目を細めて見上げた。「確かに少し錆びているようですね。でも、定期点検は受けているから大丈夫ですよ」


有樹はミカを少し離れた場所へ連れて行き、小声で言った。「お前、変なこと言うなよ。人を不安にさせるだけだろ」


「...見えているものを言っただけ」


「まあ、お前には見えるのかもしれないけどさ」


有樹は深く考えないようにして、作業に戻った。佐藤の説明通り、クレーンの操作は基本的には簡単だった。レバーを操作して、荷物を持ち上げ、指定された場所に移動させる。しかし、古い機械特有の反応の遅さがあり、コツをつかむまでに時間がかかった。


一時間ほど経過し、有樹も作業に慣れてきた頃、管理事務所から木村という女性が降りてきた。三十代半ばくらいの、落ち着いた雰囲気の女性だ。


「お疲れ様です。短期の方ですね」


「はい、土田です。今日からお世話になります」


有樹が挨拶すると、木村はミカにも目を向けた。「こちらの方は?」


「親戚の者です。ミカと言います」


「ミカさん...珍しい名前ですね」


木村はミカをじっと見ていた。有樹はいつものように「ちょっと変わった子で」と説明しようとしたが、木村は「いいえ、気にしないでください」と微笑んだ。


「クレーンの調子はどうですか?」木村は山下に尋ねた。


「まあ、いつも通りですよ。少し動きが鈍いですが」


「そうですか...」木村は少し心配そうな表情を浮かべ、「実は監視カメラで見ていたんですが、上の方の鎖が気になって」と言った。


ミカが黙って木村を見つめる。木村も不思議そうにミカを見返した。一瞬、二人の間に何かが流れたような気がした。


「木村さん、実はミカも同じこと言ってたんだよ」佐藤が口を挟んだ。「鎖の接続部分が弱いって」


「そうなんですか?」木村は驚いた様子でミカを見た。「よく気がつきましたね。私も監視カメラで見ていて、同じところが気になっていたんです」


山下は少し困った表情で「定期点検は受けてますし...」と言いかけたが、木村は「念のため、明日専門業者に見てもらいましょう」と言った。


「そうですね、安全第一ですから」


山下は渋々同意した。有樹はミカの予知能力なのか、単なる偶然なのか、判断しかねていた。


作業を再開し、有樹がクレーンを操作していると、佐藤が再びミカに話しかけた。


「ねえ、ミカさん。すごいね、よく気がついたね。機械とか詳しいの?」


「...見えるだけ」


「見える?普通の人には見えないってこと?」


佐藤の質問に、ミカは少し首を傾げた。「普通の...人間には」


その言葉に佐藤は笑った。「なんだか不思議な言い方するね。まるで自分が人間じゃないみたいだ」


有樹は内心「まさにその通りなんだけどな」と思いながらも、笑顔を作った。


作業が続く中、休憩時間が訪れた。山下が「皆さん、お疲れ様です。ちょっと休憩しましょう」と声をかけた。


倉庫の休憩スペースには自動販売機があり、有樹はコーヒーを買った。ミカは自販機をじっと見ている。


「何か飲むか?」


「...アイス」


「アイスかよ。また甘いもの...」


有樹は呆れながらも、自販機でアイスクリームを買ってミカに渡した。ミカは無言でアイスの包みを開け、食べ始めた。佐藤がそれを見て笑顔になった。


「ほんとにアイス好きなんだね!いいな、素直で」


「お前、こいつのどこが素直に見えるんだ...」と有樹は思ったが、黙っていた。


休憩スペースに木村も加わり、自販機でお茶を買った。


「土田さん、普段はどんなお仕事を?」木村が自然な感じで話しかけてきた。


「いや、特に決まったことはやってなくて...」


「あ、すみません。失礼な質問でしたか」


「いえ、そんなことはないです。実は若い頃に起業して、会社を売却したんです。今はのんびりしながら、たまにバイトする程度で」


「へえ、そうだったんですか。若くして成功されたんですね」


会話が続く中、木村はときどきミカの方を見ていた。有樹はそれに気づき、「何か気になることでも?」と尋ねた。


「いえ...ただ、ミカさんが何かに集中しているみたいで」


確かに、ミカはアイスを食べながらも、何か遠くを見つめるような表情をしていた。有樹が視線の先を追うと、それはクレーンに向けられていた。


「ミカ、まだ気になるのか?」


「...何かがいる」


その言葉に、休憩スペースの空気が一瞬凍りついた。


「いる...って、何が?」佐藤が不安そうに尋ねた。


「...悪意」


木村の表情が変わった。「ミカさん...あなた、見えるんですか?」


「見える...というより、感じる」


山下が大きくため息をついた。「やはり...」


有樹は状況が理解できず、「何の話をしてるんですか?」と尋ねた。


山下は周りを見回すと、声を潜めて話し始めた。


「あのクレーン、実は十年前に事故があったんです。操作していた従業員が突然意識を失って、落下した荷物の下敷きになりかけたんです。幸い大怪我で済みましたが...」


「それが、あのクレーンのせいだと?」


「いや、そんなはずはないんですが...」山下は言葉を濁した。「でも、以来、不思議なことが何度かあって。操作中に急に冷たくなったり、レバーが勝手に動いたように感じたり...」


「都市伝説みたいな話ですね」有樹は半信半疑だった。


「そうなんです。倉庫の噂話みたいなものです」山下は笑って誤魔化そうとしたが、その目は笑っていなかった。


木村はミカを真剣な表情で見つめていた。「ミカさん、あなたは本当に何か感じているんですか?」


ミカはただ頷くだけだった。有樹は状況を収めようと「ミカは子供の頃から勘が鋭くて。ちょっと変わってるけど、気にしないでください」と言った。


休憩時間が終わり、作業に戻る時間になった。有樹はミカを呼んだ。


「お前、変なこと言って騒ぎ立てるなよ。ただの古い機械だ」


「...そうではない。だが、今は黙っている」


有樹はミカの態度に少し安心したが、なぜか胸の奥に不安が残った。


作業場に戻ると、山下が「土田さん、次はあちらの棚の商品を降ろしてください」と指示した。


「はい、わかりました」


有樹は再びクレーンの操作パネルに向かった。佐藤はミカと一緒に、降ろされた荷物を仕分ける担当になった。


「ミカさん、さっきの話、ホントに何か感じてるの?幽霊とか?」


佐藤の質問に、ミカは「幽霊...ではない。でも、怒りがある」と答えた。


「怖いこと言わないでよ...」佐藤は少し青ざめた。


有樹はクレーンを操作しながら、ミカの様子を気にしていた。確かに彼は「天使」と言われる存在で、不思議な能力を持っている。しかし、今までこういう反応を見せたことはなかった。


操作に慣れてきたとはいえ、やはりクレーンの動きは鈍く、レバーを動かしてから実際に機械が反応するまでにタイムラグがあった。有樹は注意深く、高い棚からパレットを持ち上げる作業を続けた。


「次のパレットを降ろします」有樹が声をかけると、山下と佐藤が「了解」と応じた。


しかし、レバーを操作した瞬間、有樹は違和感を覚えた。いつもよりも反応が遅く、クレーンのモーターから異音が聞こえた。


「おかしいな...」


有樹が呟いた時、クレーンのアームが小刻みに震え始めた。


「山下さん、これ...」


言葉が終わらないうちに、クレーンの動きが急に加速した。アームが予想外の方向に動き、持ち上げていたパレットが大きく揺れ始めた。


「危ない!」


山下の叫び声が倉庫内に響いた。有樹はパニックにならないよう、冷静にレバーを操作しようとしたが、機械はもはや彼の制御に応じなかった。


「みんな、下がって!」


有樹は叫んだ。佐藤は慌てて後ずさり、ミカは静かに状況を見つめていた。


そのとき、倉庫の天井付近で金属音が響いた。クレーンの鎖が、ミカが指摘していた接続部分で、ゆっくりと裂け始めていた。

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